三.十一月七日。全兵力を襄陽に集結させたら、ヤバいのもいた。
超訳(一)
十一月七日、神馬坡がやられた(*1)。あの一帯を守っていたのは、江陵副都統の魏友諒だ。
「おい、
「何すか?」
「魏
兄貴の指示を受けて、オレは魏帥のところへ走った。敵との正面衝突を避けること、兵をまとめて
オレが魏帥の陣中にたどり着いたときには、すでに戦端が開かれていた。統制の楊杞が戦死した、との報を受ける。
「撤退せよ、と? 趙都統がそうおっしゃったのか?」
魏帥は無念そうに顔を歪めた。オレは魏帥の目を見てうなずいた。
「今は退いてください。今ならまだ包囲を突破できるはずです」
「しかし、ここで食い止めなければ、敵が襄樊両城にまで至ってしまう」
「それでいいんです。城で迎え撃つ、オレたちにはそれしか道がない。タコ金は総勢五十万の大兵力って話ですよ。野戦で真っ向からやり合って勝てると思いますか?」
魏帥はじっと考えていたが、やがて、苦しそうな声を絞り出した。
「わかった。趙都統の指示に従おう。命を張ってくれた楊統制たちには面目ないが」
撤退を決めると、魏帥の軍は素早かった。やっぱりどうしてもテンションは下がっちまったが、それでも整然として陣容を保って、その
オレは冬の空気の中に火薬と煙の臭いを噛み締めながら、一足先に襄陽を目指す。
「絶対に巻き返してやる。襄陽は難攻不落の城だ。数に物を言わせて攻めまくることしかできねぇタコ金の連中に、一泡噴かせてやるんだ」
タコ金を建てた狩猟の民の女真族からしてみれば、漢族が築く「城」ってものがまず想像を絶しているはずだ。連中が華北に居着いて百年近くになるし、だいぶ見慣れただろうが、だから簡単に攻略できるってもんでもない。
中華の「城」は、人が住むまちを丸ごと一つ城壁で囲った代物だ。城壁も、単なるカベじゃあない。街路と変わらないくらいの幅と、民家の屋根をはるかにしのぐ高さを持った、頑丈な建造物だ。
襄陽の城壁の規模は、府庁の書庫にあった『襄陽府志』によれば、周回は九里三百四十一歩、高さは二丈五尺、幅は上部で一丈五尺あって、基礎部はその倍程度(*4)。
城壁の上はのっぺらぼうってわけじゃなく、城外に晒されるサイドには、女牆と呼ばれる塀が設置されている。女牆には凹凸があって、凹んだ部分は女口。城壁上の兵士は女口から弩や弓をのぞかせて、押し寄せる敵を攻撃するわけだ。
城壁は、水を混ぜた黄土をガチガチに突き固める「版築」という工法で造られる。地下深くの基礎からこうして固めてあるから、ちょっとやそっとのダメージじゃ崩れない。数百年前の城壁が今でも現役ってケースもあるくらいだ(*5)。
普通の城市なら、城壁で守られているだけだ。が、襄陽は違う。
襄陽は水の城市だ。北側は最強の天然の要害、漢江が守っているし、対岸には樊城もある。東、南、西の三方には、漢江から水を引いた大きな濠がある。幅は、三十丈はあるだろう(*6)。ただ、雨が少ないせいで干上がっているところがある。
襄陽にはいかつい城壁と濠があって、しかも背後に広がる漢江に戦艦を浮かべれば、結構な
平地の野戦が得意な女真族の騎兵軍団にとっちゃ、襄陽は、攻めにくいことこの上ないはずだ。ただ、誇張はあるにせよ五十万を號するほどの大軍は、やっぱりヤバいと感じずにいられねぇが(*7)。
孫子の兵法ってタイトルは、たいてい誰でも聞いたことがあるんじゃないか? 春秋戦国時代に孫武という思想家が作った兵学書だ。一千七百年の時を経た今でも、用兵のバイブルとされている。
春秋戦国時代には騎兵戦術がろくに存在しなかったから、『孫子』に説かれる数の比率は、今とは違うところもある(*8)。とはいえ、戦の基本は敵よりデカい兵力を手にすることだと、それはいつの時代だって変わらない。
で、その孫先生のご講釈によると、攻城は下策中の下策だ。なるべく避けろと口を酸っぱくしている。
けれども、どうしても籠城する相手を叩き潰さなけりゃならないときもあるだろう。そんときは、十倍の兵力があって初めて敵を包囲できる(*9)。
十倍なんて気の狂った数字だと、初めて『孫子』を読んだときには思った。兄貴が襄陽を守ると決まったときもまだ、気の狂った数字だと高を括っていた。
なのに、蓋を開けてみりゃ五十倍とか、バカじゃねーの? 五十万が攻めてくるのに、何でオレら一万なわけ?
