Ⅲ-3 赤毛の漁師とお留守番

 グスタフさんを助けてから数日、ベッドの上の男の人は相変わらず目覚めない。いつ目覚めるかわからないためにどちらか一方は必ず家にいなければならなかった。


 そういう訳でこの数日間、エルネスティーがクランやミゼットおばさんの所に行く時はわたしがお留守番し、わたしがドックスおじさんやイゾーの所に行く時、彼女がお留守番している。つまり、二人で外出する機会をほとんど失ってしまった。でもこれは全部わたしのドジのせい。


 エルネスティーはウサギやリス、シカといった捕った動物の毛皮を売りに出している。商い術や交渉術はエルネスティーが長けているからいつも彼女に任せているけど、相手の裏を探るような鋭い弁が交わされる現場に今は居合わせられないという訳だった。


 自室のベッドに腰掛けてコーヒーを飲んで大きな溜め息。波紋で顔が揺れた。初めてここで目が覚めた時、扉の向こうからすぐさまエルネスティーが現れてそのままなし崩し的に同居を続けているわたしにとって、こんなに長い間家でエルネスティーと一緒にいられないなんてもう耐えられない。確かに癇癪起こして家出したり、仲違いや事件もあったけど、それでも一緒にいられるんだ。


「……いやだな」


 何でこんな時にエリクの日記なんか思い出しちゃうんだろう。やっぱり今見てるこの顔は彼女の記憶の中にある人とそっくりで、彼女が一緒にいるのもその経験を忘れられずにいるからだろうか。常識的に考えて何の縁もゆかりも無い人とずっと一緒にいたい理由なんて考え付かない。


「う……」


 ちょっと温くなったコーヒーをぐっと飲んで喉の引きつりを黙らせた。何度か繰り返すとすぐにコーヒーは無くなってしまう。鼻の奥のつんとした感じが収まらず、追加のコーヒーを注ぎに行く事にした。


 それでキッチンまで行った所で、はたと気付いた。誰かキッチンにいる。けれども危ない気配はせず入ってみると、そこにいたのはイゾーだった。勝手にコーヒー飲んでる。


「あれ、いたのか」


「うん。自分の部屋に。それにしてもどうしたの、イゾーから来るなんて珍しいね」彼のエルネスティー嫌いは継続中だった筈。


「魚届けに来たんだよ。秋の上物」


 言って、椅子の下からテーブル上に取り出したのは両手で抱える程の大きさをした長方形の木箱が二つ。


「あ、もしかして鮭?」


「おう。それにずっと前イクラがどうとか言ってただろ。だからオスとメス両方持って来た」 


「ほんと? ありがとう!」


 またイクラのソイソース漬けが食べられるよ! と言うと、何だか気まずそうな顔をしてみせるイゾー。


「どしたの? 何か嫌な事でもあった?」


「いや、違う。何でもねえ」


「ふーん、ヘンなの」


 ねえ開けて見ていい、と聞くと、別にいいぞ、と返事。「♀」と赤のクレヨンで書かれた木箱を開けると中にははち切れそうなほどお腹の膨らんだ鮭が入っていた。


「そっちはメスな。卵は旬真っ只中だけど遡上して身は引き締まってる。殆ど腹に栄養行ってるから、イクラは勿論そのまま食ったりソイソース漬けにしたり、身の方は干物とかフレークとか加工した方がいいな」


「じゃあこっちは」と、今度は「♂」と書かれた木箱を開けると、メスよりも一回り大きく育った体格の良い鮭。


「そっちはオス。遡上してんのは同じだけど体格の分、身も大きく切れるからムニエルとかフライとかがいける。オスもメスも内蔵は塩漬けに、アラは出汁に使うとうまい。ま、俺が一番おすすめなのは切り身に粗塩ぶっ掛けるだけの炙り焼きだけどな」


 干物……フレーク……アラ……出汁……ムニエル……フライ……炙り焼き……イゾーの口から次々発せられる美味しそうな言葉の数々に思わず生唾。いけない。これは全部エルネスティーが帰って来てからのお楽しみだ。


