原文

七日、犯神馬坡。時副帥魏友諒統兵於彼(*1)。公聞虜兵甚眾、亟命萬年往諭魏帥、勿迎其鋒、可斂兵且歸樊城、徐為之計。萬年甫至、已受敵、統制楊杞等戰死、魏帥拔圍而出。


同日、犯光化。統制鄭皋等戰死、光化舊壘不守。


公恐虜乘勝、鋒不可當、遂令江北清野、縛浮梁、盡渡樊城內外軍民老幼、凡數千人。渡畢、人人以斷橋為請、公不從、急抽江北諸處把截官兵及戰退卒。相繼入城幾萬人、薄暮方斷橋(*2)。徙門外居民入市、盡除附城屋、挈致城中、以備薪爨。


城上分四隅、以本司左軍統制劉津主東隅、江陵左軍統制吳強・統領扈立西隅、江州統制林璋南隅、本司統領王世修・陳簡北隅、即運防城器具列城上。


忽宣參譚鼓院良顯・章撫幹時可具言「忠勇軍統制呂渭孫見魏帥神馬坡之戰不知存亡、欲脅取副帥印」公素知渭孫凶暴、恐生事、夜遣萬年委曲開諭之。夜半、忽魏帥至、渭孫失望憤嫉。


翌早、渭孫求殺魏帥並其子普、俱被刃、仍殺虞兵二人。左右格殺渭孫。渭孫平時虐所部、刻剝掊斂、人不堪命。及就誅、爭臠而食之。公撫諭忠勇軍、將士隨即帖然、皆樂為用。



七日、神馬坡を犯す。時に副帥魏友諒、れに統兵す。公、虜兵、はなはおほかるを聞き、すみやかに萬年に命じて往きて魏帥をさとさしむるに(*3)、其の鋒を迎ふるく、れんぺいしてはんじやうかへり、おもむろに之がために計るべし。萬年、はじめて至れば、すでに敵を受け、統制楊杞等、戰死す。魏帥、圍を拔きてづ。


同日、光化を犯す。統制ていかう等、戰死し、光化のきうるい、守らず。


公、虜の勝ちに乘ずるを恐れ、鋒、當たるべからず、遂に江北をして清野し、浮梁を縛らしめ、ことごとく樊城內外の軍民・老幼を渡すこと、およそ數千人(*4)。渡りはり、人人、斷橋を以て請を為すも、公、從はず、急ぎ江北諸處せつの官兵及び戰退卒をく。相繼ぎて入城すること幾萬人、薄暮、まさに斷橋す。門外の居民をうつして入市せしめ(*5)、盡く附城の屋を除き、城中に挈致し、以てしんさんに備ふ。


城上、四隅を分かち、本司左軍統制劉津を以て東隅をつかさどり、江陵左軍統制吳強・統領扈立、西隅、江州統制林璋、南隅、本司統領王世修・陳簡、北隅、すなはち防城器具を運びて城上につらぬ。


たちまち宣參譚鼓院良顯、章撫幹時可、具言するに(*6)、「忠勇軍統制呂渭孫、魏帥の神馬坡の戰、存亡を知らざるを見て、脅して副帥印を取らんと欲す」公、もとより渭孫の凶暴なるを知るに、事を生ずるを恐れ、夜、萬年をつかはして委曲して之を開諭せしむ。夜半、忽ち魏帥、至り、渭孫、失望して憤嫉す。


翌早、渭孫、魏帥並びに其の子普を殺さんことを求め、ともに刃をかうむり、りて虞兵二人を殺す(*7)。左右、渭孫を格殺す。渭孫、平時、部する所をしひたげ、こくはくほうれんなり、人、めいに堪へず。ちうに就くに及び、爭ひてれんし、之を食らふ(*8)。公、忠勇軍に撫諭するに、將士、したがひてすなはち帖然として、皆、がくして用を為す。



――――――――――



(*1)

『宋史』巻三十八、開禧二年十一月甲申の条に、

「金人犯神馬坡、江陵副都統突圍趨襄陽。」


『宋史全文』巻二十九下、開禧二年十一月甲申の条に、

「敵犯神馬坡。江陵副都統突圍趨襄陽。忠勇軍統制欲圖友諒。友諒格殺之。」


 引用は基本的に『宋史』からとするが、正式採用されなかった文章も残した『宋史全文』に関連記事がある場合はこちらも引用する。ここの場合、呂渭孫によるクーデター未遂事件は『宋史全文』にのみ記載されている。


 甲申という日付の表記法について。十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせで日付や年次や方位などを記すのは、「かん」という数のかぞえ方。


 中国だけでなく、日本でも昔(戦中まで?)は割と一般的に使われていた。和風ファンタジーが好物のかたにはおもしろいモチーフだと思うので、ぜひ調べてみてほしい。


 なお、開禧二年十一月甲申が十一月何日なのか、また、太陰太陽暦である東洋の暦を太陽暦である西暦に換算すると何年何月何日になるのか、といった計算の面倒くさいものをパッと調べられるツールがウェブ上にいくつも存在する。


