七.十一月二十二日。ローカルアーミー敢勇軍が結成された。

超訳

 十一月二十二日、せつ宣撫から兄貴とすい宛てに手紙が来た。


 薛宣撫は、下の名前はしゅくといって、兵部尚書に湖北京西宣撫使までやっているお偉いさんだ(*1)。兵部尚書は軍事関係の最高責任者だし、その上、湖北と京西つまりはけいがくエリアの軍事担当の最高責任者でもある。


 そのとんでもないお偉いさんからの手紙の中身が何だったかというと、魏帥の異動の辞令だった。


 兄貴が頭を抱えた。


「趙淳と魏友諒、二人もの将軍が襄陽にいる必要はない。魏友諒には徳安へ赴任してもらう、か。そりゃあ確かに徳安方面も不安だよ。完顔ワンヤンきょうが軍を差し向けると言っていたしな。しかし、だ」


 魏帥も難しそうな顔をしている。


「目の前で、まさに今から、戦が始まろうとしている。であるのに、この地を離れよとの辞令は、どうにも感情が追い付きませんね」

「戦場の数に対して人手が足りてねぇんだよな。徳安もギリギリなんだろう。しかし、まいったなあ。また守備兵の配置換えをしねぇと」


「趙家軍だけではまかない切れないでしょう? と言っても、私にも、お貸しできるほどの兵力はありませんし」

「わかっているさ。むしろ、どこに敵が潜んでいるかわからねぇ荊鄂の平原を突っ切らなきゃならねぇ魏帥に、俺が兵力を貸し出すべきなんだろうが」

「いえ、やはり襄陽こそ最前線ですから」


 頼れる二人のリーダーは深い深いため息をついて、でも、ボサッとしているわけにもいかない。魏帥は取るものも取りあえずって勢いで、軍を率いて徳安に向かっていった(*2)。


 襄陽に残ったオレたちはといえば、組んだばかりのシフトの再編成に追われている。


「やっぱ無理っすよ、兄貴。城壁と水門と漢江の桟橋の見張りに、城外に出ての偵察、城内の見回りと、城壁の守りの強化、武器や防具や投石機や船や馬具の修理、や砲弾の調達。仕事だらけだ。魏帥の軍が抜けた穴が痛すぎます」

「だよなあ。漢江の警備も厚くしなければと、魏帥とも打ち合わせたばかりだった」


 漢江は、襄陽の近辺では浅瀬や中洲が多い。そういう上陸可能な場所にタコ金軍がやってきて、川の状況を調べては基地か何かを造る素振りを見せている。


 タコ金軍が怪しげな動きを取るたびに弩で威嚇して追い払っているんだが、その見張りの人手が足りない。しかも、このところ雨が降っていなくて、漢江の水量がだんだん少なくなってきている。見張るべき場所が増えちまった。


「いっそのこと、民兵を募るか」

「えっ? 武人じゃない連中に戦わせるんすか?」


「趙家軍の兵士だって、武人の家系の出身ばっかりじゃねぇだろう。貧しい農村から逃げ出してきたヤツもいれば、落ちぶれた商家の息子、食いっぱぐれた士大夫の息子と、いろいろだ(*3)」

「まあ、確かに。襄陽の漁師や水夫も、腕っ節に自信があるヤツがやたら多かったし」


「水夫だけじゃねぇさ。もっと頼りになる連中が襄陽にはいる」

「マジすか?」


 兄貴は軍旗を掲げ、城内に呼び掛けて、戦いたい男を募った。すると、かなりの大反響。腕っ節自慢の男が次々と名乗りを上げた。


 これ、どうなってんの? と思っていたら、兄貴が得意げな顔で教えてくれた。


「茶商の私兵だよ。襄陽は、この付近ではいちばん商業が活発で、人も物も集まる。襄陽の茶商が力を持っているのも当然ってわけだ(*4)」


 人が生きていく上でどうしても摂取しなければならないものって、いくつかある。当然ながら米か麦なんかの穀物を食わなきゃ話が始まらねぇし、塩を欠かしたら、ほんの数日で生死に関わる。


 茶もそうだ。漢族の体の六割は茶で出来ている。茶がなかったら死ぬ。健康で文化的な最低限度の生活を営むためには、絶対に必要な品目が茶だ。おいそこ、事実なんだから笑うんじゃねえ。


 で、その茶を商うとなると、誰もが必ず買うわけだから、膨大な利益を上げることができる。塩は一応、朝廷の管理下に置かれているが、茶はその限りじゃなくて、民間の大商人が買い占めて流通を完全にコントロールしている。


 茶賊っていうのもいる。茶を扱う商人ギルドなんだか経済ヤクザなんだかギリギリの連中で、ゴロツキをわんさか用心棒として雇っていて、きっかけがあれば武装蜂起して地方の治安を掻き乱す。


 オレたち趙家軍は、どっちかっていうと朝廷寄りの動きを取ることが多いから、茶賊みたいなヤツらを鎮圧する側だ。茶賊とやり合った経験はねぇが、似たような武装商人の塩バージョン、塩賊とならケンカしたことがある。


