十七.十二月二十二日到二十九日。そしてそのまま年が暮れた。
超訳
「十二月二十四日に攻城が計画されている」
その知らせを受けたのが二十一日のこと。タコ金軍の様子を探れば、しつこく攻城兵器の生産を続けているし、着実に戦意を高めている印象もある。
二十二日のことだ。
日のあるうちからタコ金軍が襄陽の東南方面に集まり始めていたんだが、それが夜になっていきなり太鼓や銅鑼を猛烈に打ち鳴らし、凄まじい怒号を発した。
まだけっこうな距離がある上に濠を隔てた城内でも、思わず跳び上がるほどの大音声だった。建物の屋根までビリビリ震えている。
「何だ、あれは?」
驚いたり不安になったりして集まってきた面々を前に、兄貴は普段どおり冷静な態度だった。
「城壁の東隅と南隅の警備を厚くする。が、敵が今すぐ攻めてくる様子はない。あの
兄貴の言葉で、兵士も避難民もいくらか落ち着いた。それでも恐怖がキレイさっぱり消え去るわけじゃない。眠れない者が続出する夜だった。城内の警備にも急遽、人数を増やす。
兄貴が意外なことを言い出した。
「皆で神頼みしてみようか。無事に年越しできますように、と」
「神頼み?
「ああ。城内の廟はここのところ、避難所にしたり武器庫代わりにしたりと、本来とは違う目的で使っているからな。たまには古代の英霊に挨拶しておくべきだろう。
廟へのお参りなんて気休めに過ぎないけど、戦時中の気休めってのはけっこう大事なんだなと、朝日の中で静かに祷りながら思った。
「タコ金軍がやっていることは決して正当ではありません。襄陽を攻め、漢江を犯し、人々を殺害する。許されることではありません。どうか我々に武神の加護を。敵を退け、襄陽を守るための戦いに、武運を恵んでください」
ご利益、あったかもしれない。
二十三日の夜も前夜同様、タコ金軍は大音声を上げながら次第に近付いてきた。ところが、夜半になって天気が崩れ、雷が鳴って
翌日。攻城が計画されていた二十四日。
前夜の大荒れが原因だろう、タコ金軍は攻め寄せてこなかった。城内は警戒を解かなかったけど、ホッとした空気が流れた。
オレは冗談めかして兄貴に言った。
「祷りが天に通じたんじゃないっすか?」
ただし、夜間にタコ金軍が城の東南方面でギャーギャーやるのは続いている。安眠妨害なら、ぐるっと囲んで騒ぎ倒せばいいようなものの、タコ金軍の姿が見えるのは東と南だけだ。
その意図がわかったのは、捕虜にされていた兵士が襄陽に戻ってきて証言したからだった。
「東と南のみに軍勢を置いて騒ぎ、西側を開けているのは、孫子の『囲師必闕』のつもりなんですよ(*2)」
囲師必闕、窮寇勿迫。包囲戦では必ず敵の逃げ道を用意してやり、追い詰められた敵を徹底的な袋叩きにしようとしてはならない。捨て身覚悟の死に物狂いで抵抗されたら、こちらの被害も大きくなるからだ。
孫子の有名な戦略の一つだが、これを聞いた敢勇軍の連中は鼻で笑った。
「水上の道を乗っ取る腕も技もねぇくせに、何が囲師必闕だよ。最初から襄陽の北は包囲を闕いているだろ」
あのさ、「背水の陣」って言葉があるじゃん(*3)? 普通の感覚では、やっぱ、川があったらそこは行き止まりなんだよ。水上を自由自在に駆け回る敢勇軍はかなりの変わり種で、神出鬼没っぷりはタコ金軍にとっちゃ脅威なんだろうな。
そろそろタコ金軍の騒音作戦にも慣れてきた二十五日の夜、敢勇軍の
虎頭山は襄陽の南、約三里に位置し、タコ金軍が兵力を集めつつあるエリアをかすめている(*4)。毎夜の騒音作戦に加担するやつらは戦意が高いのかと思いきや、奇襲に対する備えに抜かりがある感じは以前と変わっていない。
敢勇軍の
「敵情視察を兼ねて、城の東南方面でたむろしてるタコ金軍を直接叩きに行きましょうか?」
「そうだな。地形に詳しい者を中心に編隊を組んで、行ってきてくれ」
「忘年会代わりに、パーッとやってきますよ。食糧や酒も、かっぱらってきますから」
出陣したのは、廖彦忠と路世忠を筆頭に、敢勇軍兵士が百二十人。東門を出て大悲寺に至り、その広い敷地内に置かれていた雲梯百台余りを焼き払った(*5)。
オレも付いていった。タコ金の軍営の様子をこの目で見ておきたかったんだ。
「連中、仕事が早ぇな。デカい寨を、あっという間に造りやがって」
襄陽から目と鼻の先に、居座る気まんまんの大きな寨ができている。その外には小さい寨もわらわらある。
廖彦忠は敢勇軍に号令をかけた。
「まず弩兵部隊はデカいほうの寨をぶっ壊しにかかれ! 敵が箭の勢いに
