Ⅲ-4 記し悉に憶えなく
相変わらず男の人は起きないまま一週間が過ぎようとしていた。それは同時に毎日の看病と介護のために、そしてそれぞれの用事のために、二人でいられる時間が少ないまま、同じだけの時間が過ぎようとしている事も意味していた。
それでも今日は二人揃って家にいられる日だった。交代で男の人を見に行って、合間に会話を挟みながらそれぞれしたい事をしながら過ごす、そんな他愛無い一日。彼女は漢方と呼ばれる薬を扱う分厚い本を読みながら薬草を磨り潰して調合している。対するわたしは書庫から新しく読む小説を引っ張り出してきたところ。やっている事は違っても同じ空間にいられるのは、なんていうか気持ちがほくほくする。
イスに腰掛けて、さあ読むぞ、と意気込んだところで、ちらりとこちらを見た対面のエルネスティーが話し掛けてきた。
「それ、コエーリョね」
前にも似たような事あったな。あの時はたしか『月と六ペンス』だったかな。
「うん、それがどうかしたの」
「あなたがその小説を選んだから」
「どんな物語?」
「羊飼いの少年が同じ夢を何度も見て、その夢の導きに従って遥か遠いピラミッドにある宝物を目指す話」
ピラミッドの宝物……ちょっとよくわかんないや、と言うわたしの思いを知ってか知らずか、エルネスティーは続けた。
「『
「へえ……何だか面白そうだね」
「物語自体はありふれているけど、書かれている言葉にはいつ読んでも得るものがある」
エルネスティーは無表情で、けれど視線は少し冷たくなってこう言った。
「マルール」
「うん?」
「あなたは死んで、それから生まれた。それは恐らく事実だと私は思っている。あなたはそれについてどう思う」
いきなり随分意味深に伝えるんだなあ。言ってる意味もよくわからないし。でも、こういう難しい事を訊いてくるエルネスティーはいつだって何だか心ここにあらずみたいな感じがする。
「それだったら平気。だってわたしは記憶が無いんだから。それを取り戻さない限りわたしは死神にだって愛されてるんだよ」
ほら、ドジ踏んで死に掛けたんだし、とあくまで気負っていない事を示すと彼女は溜め息を吐いた。
「マルール。私はいつか、自分は死ぬものと思って生きているわ」
「うん」
「私は死ぬために生きている。死ぬための方法を探すために。それが正しいか正しくないのか……」
これはエルネスティーお得意の哲学的な話題。こうなるとわたしの頭では理解が難しくなってくる。
「エルネスティー向かうところわたしあり、って感じだからなあ。正しいか正しくないかはエルネスティーの判断次第」
「じゃあ、もし私だけが死んであなたは死ぬ事ができないのだとしたら」
「そんなの想像もしたくない。泣くのも笑うのも死ぬのも全部エルネスティーと一緒がいい。だって今の生活があるのは君のおかげだよ。そうでしょ」
開き掛けの小説を置いて頬杖を突きながらそう言うと、彼女は唇を噛み締めた。さっきの言葉の中に琴線に触れるものがあったのかもしれない。
「私は……」視線を逸らして一瞬、苦しそうな表情をした。
「そうね。そうかも。私の……」譫言のように呟いた彼女は、そしてまたわたしに向き直って言った。
「マルールはどうして」
「ん?」
「マルールは、私にどうあって欲しいの?」
「わたしはねー、んー……エルネスティーにもっと笑って欲しいかな?」
自信満々に答えると、そこで彼女はほんの僅かに目を丸くした。それからちょっぴり照れくさそうになったのを見ると、少しは機嫌を取り戻してくれたらしい。
「ごめんなさい。少しわからなくなって……」
「わからないって?」
「マルールと、どうやって話したらいいのか」
なんだ、エルネスティーそんな事考えながらわたしと話してたんだ。でも彼女らしいな。何でも深く考え込んじゃうのがエルネスティーのいいところだって、わたし知ってるもん。
「何でも話していいんだよ。こんな事言うのもあれだけどエルネスティーの言う事、たまによくわからないのもあるしさ。何も考えないで話したい事話してくれた方がわたしも受け答えしやすいよ」
「……そう」
ありがとう、と言ってくれたのをわたしは聞き逃さない。
ふとそこで時計に目をやると、先ほどの見回りから一時間ほど経っている事に気付いた。「あ、ねえ、そろそろ時間じゃない」
そこでエルネスティーも時計を見る。
「そうね。……行く?」
大きく頷いて、小説を置くと立ち上がった。
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男の人の素性についてはまだ何もわかっていない。クランやドックスおじさん、ミゼットおばさん、グスタフさんにも探し歩いて訊ねてみたけど、誰も知らない人だった。バッグの事はエルネスティーに伝えておいたが中身は確認せず、男の人が眠る部屋に置いてある。
部屋の扉を開けて中に入り、様子を確認するが、やはりまだ目覚めていない。
「傷は塞がっているし、そろそろ起きてもいいはずだけど」
「やっぱり打ち所が悪くて、寝たきりになっちゃったのかな……」
この人にも家族とか、大切な人とかいたらどうしよう、とイスに座ってしょぼくれるわたしをエルネスティーが励ましてくれる。