 兄貴は「茶賊」なんて見下した言葉を一切、口にしなかった。茶商とその用心棒たちを前に、凛と声を張って演説を打った。


「よく募集に応じてくれた。礼を言う。本当にありがとう。俺は、おまえたちの過去の経歴を問わない。出自も問わない。ただ、ともに戦う勇猛な仲間として遇する。襄陽のつわものたちに名を付けよう。敢勇軍だ!」


 兄貴に合図されたオレは、こしらえたばかりの軍旗を盛大に振るってみせた。真っ赤な布に、力強い字で「敢勇軍」、縁取る房は漆黒。


 ふっと静まり返った群衆が、次の瞬間、わーっと沸き返った。群衆の中にまぎれ込んだ趙家軍の仲間が、節を取って連呼する。


「敢勇軍、敢勇軍! 襄陽を守れ、趙家とともに!」


 繰り返されるスローガンは、群衆全体に広がっていく(*5)。冬の冷たい空気さえ吹き飛ばすほどの熱気だ。敢勇軍が一つになる。


 兄貴が拳を突き上げた。


「ともに戦おう! 俺たちは必ず勝つ!」


 城内の士気は、これ以上ないくらいに高まった。



――――――――――



(*1)

薛宣撫


 薛叔似。もともと軍人ではなく、学者肌の正義漢。韓侂冑によって朱熹一派が弾圧された慶元の党禁(一一九〇年代)の折、薛叔似も職を失っていたが、開禧の用兵に際して韓侂冑の世論抱き込み作戦の一環で軍事関係に復職。


 開禧二年(一二〇六年)正月に京西湖北宣輸使に任じられ、趙淳に襄陽守備の辞令が下った四月、ほぼ同時期に兵部尚書と湖北京西宣撫使に抜擢される。宣撫使は辺境の安定を担う武官職。


 なお、薛叔似は、この日記の直後の十二月には、相次ぐ敗戦の責を負って辞職している。韓侂冑に振り回されて哀れ。



(*2)

徳安


『開禧徳安守城録』が現存する。劉安上が著し、王致遠が編纂した。


 北京大学図書館が影印版を公開し、多様なファイル形式(kindleやEPUBもある)で提供しているので、PDFでダウンロードさせていただいた。很多謝!


 ざっと眺めてみたが、徳安を中心とする指令や情報のネットワークが機能しており、『襄陽守城録』より情報量が多い印象。襄陽は金軍に包囲されて分断されていたから外部情報が少ないのは仕方ないが、全体的な文章量の厚みが違うのは著者の性格ゆえか。


 徳安でも襄陽と同じく茶商などの地元民が戦っている。金軍は、一部の兵力を襄陽方面と行き来させていることがうかがえる。



(*3)

趙家軍の兵士~いろいろだ


 中国四大奇書の一つとして知られる『水滸伝』は明代に成立した小説だが、北宋代に実際に起こった武装蜂起を元ネタとしている。梁山泊に集うヒーローたちは、世間からつまはじきにされたゴロツキばかりだ。


 南宋のころには『水滸伝』はすでに講談や小説で世間にも知られていた。それだけでなく、現実に身近で起こるゴロツキヒーロー伝を脚色して付け加えるなどして、どんどんストーリーを膨らませていったらしい。



(*4)

茶商の私兵


 超絶大雑把な概略は超訳文中に書いたとおり。


 中国史における塩の収税と専売については古くから研究が為されており、高校世界史でも(特に漢代と唐代の政治史の一環として)テストによく登場する。けれども、本気で追い掛けるには、情報膨大につき、本当に大変。


 茶商や茶賊、あるいは塩を巡る官と民の対決と塩賊、というテーマだけで長編小説が余裕で書ける。茶と塩のまわりでは巨額の富が動き、富が動けば人の欲望が集まり、欲望が集まれば争いが起こり、争いが起これば武勇伝が生まれる。


 ところで、漢族には喫茶の習慣が根付いていたということは、水は必ず沸かして飲んでいたということだ。同時期のヨーロッパに比べて衛生面でアドバンテージがあるのでは、と思わなくもないが、科学的なデータをきちんと見たわけではない。


 茶商について興味が湧いたなら、オンラインで公開されている論文もあるので、文体が古めかしくてカッコいいから読みにくいかもしれないが、挑戦してみてはいかがだろうか。ひとまず、今回の本文にジャストフィットした一本がこちら。


 佐伯冨「宋代の茶商軍に就いて」(東洋史研究、一九三八‐四‐二)


 この論文の著者である佐伯冨は塩商の研究に造詣が深い。『中国塩政史の研究』(法律文化社、一九八七)がある。目次だけでも圧倒される。コンピュータで資料整理できない昭和のころに、古代から清代までよくまとめ切りましたね、老師。凄まじい。



(*5)

スローガン


 マイクもラジオも存在しない環境で、リーダーが最も伝えたいことの核心を聴衆全体に行き渡らせる方法。聴衆にサクラを紛れ込ませておくのがミソ。

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