十.十一月二十八日、二十九日。全力で妨害してやった。

超訳

「あれはまずいな」


 兄貴がそう言ったのは十一月二十八日、城壁から外の様子を見晴らしながらのことだった。


 濠を隔てた向こう側はもともと住宅地になっていた。スラムとまでは言わねぇが、まあ若干家格が落ちる感じのやつだ(*1)。


 今回、タコ金が攻めてくるってんで、住民は皆、城内に避難させた。家はすでに敵に焼かれて、茅葺きの屋根や木造の部分は跡形もないんだが、土を固めて建てた倉庫の壁は残っている。


 で、その壁が問題だ。タコ金軍は壁に身を潜めて、城壁を巡回するオレたちを弩で射撃してくる。厄介なこと極まりない。


 襄陽の濠の幅は三十丈ほどあるのは前にも言ったとおりだ(*2)。狙いを付けずにを飛ばすだけなら、このくらいできる弩が多いと思う(*3)。素人が射ても、だ。仰角さえうまく調整できれば、とりあえず箭を敵陣に届けることは可能で、あたるかどうかは運次第なんだけど。


「運悪く巡回中に流れ箭が中って死ぬとか、シャレにならんでしょ」

「身を潜ませるための壁がなけりゃ、対処のしようもある。壁を壊そう」


 出陣を命じられたのは、趙家軍将官の許進。三十人を引き連れて城外に出て、片っ端から壁を壊す。兄貴の代理ってことで、オレも同行した。


 当然と言おうか、タコ金軍も黙っちゃいなかった。地響きを立てて襲ってきたのは騎兵集団。その数、三百を超えるだろう。


「許将官、どうします?」

「やるしかないさ。濠を背に、壁をバリケードにして弩で応戦しろ! 敵の戦術が騎射なら、こちらのほうが射程が長い(*4)。駆け抜けざまに剣を振るう突進戦術は、この状況では使えない。騎兵の機動力など、今は恐れるに足りない!」


 許進の指揮で、三十人の趙家軍は応戦する。

 素人にも弩は撃てると言ったが、慣れた戦士の弩のほうが当然ながら効果的だ。


 弩の弱点は、箭の装填に時間がかかっちまうこと。オレたちは箭を射るタイミングをずらして装填の隙をカバーし合い、攻撃の手を休めない。まっすぐ突っ込んでくるだけの敵なんか、ただの的だ。


 タコ金の騎兵集団はオレたちに有効な攻撃を加えることなく去っていった。戦闘の結果、オレたちが討ち取った死体は五つ。首を刎ねて、その生首を掲げて晒しながら襄陽に帰った。死体のうち二つは、鎧の上に目立つ陣羽織を着ていたから、偉いヤツだったみたいだ。


 趙家軍が軍功を挙げたのと同じころ、敢勇軍も派手に戦って勝った。


 旅世雄とはいけんが率いるほぼ全軍が船で出陣、西の流域にある中洲を部隊にタコ金軍数千人と弓や弩で撃ち合った(*5)。


 敢勇軍は、日が昇って明るくなったたつの刻から夕暮れ時のとりの刻まで戦って、タコ金軍を撃退させた(*6)。そこいらに転がったタコ金軍の死体やケガ人はめちゃくちゃたくさんだった。敢勇軍だって無傷じゃあないが、華々しい大勝利と言ってよかった。


 そして翌日、十一月二十九日。

 敵の陣中に放っていたスパイが、新たな情報をもたらした。


「金賊は東津に浮き橋を架け、物資の輸送を円滑化しようとたくらんでいます(*7)」


 浮き橋ってのは、いかだを山ほど造って水上に浮かべて縄で縛れば出来上がる。タコ金軍は五十万を号するほど人手が有り余っていやがるから、人海戦術の土木工事はとにかくスピードが速い。


 兄貴は即刻、敢勇軍の首脳陣を呼び出して作戦を言い渡した。


「捨ててもいいくらいの古い船を集めてくれ。油と干し草もだ。それから、敢勇軍の中でも特に泳ぎが得意で度胸のあるヤツを推薦しろ」


 旅世雄が兄貴に問うた。わかりそうでわからない、って顔だ。


「船も油も干し草もすぐ用意できますが、趙都統、一体何を考えてるんですか?」

「せっせと浮き橋を造っているタコ金の連中に、心づくしのプレゼントをお見舞いしてやろうと思ってな」


 ほどなくして作戦の準備が整った。


 古い船に干し草を積んで、油をぶっかける。その船を、泳ぎの得意な敢勇軍兵士が、上流から東の渡し場のほうへと漕ぎ進める。


 オレは遠くの岸辺から様子をうかがっていた。


 タコ金軍が、迫り来る干し草だらけの船団に気付く。船は、漕いで得た慣性に従い、流れに乗って、みるみるうちに出来かけの浮き橋へと近付いていく。


 そこで火の手が上がった。船団の干し草が燃え出したんだ。敢勇軍兵士は、船に満載した枯草に火を放った後、即座に漢江に飛び込んで泳ぎ去り、岸に上がって襄陽へと撤退する。