自身は叉鎌兵部隊を率いる廖彦忠の手にあるのは、長い柄の先に槍の刃と鎌の刃を備えたやつだ。
叉鎌兵が扱う得物は武器というより、農具の発展形で破壊するための道具みたいなゴツい代物が多い。「叉」は
敢勇軍によって寨ごとボコボコにされたタコ金軍は死傷者を多数出しながら逃げ去った。オレたちの戦利品は、
二十九日の夜にも廖彦忠と路世忠のコンビは出陣し、今度は南門方面の寨を破壊しまくってタコ金軍を蹴散らした。
そんな中で一人をつかまえると、そいつの護衛が追い掛けてきたそうだ。名のある武将だったのか。敢勇軍は容赦なくそいつの首級を挙げて帰ってきた。戦利品は馬具付きの馬や武器や鎧。捕虜にされていた年寄りや子どもも、合わせて六人保護した。
それから、排岸使臣の
そんなこんなで慌ただしいまま年越しだ。
「来年には、さっさとタコ金を追い払いたいよな」
オレは白い息を吐きながら、城壁上で仲間たちと並んで濠の向こうを見やる。手には、兄貴が公営倉から振る舞ってくれた酒がある。
タコ金軍はもっと盛大な宴を張っているのかもしれない。遠く近く、あちこちに見える明かりは、敵に包囲されているっていう不気味な状況を示すものに違いないのに、妙にキレイだった。
――――――――――
(*1)
廟
先祖や古代の聖人・賢者・英雄の霊をまつる建物。
十二月三日の記録から城外の廟が金軍の箭の保管庫に使われていたことがわかる。また、十二月十五日以降の記録にあるとおり、城外の寺は金軍が兵器工場にしている。
城内の廟に関してはこの段に記録が残るだけだが、廟や寺は広々とした空間を擁し、収容能力が高いので、戦時下の拠点として活用されたことが推測される。家を壊して避難してきた一般人の居所は、やはり廟や寺ではないか。現代なら学校が担う役割だ。
戦時下の寺社に関して日本人にとって身近な例を挙げると、幕末の京都では、会津藩約一千人が金戒光明寺(地形を活かした要塞風大寺院)に起居し、新撰組が西本願寺の一部を間借りし、新撰組から分離した御陵衛士が高台寺の一角に屯所を構えた。
それら幕末の人々にゆかりのある建物は現存するが、当時の人々が寺社に対していだく「印象」は変化したのだろうなと感じる。現代人より信心深かった半面、神仏に対する遠慮のなさも持ち合わせていた。どんなメンタリティだったのだろうか。
(*2)
囲師必闕
紀元前五百年ごろ、軍事思想家の孫武によって書かれたとされる『孫子』第八、九変篇に見える。内容については、超訳の本文に書いたとおり。
(*3)
背水の陣
紀元前一世紀に司馬遷が編纂した『史記』巻九十二、淮陰侯伝に由来する。もう一歩も後に引けないギリギリの状況。
(*4)
約三里
約一.七キロメートル。
(*5)
大悲寺
不詳。
(*6)
竈の数から概算
テントの数から概算、かもしれない。金軍の兵員や兵器などの数に関しては、趙萬年が「ザッと見た印象」で書いたのではないかと思う。
一方、襄陽勢にまつわる数はいちいち細かい。出撃があるたび、リーダーが誰で何人を率いる、というメモを取っていたのだろう。
(*7)
叉鎌兵部隊
「叉」は、フォーク状の先端と長い柄を持つ用具。魚を突いて獲る道具。さすまた。西洋で言うところのトライデントで、ポセイドンが手にしているアレ。
「鎌」は柄の長い大鎌サイズのものだろう。当然ながら元来は農具。
叉は漁具、鎌は農具だが、戦乱時には武器として用いられた。わざわざ戦闘用に造って扱い方を覚えることとなる刀剣と違い、日常で使い慣れた叉や鎌は戦闘初心者にも振り回しやすい。農民と戦士に明確な区分がなかったことがうかがえる。
敢勇軍、戦い方が毎度ローカルでワイルド。
(*8)
排岸使臣
官職名。排岸使は司農寺(おおよそ農林水産省)に属する役人で、地方から首都に至る水運の管理など(国土交通省の仕事)を担当した。
なお、張椿の下の名前「つばき」は、漢語的には「父性、長寿」などを象徴する花で、儒学思想の上では非常に縁起がよく、男性的な印象を持つ。
花や木にまつわるイメージは文化ごとに異なるので、辞書や事典を引いてみると面白い。中華世界における植物のイメージは漢和辞典を参照。逆に、これを調べずに日本人の感覚でイメージを当てて作品創作をすると、たまに大事故が起こる。
(*9)
源漳灘
ない……。
襄陽の西十里(約五.八キロメートル)にある萬山と同じ方面だろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます