八.十一月二十四日。ついに本格的に始まった。

超訳

 十一月二十四日、タコ金の大軍がしょうはん地区のあんようたんから漢江を渡った(*1)。


 灘ってのは急流や浅瀬や暗礁のことだ(*2)。船で行くときの難所という意味。ただし、安陽灘みたいな浅瀬は、徒歩で渡るには最高の場所になってしまう。


 オレたち趙家軍は当然、黙って眺めていたわけじゃない。


 まずは安陽灘を奪われまいと、弩兵部隊を引き連れて出陣した。迫りくるタコ金の軍勢に向けて斉射。を放てば必ずあたる。何千、何万かと思うほど、引きも切らない軍勢だった。オレたちはひたすら射て射て射て、敵を傷付け、あるいは殺した。


 タコ金の軍勢は後から後から湧いてくる。


完顔ワンヤンきょうにとって、歩兵の命なんかどうでもいいのか?」


 つぶやく兄貴の顔には汗が浮いていた。冷や汗だったかもしれない。

 間もなく、部隊長たちが次々と悲鳴のような声で報告し始めた。


「趙都統、箭が尽きました!」

「防ぎ切れません、ダメです!」

「まずい、ヤツら、来ます!」


「……退くか」


 兄貴は全軍に退却を命じた。総員、浅瀬を駆けて船に乗り込む。船が凄まじい勢いで安陽灘を離れる。


 そうするしかなかった。多勢に無勢だった。


 大挙して漢江を渡ったタコ金軍は、何日か前に白河口から漢江を渡った連中と合流して、西は萬山から華泉殻、東は赤岸から漁梁平まで、数珠つなぎに寨を築いて、襄陽をすっかり囲んでしまった(*3)。


 寨とはいっても、シンプルなものだ。テントを立てて風雨をしのぐ。土を掘って石で囲ってかまどを作る。ただそれだけ。壊そうと思えば、あっという間に引っ繰り返してしまえる。


 ただ、数が多い。猛烈に多い。


 しかも、連中は、寨と寨の間を木の杭や土塁でつなごうとしている。手ぶらの人間ひとりなら杭だって土塁だって越えられるが、馬で駆け抜けようと思ったらそうはいかない。ましてや、車を使った補給部隊は完全に足止めだ(*4)。


「兄貴、ヤバい。城内の空気が悪い。みんなビビッてますよ」

「武装はしている。武器の扱い方も知っている。が、実際に戦に放り込まれたのは初めてなんだ。覚悟が揺らいじまうのも道理さ。とはいえ、怖じ気づいてもらっちゃ困るな」


「勝手に外に飛び出すヤツが現れそうな気がして、趙家軍で手分けして東西南北の門を見張ってるんですけど、何というかもう危うすぎます」

「仕方ない。門を完全に塞いじまおう。万一スパイに入り込まれた場合にも、物理的に出入りが不可能な状態を作っておくほうが対処しやすい」


 兄貴の命令で、襄陽の四方の門は土で埋められた。武装したヤツもしていないヤツも色を失って、作業するオレたちを見ていた。


 帰り際、子どもに尋ねられた。


「どうしてみんなを閉じ込めるの?」


 オレはしゃがんで目の高さを合わせてやった。


「閉じ込めるわけじゃねぇよ。守りを固めるためだ」

「外に出られなくなったって、うちのじいちゃんが言ってた」

「そりゃあ、勝手に出てもらっちゃ困るからな。ボウズ、剣や弩は使えるか?」

「使えない。武器を持つには早いって叱られるから」


「じゃあ、もしボウズやじいちゃんが外に出たら、誰が敵から守ってくれるんだ?」

「兵隊さん、いっぱいいるだろ?」

「いっぱいじゃねぇんだよ。敵のほうがもっといっぱいいるからさ、オレたちもギリギリなんだ。ボウズたちをちゃんと守ってやれねえ。だから、オレたちが敵を追い払うまで、城ん中にいてくれねぇか?」

