原文

三年正月一日夜、遣旅世雄・張椿將水手三十五人駕船往源漳灘、劫燒虜寨。奪渡船三隻。



三年正月一日夜、旅世雄・張椿をつかはし、水手三十五人をもつて駕船して源漳灘に往き、りよさいけふせうせしむ。渡船三隻を奪ふ。




三日早、虜人自城南漁梁平一帶推擁炮座及鵝車・洞子等攻具、一日不斷、徑抵城之東南。炮架皆九梢・七梢、共十餘座、專攻東南隅敵樓。炮石背重四五十斤、擊中樓櫓無不損者。公遂用牛馬皮造作皮簾、掛樓櫓之上、以禦炮石。


緣虜人炮座盡用生牛皮蒙護、拽炮人在內、矢石不能入。仍置車輪推轉往來、樣製突兀、每炮一座、如屋數間。鵝車・洞子亦是牛皮蒙護、洞子相接直至濠邊、約長里許於內搬傳填濠土布袋・草牛・竹木等物。前列步人、執牌遮身、以射守城官兵、四向擺列、不可計數。


自卯時城上下矢石交戰、至夜、虜人攻城愈急、軍馬不退。公即差敢勇千餘人、於當日半夜各持短兵、仍負草一束、潛出小北門、由羊馬牆分為兩頭領、一項自東門吊橋出、一項自南門吊橋出、合頭徑至虜人炮人、舉火發喊、城上亦發喊擂鼓、仍用霹靂炮打出城外。

虜人驚惶失措、人馬奔潰、每炮下拽炮番軍約二百餘人、皆為官兵所殺。仍生擒到謀克王通等八人、及奪到器甲鞍馬等、死傷約二千餘人、盡將虜人炮座・洞子臨城燒毀、至晩煙焰不絕。



三日早、虜人、城南の漁梁平一帶り炮座及び鵝車・洞子等の攻具を推擁して、一日斷えず、ただちに城の東南にいたる。炮架、皆、きうせう・七梢、あはせて十餘座なり、もつぱら東南隅の敵樓を攻む。炮石、背重四五十斤なれば、擊中せる樓櫓、損なはざる者無し。公、遂に牛馬の皮を用ゐて皮簾を造作し、樓櫓の上に掛け、以て炮石をふせぐ。


虜人の炮座、ことごとく生牛皮を用ゐて蒙護するにりて、えいはう人、內に在り、矢石、く入らず。りて車輪を置きて推轉して往來するに、樣、とつこつを製し、炮一座ごとに、數間を屋するが如し(*1)。鵝車・洞子もまた、是れ牛皮もて蒙護し、洞子、あひぎてただちに濠邊に至り、長里をつづめ、內に於ひて填濠の土布袋・草牛・竹木等物を搬傳するを許す。前列の步人、牌を執りて身を遮り、以て守城の官兵を射るに、四向のはいれつ、計數すべからず。


卯時り城の上下、矢石交戰し、夜に至り、虜人の攻城、愈々いよいよ急にして、軍馬、退かず。公、すなはち敢勇千餘人を差し、當日半夜に於ひて各々おのおの短兵を持ち、仍りて草一束を負ひ、潛かに小北門よりで、やうしやうに由りて分かちて兩頭領と為し、一項、東門吊橋自り出で、一項、南門吊橋自り出で(*2)、合頭して徑ちに虜人の炮人に至り、舉火して發喊し、城上も亦、發喊擂鼓し、仍りてへきれきはうもつて城外に打出す。


虜人、驚惶失措し、人馬奔潰し、每炮下の拽炮番軍約二百餘人、皆、官兵の殺す所と為る。仍りて謀克王通等八人を生擒し到り(*3)、及び器甲・鞍馬等を奪到し、約二千餘人を死傷し、盡く虜人の炮座・洞子の城に臨むを將て燒毀し、晩に至るも、煙焰、絕えず。



――――――――――



(*1)

數間


「間」は、一定の面積を持った空間を表す。日本における「間(けん)=六尺」のようにキッチリした取り決めはない。



(*2)

吊橋


 一般的なタイプ(対岸に渡れるタイプ)の吊り橋ではないはず。直後の段に、小船を用いた浮き橋を架けて対岸に渡る描写がある。


 超訳文では「桟橋」とした。襄陽が臨戦態勢に入る前には各門に浮き橋が架かっていたはずなので、その足場となる部分だろうか。


 羊馬牆は、城壁外にあり、濠の縁に築かれた土塁。



(*3)

生擒し到り


「到」に「到着する」という意味はない。「やってやったぜ」的なニュアンス。「奪到」ならそのまま熟語にできるが、「生擒到」はできないので、書き下し文が何かしっくりこない。

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