援軍を要請しなけりゃならない。でも、タコ金と国境を接したエリア、四川や
兄貴が魏帥を呼び戻したかったのも、こういうことだ。襄陽近辺のあちこちに散っている戦闘要員を集結させる。そうしないと、本当に、まったくもってタコ金の大兵力に太刀打ちできない。
神馬坡がやられたのと同じ十一月七日、光化も攻め込まれた(*11)。統制の
オレは襄陽に戻った。兄貴は厳しい顔をして、次々と指示を飛ばしていた。
「阿萬、戻ってきて早々だが、樊城の住民の誘導に当たってくれ。全員、襄陽城内に避難させる」
「樊城を空っぽにするって意味ですか?」
「襄陽と樊城、両方に守備兵を置くほどの余裕は、やっぱりねぇんだ。戦力は襄陽に集結させる。戦えねぇ住民は、襄陽の城ごと、全員で守り抜く。それしかねえ」
「タコ金は襄陽の外堀を埋めるみてぇに、棗陽に神馬坡、光化と、順番に攻めてきてます。次は樊城でしょう。樊城で迎え撃たねぇんですか? 樊城の城壁と濠だって、十分に堅い守りだ」
「勝利の勢いに乗った大軍を相手にするのは危険すぎる。とにかく、今回は樊城を捨てて、襄陽の防衛だけに力を注ぐ。生き延びたかったら、作戦に従え」
こんなに切羽詰った兄貴は初めて見た。今回は本気でヤバいんだ。
襄陽と樊城の間、一里の幅の漢江の上に急遽、浮き橋が架けられた(*12)。樊城にいた数千人の武人も一般人も、もちろん年寄りも子どもも全員、襄陽へ渡す。
避難してきた人は皆、驚いたり怯えたりして、すぐに橋を壊してくれと兄貴に訴えた。
「いや、まだだ」
兄貴はギリギリまで待った。漢江の北側には、樊城の守備兵や住民だけじゃなく、あちこちの軍営に駐屯している兵士や今は戦陣から退いている元兵士が少なからずいて、兄貴は彼らにも襄陽に集結するよう呼び掛けていたんだ。
この日、つまり神馬坡と光化がやられた翌日の十一月八日、襄陽に入城した人数は数万人に上った。この中で本当に戦える人間がどれくらいいるんだろう?
避難が終わった夕暮れ時になって、兄貴は樊城を焼き、浮き橋を壊した。一里の水の向こう側、炎と煙に包まれて、樊城は廃墟と化した。
襄陽の城壁の外に住まう一般人も、この日のうちに中に避難させた。ついでに、附城、つまり城壁の外側に広がった居住区の建物がタコ金に利用されないように壊して、使える資材は城内に持ち込んだ。
――――――――――
(*1)
神馬坡
神馬坡の位置は特定できず。坡は、ここでは水際の堤や土手の意味。自然の地形を活かした布陣ができる場所に軍営を置いていたのだろうか。
(*2)
阿萬
中国を始め、東アジアでは古来、本名である
三國志系の創作物ではよく字で呼び合う描写があるが、これはかなりフレンドリーな距離感らしい。史実の劉備は部下たちを字で呼んでいたと聞いたことがある。例えば豊臣秀吉が黒田官兵衛に「カンちゃん」と呼ぶ感じなんだろうか? 馴れ馴れしい。
筆者は中国文学や中国文化論に疎く、呼び名についての感覚がつかめない。ゆえに、役職や家由来の呼び名を使うようにしている。家由来というのは、例えば趙家の長男だったら「趙大郎」、三女だったら「趙三娘」といった具合。
しかし、原著者である趙萬年は役職がわからず、上司である趙淳と同じ姓なので、いつもの呼び名が使いにくい。「
シンプルにするなら「小萬」でもよかったけれど「
趙淳が趙萬年を「阿萬」と呼ぶのは、彼らの集団を軍隊であると見なすと違和感があるが、新撰組のコアメンバーが剣術道場の仲間たちだったのと同じような成り立ちの集団だと設定すれば、こういう雰囲気もアリではないかなと考えた次第。
新撰組ストーリーの中で、近藤勇はよく土方歳三を「トシ」と呼ぶ。孤児の沖田総司を引き取って住まわせて、死に際までずっとかわいがっていた。あんな感じ。
趙淳を「兄貴」にしたのはノリである。本作で最も活躍する、いわば主人公である趙淳の呼び名は、日本人である筆者と読者に馴染みがあるほうがよかろう、と。
とはいえ、完全に雑なノリだけ選んだわけではなく、疑似親子としての「親分」より義兄弟としての「兄貴」のほうが中国の伝統的な考え方に即している、というあたりはちゃんと考えた。「ボス」も微妙に違うし。
他人を親と例えて慕うケースを少なく、主に皇帝相手の場合だけだ。国を家と見なす儒学の考え方である。一方、義兄弟として結び付くケースはしばしばあって、『三国志演義』の桃園の契りが最も有名だろう。
(*3)
魏帥
帥は軍隊・軍団の長のこと。魏友諒の役職は江陵副都統だが、原文中で趙萬年は「魏帥」と呼んでいるので、これに従う。ニックネーム的に「リーダー」「大将」と呼ぶ感じだろうか。
ちなみに、武人に対する敬意や親しみを込めたニックネームとして「将軍」を使う資料も多数ある。こちらのほうが一般的ではないかと思う。