 暦についてキッチリ書けば一冊の本になるし、複雑な計算を要する天文学や物理学(古典力学の範囲)も勉強することになるから、ちょっと筆者の手に負えないので、このへんで切り上げさせていただく。


 遅ればせながら『宋史』という書物について説明しておきたい。


 中国には歴代王朝ごとにまとめられた歴史書があり、それを正史と呼ぶ。正史は、皇帝の一代記である本を主軸とし、官職や地理などの国の概要を記す、宰相の任免や皇族の系図とリンクした年表である、皇族や著名な家臣の行状を記すから成る。


 正史の元ネタとなるのは、皇帝が生きている間に逐一取られたメモ(起居注と呼ぶ)であり、正史が成立するのは、その王朝が倒れて次の王朝が建った後のことである。


 ここで言えば、『宋史』は、宋代に蓄積された起居注をもとにして、モンゴルの建てた元が一二七六年に宋を滅ぼした後、一三四五年にメルキト族出身の宰相、脱脱トクトが指揮して完成させた。


『宋史』編纂と時を同じくして、北方に建っていた女真族の金と契丹族の遼の史書、『金史』と『遼史』も編纂していたため、ぶっちゃけて言えば、これら三書は人手不足の手抜き工事で正史としてのクォリティが低い。元の正史より、はるかにマシだとは思うけれど。


 クォリティはともかく、正史やそのスタイルを真似て周辺諸国で編纂された王朝オフィシャルの歴史書は、東洋史学を研究する上で最も基本となる文献だ。


 ちなみに、筆者が週一マンツーマンで漢文のトレーニングを受けた教材は『朝鮮王朝実録』で、ガッツリ朝鮮訛りだった。専攻した時代はモンゴルの大元で、正史もそれに準ずるオフィシャルなものも、めちゃくちゃ訛っていた。日本語訛りの漢文も翻訳案件として大量に読んだ。おかげで、書き下し文の作り方に癖ができたような気がしてならない。


 閑話休題。


 筆者の大学時代には、正史は紙の本で読むのが当たり前だった。しかし、いつの間にか、中国の文献電子化プロジェクトによって、正史などの一般的な漢文の古文書が大量に閲覧し利用することができるようになっている。


 これは本当に凄まじく革新的が出来事だ。


 従来は、何万字もの資料を一字一字読んで「趙淳」の名前を探し、彼の足跡を追わなければならなかった(しかも趙淳の場合、記録がほぼ残っていないので徒労に終わる)が、デジタル化されたことにより、検索をかけたら一発で答えが出る。


 習熟した学者とは呼べない筆者のような人間が、物凄い分量の情報を扱うことができるようになった。繰り返すが、これは本当に凄まじく革新的な出来事だ。


 むろん、人海戦術の手作業によって打ち込まれたデータには間違いも含まれているから、別のテキストと比較しながら利用しなければならない。そうした注意点はあるものの、東洋史学研究のハードルが格段に低くなった、これは事実だ。


 デジタルと仲良くしながら漢文や古文書を読み解く、という新たな研究スタイルも、これからは一つの道になるのではないかと思う。


 言い添えておくと、古文書や碑文や遺跡や考古遺物などの現物とじかに向き合う、生身の研究スタイルも、私は物凄く好きだ。地元の海でおこなわれた十三世紀から十五世紀くらいの沈没船の水中発掘調査に素潜りで付いていったのは、学生時代の最高の思い出の一つ。



(*2)

『宋史』巻三十八、開禧二年十一月乙酉の条に、

「乙酉、趙淳焚樊城。」



(*3)

命 使役。対象に命じて~せしむ。



(*4)

令 使役。対象をして~せしむ。書き下すと「令」字は消失する。



(*5)

徙 うつす。徒(いたづら‐に)ではない。


 移動・移住させる。正史では割と見かける字。使役のニュアンスで読むほうが日本語として自然なので、「~せしむ」と書き下した。



(*6)

具 陳述する。


 吏文(=役人言葉、現場レベルの行政文書)を読むと、「具」は非常によく登場する。慣れるまでは、何となくニュアンスがつかみにくい。また、一般的な意味では「そなえる」として使われるが、これも日本語の感覚からは想像しづらい。



(*7)

虞兵


 よくわからない。虞には固有名詞としての意味のほかに、「周代、山林や沼地などの共同利用地を管理した官名」という意味がある。


 官名として虞候(古代、山林・沼沢を司る/隋唐代、太子の宮殿を警備/唐代後期、藩鎮の司法を担当)、虞人(山林・沼沢を司る)、虞卒(古代、帝王の狩猟の際、禽獣を囲い込むのを担当)が存在する。



(*8)

誅 罪を理由として殺す、征伐する、成敗する、処刑する。


 ただ殺すのではなく、罪人にふさわしい死を与える、といったニュアンス。「殺す」を意味する漢字にはいろいろな種類があり、場面に応じて使い分ける。

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