「城の中にいたら、敵は来ないの?」


「約束する。敵はこの襄陽に入れねえ。絶対に」

「わかった。それなら、怖いなんて考えない。兵隊さんたちの応援してる」

「おう、ありがとな。ボウズも頑張れよ。じいちゃんや家族の元気がなかったら、ボウズが励ましてやるんだぞ」


 明るい顔になったボウズを見送ってやると、いつの間にか兄貴がすぐ近くにいて、そっと笑っていた。


「阿萬もすっかりこっち側になったな」

「こっち側って?」

「守られるんじゃない、守る側だ。ちょっと前まで、さっきの子どもみてぇにしてたのに」

「やめてくださいよ」


 わざと大げさにしかめっ面をしてみせると、兄貴はひとしきり笑って、それから表情を引き締めた。


「全軍を招集してくれ。討って出るぞ」

「え?」

「敵が十分に寨を造り切らないうちに、奇襲をかける」



――――――――――



(*1)

安陽灘


 襄陽の東側。漢江の流れのどこか。安陽灘の位置を直接示す資料が見付けられない。

とくほう輿よう』巻七十九によれば、襄陽から東北二十里(約十一.五キロメートル)にある鄧城の周辺に牛首・・古城・紅崖・白河・沙河・漁浦・新城・淳河・こんの十の砦がある、と『一統志』に掲載されている。元ネタの『一統志』にたどり着けていない。


『欽定大清一統志』巻二百七十によれば、襄陽の東南十里(約五.八キロメートル)にある新城は、襄陽との県境に牛首・・故城・紅崖・白河・沙河・漁浦・新城・淳河・滚河の十の砦がある。


 六十年後にモンゴルが攻めてくるときにも戦場となる安陽灘だが、名前はよく見掛けるのに地点の比定ができない。悔しい。趙萬年でも趙淳でも完顔匡でも呂文煥でもアジュでもアリハイヤでもいいから、誰か地図見せて。



(*2)


 漢和辞典を引くと「水の難所」の意味が掲載されている。河川の中で水が浅くて石が多く、水流が非常に急な場所。または、河川や海などで、満ち潮の時は水没し、引き潮のときにだけ現れる場所。


 水のない内陸でも「灘」の字を持つ地名がある。例えば、シルクロードのオアシス都市として有名なとんこうの北に広がる平原は「ゴビ灘」で、この場合の「灘」は「水を得るのが難しい場所」。東洋史の資料上では河川より陸上の用例のほうが有名かもしれない。


 水を得られないことを表現する漢字としては、ほかに「沙(水が少ない)」「漠(水がい)」がある。水を手に入れることが難しい乾燥地帯、さばくは、本来は沙漠と書く。


 日本語で「なだ」といえば、近海の航路上で波風の荒い場所、という意味になる。



(*3)

西は萬山から華泉殻、東は赤岸から漁梁平まで


 萬山は『欽定大清一統志』巻二百七十によれば、襄陽の西十里(約五.八キロメートル)にある。現在も地名が残っているが、住宅地になっている。華泉殻は資料から確認できない。


 赤岸は『万暦襄陽府志』巻六、山川に見える赤灘のことではないかと思われる。赤灘は襄陽の東南三十五里(約二十.二キロメートル)にある。


 漁梁平という地名は、『襄陽守城録』の一月十六日の記事から、襄陽の東南方面に広がる平野であることがわかる。ここでは襄陽の南東八里(約四.五キロメートル)の距離と書かれている。


 同じ「漁梁」が付く地名としては漁梁灘があり、『讀史方輿紀要』巻七十九によれば、襄陽の東、十五里(約八.六キロメートル)にある。『欽定大清一統志』巻二百七十には、襄陽の東南にあるとされている。


『襄陽守城録』の二月二十七日の記事でも、ここに出てくる「数珠つなぎ」の寨の様子が描写され、三十余里(三十里は約十六.八里)に渡って囲まれたという具体的な数字も出されている。



(*4)

土塁


 万里の長城は、現存するものは明代に築かれたせん(灰黒色の煉瓦)の城壁だが、もともと版築による土塁だった。シルクロードのオアシス都市、敦煌の(比較的)近郊には、磚ではない漢代の長城が残されている。行ってみたい!

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