 燃え上がる船団が到達すると、浮き橋にはたちまち火が移った。タコ金軍はパニックを起こし、押し合いへし合いしながら逃げ出す。


 いや、逃げ延びられりゃ上等だが、漢江に突き落とされたカナヅチは浮き上がってこない。味方に踏みつぶされた不運なヤツも少なくないだろう。中には焼け死んだヤツも。


「容赦してる余裕なんかないんでね。悪く思うなよ」


 オレは馬首を返して、炎上する浮き橋を視界から追いやった。悲鳴は聞こえないふりをする。オレには、岸辺に泳ぎ着いた敢勇軍兵士を確実に回収するって仕事がある。


 同じころ、兄貴の命令を受けた旅世雄・裴顕コンビが、昨日と同じ西の中洲と、漢江北岸の一帯でタコ金軍と交戦していた。結果は無論、敢勇軍の勝利だ。タコ金軍は敢勇軍の弩の前に、あえなく撤退していった。



――――――――――



(*1)

スラムとまでは言わねぇが


 城市の人口が増え、城壁内に収容できなくなると、城壁外に新たな住宅地が築かれる。城壁外の住宅地には流民同然の人々が集い、貧民街の様相を呈することもある。城壁外の人口が増え、都市化されてくると、そのエリアを囲って新たな城壁が築かれる。


 このようにして中国の城市は拡大するので、歴史ある大城市の多くは内側と外側、二重の城壁を持つ。内側の城壁に囲まれたエリアと外側の城壁に囲まれたエリアはペアで「子城‐羅城」「内城‐がい」などと呼ばれる。


 文献史学と考古学と建築学の成果が絡み合う城郭研究は非常に面白い。特にその第一人者である愛宕おたぎはじめ氏の本を全力で推したい。講義の語り口がまた飄々として素敵だったので、在学中は追っかけのごとく愛宕印の東洋史学をほぼすべて受講していた。


 さて、本題(にようやく戻ってきた)。襄陽の場合、城壁のすぐ外に濠があるので、濠の対岸に住宅地ができていた模様である。


 推測ではあるが、襄陽の城壁も拡大の歴史を経て、南宋の趙萬年が見知ったサイズに到達したはずだ。


 襄陽の北西の城壁に「夫人城」と呼ばれる一角がある。東晋の太元三年(三七八年)、前秦の苻堅が襄陽を包囲した。このとき襄陽を守っていた朱序の母、韓夫人は城壁の北西隅が薄いと気付き、城内の女性を指揮してここに城壁を増築した。それが夫人城である。


 現在、夫人城の場所を地図で確認すると、城壁の北西の角には位置していない。「そこ建て増ししてどうするの?」という微妙な位置だ。おそらく韓夫人のころにはここが北西の角に当たり、時代が下るに連れて城壁の拡張が為されたのだろう。


 趙萬年の記録からはうかがえないが、この時代の襄陽も内城‐外郛の二重構造だった可能性がある。仮にそうだとすると、漢江と濠に接した城壁が外郛の城壁だ。内城は庁舎などの重要な施設が置かれている。外郛は商業地区や一般人の住宅地になっている。


 なぜ二重構造の可能性を持ち出したかというと、趙萬年の時代から六十年余り後、モンゴル軍が襄陽と対岸のはんじょうを包囲した戦闘の後半に入った一二七二年、「モンゴル軍が樊城の外郛を破った」という記事が『元史』巻七に登場するからだ。


 少なくとも樊城は二重構造だった。樊城の兄貴分であり、樊城より規模が大きい襄陽も同様の人口増加の過程を経ていてもおかしくない。



(*2)

三十丈くらい


 約九十三.六メートル。以前も書いたとおり、きちんとした数字は『襄陽守城録』には残されていない。明代の『万暦襄陽府志』巻十六、城池には、幅約九十二.八メートル(二十九丈)、深さ約八メートル(二丈五尺)とある。



(*3)

このくらいできる弩が多い


 弩の射程や威力、張力に関して具体的な数字を記した漢文資料にはお目にかかったことがない。


 現代のクロスボウの資料ならウェブに上がっている。「完全武装ドットコム(http://www.kanzenbusou.com/bow/km/)」によると、「飛距離は一概には言えません」とのこと。


 弓や弦や矢のコンディション次第で大きく異なるが、軽い矢で四十五度の仰角に狙いを付けて撃てば、威力の低いクロスボウでも百メートルほどは届きそうだ。


 とりあえず、襄陽の濠を隔てた距離は射程内、ということはハッキリしている。



(*4)

騎射


 馬上で弩は使えない。画像を検索してもらえば一目瞭然だが、箭を装填するための仕掛けは、レバーをガシャンとやるタイプだったり、足で踏んで引っ張るタイプだったりと、地上でおこなわないとまず不可能。


 騎射は、敵との接触を避けながら、側面や後方を走り抜けながら箭を射かける攻撃方法。馬上で取り扱いの容易な比較的短い弓を使う。パルティアンショットで検索すると、いろいろと面白い情報が出てくる。



(*5)

ほぼ全軍


 敵の数が多いので、襄陽側も大量動員したはず。


 例えば、十一月二十六日夜の記事によると、敢勇軍の動員数は六千余人とある。敢勇軍は数千人単位の軍勢を動かせる規模なので、趙家軍より大所帯だったのでは、という印象。敢勇軍も趙家軍も具体的な総員数が書かれていないのは困ったところだ。



(*6)

日が昇って明るくなった辰の刻から夕暮れ時の酉の刻まで


 目安として、辰の刻は午前八時ごろ、酉の刻は午後六時ごろとされるが、示される時刻は季節によって変化する。だから、現代的な時計が存在しない時代を小説に描くときは、空の明るさや体感で時間を表現するようにしている。



(*7)

東津


『讀史方輿紀要』巻七十九、襄陽府によると、襄陽の東十里(約五.六キロメートル)にある。

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