(*4)
襄陽の城壁の規模
周回は約五五八六.三六メートル。『襄陽守城録』の末尾に書かれた数字なので、趙萬年のリアルタイムのサイズ。
比較対象を挙げると、京都御所が周回約四キロメートル、東京の皇居が約五キロメートル、五千人超が一ヶ月ほど籠城した会津若松の鶴ヶ城の現存する濠の周りを巡るコースは約二キロメートル。地図アプリを使って、身近な施設のサイズと比較していただきたい。
城壁の高さは約八メートルで、一般的な二階建ての屋根のてっぺんくらい。幅は上部で約四.八メートル、基礎部はその倍で、一般道路の車線の幅は三メートル程度とされるから、それより広い。
ただし、超訳文に書いた城壁の高さと幅は、明代の万暦年間(一五七三‐一六二〇年)に編纂された『襄陽府志』に記載されたものである。南宋代にどの程度の規模だったのかは「わからない」が正確であることをここに書き添えておく。超訳文中の数字はあくまで参考程度とお考えいただきたい。
なお、万暦年間の城壁の周回は約七一〇九.四四メートル(二千二百二十一丈七尺)と、趙萬年が記録した数字より大きくなっている。濠を埋め立てて城のサイズを大きくしたのだろうか。
追記しておくと、宋代の一尺は三十一.二センチメートル、明代では三十二センチメートル。
(*5)
数百年前の城壁
襄陽には今でも、明代に築かれた城壁が現存している。地図で確認すると、濠が残っていることもうかがえる。また、西安には周回十四キロほどの明代の城壁が残っており、城壁上はサイクリングコースになっている。どっちも行ってみたい!
襄陽や西安等に残る城壁の様子は、検索したら画像が出てくるので、ぜひヴィジュアルで確認していただきたい。
(*6)
幅は三十丈
約九十三.六メートル。ただし、きちんとした数字は『襄陽守城録』には残されていない。明代の『万暦襄陽府志』巻十六、城池には、幅約九十二.八メートル(二十九丈)、深さ約八メートル(二丈五尺)とある。
ともあれ、細かい数字は抜きにしても、百メートルほど(もしくはそれ以上?)の幅を持つ濠が三方を守り、その内側にぐるりと頑丈な城壁が巡っている。そうした情景を想像していただければと思う。
(*7)
五十万
金の王侯貴族に当たる女真族だけでは、こんな大軍になり得ない。構成要員の大半は華北在住の漢族だろう。
(*8)
騎兵戦術
騎兵を主力とする軍隊構成は本来、遊牧民や狩猟民のもの。漢族は歩兵の人海戦術を得意とする。というか、基本的にそれしかできない。
漢族の文化では伝統的に、馬に乗って弓を射るのは野蛮人がやること、と考えられていた。これを初めて引っ繰り返して大々的に騎兵軍を組織したのは、前漢の武帝(紀元前二世紀から一世紀)だったらしい。武帝の下の将軍、衛青や
とはいえ、漢族がそれ以降も異民族の騎兵軍にボロ負けする戦は起こり続ける。やはり本家の騎兵の機動力には太刀打ちできないらしい。
ついでに言えば、漢族は、海から攻めて来る倭寇にもさんざんやられる。前期倭寇の中には、船に馬を載せ、上陸したら騎兵軍に化ける連中もいたので、かなりイヤな敵だったはず。このへんが筆者の卒論のテーマだった。且つ、彼ら、たぶん筆者の先祖。
(*9)
『孫子』
当該の記事は「謀攻篇」に見える。
「故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城、……。」
「用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、……。」
解説は、ビジネス書からウェブサイト、高校の資料集まで多種多様にあるので、ここでは割愛する。
しかしやっぱり古代史の漢文は苦手だ、読みにくい。
(*10)
四川や淮南
同時期、四川では、金の侵攻を防ぐべく派遣された
淮南は今の安徽省に当たる。マイヒーロー、呂文煥の故郷。呂文煥や兄の呂文徳が活躍し始めるのは趙萬年のころより四、五十年後になる。金軍の度重なる侵略から自衛するため結成された武装グループの一つが呂家兄弟の軍閥だった。
(*11)
光化
今の湖北省襄陽市内にある老河口市。『万暦襄陽府志』巻一によると、襄陽の西北にあり、襄陽との境まで六十里(約三十四.六キロメートル。明代の里程換算)。
(*12)
一里
約五百六十一.一メートル。
『万暦襄陽府志』によれば、七十二艘の船を連ねて浮き橋を渡した、との記事があるが、どんなサイズの船なのか明記されていない。
ちなみにレインボーブリッジの吊り橋部分は七百九十八メートルらしい。あれよりは短い。
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