「マルールの非はどうしようもないけれど、私も手を尽くしたわ。目覚めないのならせめて手厚く見守るしかない。それが唯一の贖いになる」
「うん……」
全く動かない男の人を見ていると、こんな時にLegion Graineを移植できたらどんなにかいいのに、と心の中で渦巻いてしまう。救えるのなら救いたいと、そう思うのは間違っていないとエルネスティーも言っていた。ただ、その方法が取り返しのつかない事だから指を咥えて見守るしかできない。
「あれ?」
「どうしたの、マルール」
「いま、一瞬まぶたが動いたような」
ふと眺めていて気付いた微かな動き、のようなもの。しかしほんの僅かだったような気もするし見間違いも否めない。エルネスティーが確認するが、首を振って単なる勘違いだと教えてくれた。
「いつまでもここにいても仕方無いわ。戻りましょう」
「うん、そうだね」
もし起きてくれたらそれだけでまだ救いがあったのに、どうやら思い過ごしだったようだ。わたしはがっかりして肩を下ろし、椅子から立ち上がった。
先にエルネスティーが部屋を出て、わたしが名残惜しみながら彼を一瞥した。そして、扉を閉める直前──。
「ぅ……」
咄嗟にエルネスティーを見て、わたしたちは急いで部屋に戻った。
見ると、彼の目が僅かに開いていた。眉間に力が入り、口も動いている。
「あんた、は……ここは……」
「わたしはマルール。こっちはエルネスティー。ここはわたしたちのお
エルネスティーと目を合わせると、彼女の瞳にも安堵の色が窺えた。彼女は水差しで水を汲み、彼の頭をほんの少し持ち上げると、それをゆっくりと飲ませてあげた。
「ありがとう……すまない……」
「話せる?」
「ああ、ああ、大丈夫」
男の人は軽く息を吐いた。
「あの、実は、こんな事になったのはわたしのせいなんだ。わたしが猪と見間違えて、頭を撃っちゃって……」
「間違って、撃った、頭を」
「本当にごめんなさい」
「なあすまないが、何の事か」
「あ、えと、お名前は」
「名前……」
わたしは彼の名前を心待ちにした。名前さえわかれば、以前暮らしていた場所や家族を探すのもぐっとやりやすくなる。
だが、彼から放たれたのはそれとは違う。
次なる試練のお告げだった。
「そんなもの……ない」
「え……」思わず声が出てしまったが、エルネスティーの予想通りだったのを思い出して、すぐ冷静さを取り戻した。悪い方向へ事態が向かう事も当然考えられた訳だけど、やっぱり少し動揺する。
「失礼しますが、お名前を思い出せないという事ですか」
エルネスティーが割って入る。
「ああ、なんだ。頭がぼんやりしているみたいだ」
「恐らく頭に強い衝撃を受けた事による一時的な記憶障害かと思われます。しばらくすれば自然と思い出しますと、それだけお伝えしておきます」
「それは、もしかしてこのままずっと思い出さない可能性があるかもしれないと?」
「その可能性も万が一で拭いきれない、という意味です」
「そうか……」
そのまま男の人は黙ってしまった。虚ろな目で、天井を見つめたまま何かを思案しているようだった。その姿を見て、何となく自分が目覚めた直後が思い出されてしまう。わたしの時はエルネスティーがかぼちゃのスープを持って来てくれたんだっけ。
「あの、お腹空いてない?」
「腹? そうだな、少し」
「お昼に作ったコーンスープ、まだ残ってたよね」
「ええ」
「わたし温めて持って来るね。いいでしょ」
そうね、ちょうどいいわ、その間に問診もしておきたい、と言うエルネスティーの言葉と、是非いただこう、と言う男の人の頷きを受け止め、わたしはキッチンへと向かった。
キッチンのかまどにはお昼にわたしが食べたコーンスープが半分ほど残っていた。鍋の横に指を触れるとほんの少しぬるい程度で、温めればすぐにでもおいしく食べられそう。そういう訳で、わたしはまだかまどで燻っている炭に適当な木くずと細木を焚べ、マッチに火を点けて放り入れた。すると、残っていた炭ににわかに熱が籠り始める。
シンクに寄り掛かり温まるのを待っている間、どうしてもあの時の事が思い出された。雪深い森の中で猪と間違えて男の人を誤射してしまったあの時。
目覚めてくれただけでも救いがあるのに、あまり嬉しい気持ちになれない。わたしのせいであの男の人はわたしと同じ境遇になってしまった。
けれどエルネスティーだって記憶を失って居候せざるを得ない身を案じてくれているのだから、わたしだってそれができないなんて事無い。エルネスティーがしてくれたみたいにわたしもあの男の人に同じように優しくしたら、少なくともこのもやもやした感じは晴れるのかもしれない。
そう思いながら温まったコーンスープを深めのお皿に盛った。一週間ぶりの食事でお腹が空いているだろうから、なみなみ注いで二人前。溢れそうになったけども、そこはバランス感覚でなんとか持ち直す。スプーンも用意してトレーに二つとも載せ、わたしはキッチンを後にした。
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