原文

二十二日夜、果於城東南擂鼓發喊、城中屋瓦皆震。公令城上益加嚴備、毋得喧嘩。既曉、禱城隍諸廟、以虜犯襄漢殘害生靈、願求天助趕逐退卻。



二十二日夜、果たして城の東南に於ひてらいはつかむし、城中の屋瓦、皆、震ふ。公、城上をして益加して嚴備し、喧嘩を得るをからしむ(*1)。既にげうし、城隍諸廟にいのるに、虜の襄漢を犯して生靈を殘害するを以て、願ひてかんちく退たいきやくに天助あるを求む。




二十三日夜、虜鼓噪之聲漸近。夜半、雷電大震、加以雨雹、喊聲遂遠。



二十三日夜、虜の鼓噪のこへやうやく近し。夜半、雷電大震し、加ふるに雨雹を以てし、喊聲、遂に遠し。




明日果不攻城。豈非精誠所禱、感格而然。自此、每夜發喊、莫曉其意。及得被擄人回、云「虜專喊東南、欲空西邊、示圍師必闕之意」



明くる日、果たして攻城せず。に精誠にいのる所、感格してしかるに非ざらんや(*2)。此れり、每夜發喊するも、其の意を曉らかにするし。及び被擄人のかへるを得るに、云へらく、「虜、もつぱら東南にさけび、西邊を空けんと欲す。圍師必闕の意を示す」




二十五日夜、遣張聚・劉畋將敢勇四十三人至虎頭山劫寨。見虜賊二百餘人、趕殺敗走。



二十五日夜、張聚・りうでんつかはし、敢勇四十三人をひきゐて虎頭山に至りてさいけふせしむ。虜賊二百餘人、かんさつして敗走するを見る。




二十八日、遣廖彥忠・路世忠將敢勇軍百二十人出東門劫寨、至大悲寺、燒雲梯百餘連。見虜賊大寨之外有小寨、約二百餘人。先以弩手把截大寨、叉鐮手直入小寨、殺散虜賊、奪到雲梯・什物等。



二十八日、れうげんちう・路世忠をつかはし、敢勇軍百二十人をひきゐて東門をでてさいけふし、大悲寺に至りて、雲梯百餘連を燒かしむ。虜賊大寨の外、小寨有り、約二百餘人あるを見る。づ弩手を以て大寨をせつし、れんしゆもてただちに小寨に入り、虜賊を殺散し、雲梯・什物等を奪到す。




二十九日夜、遣廖彥忠・路世忠複將所部人出南門劫寨、殺傷甚多。一人就擒、防眾追逐、遂斫首級而還。奪到鞍馬・弓槍刀甲及救回被虜老小六口。


又遣排岸使臣張椿將十四人駕船往源漳灘、燒劫虜寨、奪到虜客船五隻。又往萬山燒寨、奪回被擄老小二十二口、衣甲等物。



二十九日夜、れうげんちう・路世忠をつかはし、複、部する所の人をひきゐて南門をでてさいけふせしむに、殺傷すること甚だ多し。一人就しうきんすれば、ばうしう追逐するに、遂に首級をりて還る。鞍馬・弓槍刀甲を奪到し、及び被虜の老小六口を救回す。


又、排岸使臣張椿を遣はし、十四人を將ゐて駕船して源漳灘に往き、虜寨をせうけふし、虜の客船五隻を奪到せしむ。又、萬山に往きてざいを燒き、被擄の老小二十二口、衣甲等物を奪回せしむ。



――――――――――



(*1)

喧嘩を得るを毋からしむ


 喧嘩は日本語でのニュアンスとは異なる。「喧(かまびす‐し)」と「嘩(かまびす‐し)」がくっついて、たいへん騒がしい様子を表す。言い争ったり殴り合ったりしなくても、喧嘩である。


「毋(な‐し)」は、よく見たら「母(はは)」ではない。前近代の活字では「母」の二点を彫ることが難しかったのか、「毋」と同じ字が使われる場合も多い。文脈からおよそ推測できるが、名詞に使われるときは困る。



(*2)

豈に精誠に禱る所、感格して然るに非ざらんや


 読みづらいぞ、これ。


 どうして熱心に祈ったことで影響されてそのようになった(悪天候によって金軍が退却し、攻城予定日にも攻め込んでこなかった)のではないといえるだろうか、いや、熱心に祈ったことの影響である。


 という方向性で「豈非」と「然」を解釈したが、「禱る」と「雨雹」と「果たして攻城せず」をリンクさせて大丈夫だったんだろうか。


『襄陽守城録』の記載内容がきわめて現実的で、趙萬年の感覚が現代人のそれと非常に近い気がするため、「禱る」にちょっと驚いた次第。忘れていたけれど、彼、八百年前の人だった。

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