 とは言え、やっぱり少し食べてみたい気もする。


「イゾーはこれから用事ある?」


「んだよ藪から棒に。ねえけど」


「じゃあさ、ちょっと」


 そう言って立ち上がり、イゾーに近付いて耳打ちしようと近付いた。


「いやいやいや、いきなり何すんだよ!」


 裏声で叫ばれてキッチンの隅っこの方まで思いきり後ずさられた。


「え、鮭美味しそうだからちょこっと切って食べてみない、と思って……それにしても心外だな。いくらエルネスティーと仲いいからってその反応はさ」


「いいいやちげーよ! お、女が迂闊に男に顔近付けんなって事だよ!」


「え、でもジャックとエリーヌはいつも近付けあってる」


「バッカじゃねえのお前!」


 隅っこの方で動かずギャンギャン騒いでこれでもかと言葉を投げ付けてくるイゾー。この横暴にはさすがに普段は温厚なわたしも許せる限度は超えている。


「何だよもう! そっちが先にわたしの事避けた癖に!」


「え?」


「いくらエルネスティーが嫌いだからってわたしまで避けなくてもいいじゃん!」


「あの、いやちが」


「いーよいーよ! 貰うものは貰ったしさっさと出て行けば!」


 言いたい事言い切って鮭入りの箱をひしっと抱き締めると、今度はわたしの勢いに圧倒されたのか彼は呆けた表情でわたしを見つめてきた。けれどそこでゆっくり立ち上がって、一度顔を伏せもう一度上げた時には、そんな表情は消えていた。


「すまん、取り乱した。悪りい」ふう、と溜め息、そして「むしろ逆なんだ」と理解の難しい事を言った。


「逆って」イゾーは改めてイスに深く腰掛けた。わたしも鮭の箱から体を離してイスに収まる。彼は神妙な面持ちでしげしげとコーヒーに目配せした。「逆って何の事」


「なあ、好きな人が別の人を好きになってたら、マルールはどう思う」


「え?」


 不意を突かれる質問だった。すごく。だってエルネスティーは。


「あはは……イゾーがそんな事聞くなんて、やっぱり嫌な事でもあったんだ」


 いつも気だるげな様子で店番をしているイゾーが真剣になると、あの時が思い出されて何となく苦手なんだよな。それでもこの状況ではぐらかすのは無理そう。


「あ、えっと、イゾーって好きな人いるの? それコイバナってやつでしょ、わたし知ってる」


「まあ、いる……うん、いるぞ」


「どんな人?」


 質問すると今度はだんまりしちゃった。話したいのか話したくないのかよくわからない。それで思わずこんな言葉が飛び出た。


「そんなに悩んじゃうならいっそ略奪しちゃえば?」


 するとイゾー、神妙な顔付きを勢いよくこちらに向けて「できねえよ……そんなの」とすぐ顔を逸らした。それで気付いたんだけど、もしかしてイゾーって。


「わかった。イゾーが好きなのわたしなんでしょ。わたしがエルネスティーの事好きだから、勝ち目無くて嫉妬してるんだ?」


 そうは言ってもほんのからかいのつもりだった。エルネスティー嫌いなイゾーがエルネスティー好きなわたしの事好きになる筈ないもの。けれど、それは彼が戸惑ったように歯噛みしてそれからに慌てて口をぱくぱくさせ始めたから、一気に現実味が増した。


 何、その反応。


 イゾー、好きなの、わたし?


 わたし?


「ちょっと待って。冗談だよね。うん、だってわたし冗談のつもりで──」


「マルール!」


 突然彼が叫んで思わず口が閉じた。間髪容れずにイゾーが言った。


「その、避けたのはおま……マルールを、意識してたから。だから逆ってのは……そ……俺が、す、好きなのは、う……マルール、お前なんだ」


 本当にわたしだった。


「ごめっ、少し冷静にさせて! 本当にわたし? マルールのわたし? 一体いつから」


「一目惚れだった。イクラ探しに初めて来た時」


 まさか出会ってからずっと好きな気持ちだったって事?


「いや、……いやでも、わたしはエルネスティーが好きだし、イゾーには悪いけど、その気持ちは……さ……」


 はっきり無理だって言ってしまえばいいのに、どうしてか口はもごもごして目はあちこちに泳いじゃう。


 突然過ぎてどうしたらいいのかわからない。男の人に好き好まれるなんて当たり前だけど一度も無いし、それにエルネスティーの事ずっと好きだって思ってたのに、いざこうして別の人から好きなんて言われてすぐには断れない自分がいたなんて。


「あ、あれ、わたし」


「おい大丈夫か」


「ごめん。何か勝手に」


 不意にほっぺがくすぐったい感じ。触ってみると泣いていた。拭っても拭っても止まってくれない。


 もしかしてわたし、本当はエルネスティーの事好きじゃないのかな。好きだと思ってたのはやっぱり、わたしがエルネスティーの事、命を狙いに来て、それでずっと、殺すまで一緒にいなきゃ……。


「……エルネスティーに刺客差し向けた俺が、おこがましいよな。エルネスティー好きでいて構わない。俺はマルールが好きだ、好きだから……俺はお前の好きなように振舞ってほしいんだ。でも」


 ほんの少しでも悩んでくれて、ありがとな。


 その言葉に、わたしは小さく頷いた。


 その後イゾーに手渡されたハンカチで涙を拭いて、しばらく泣き続けていると次第に気持ちの高ぶりも収まってきた。もう平気か、と言われてわたしはハンカチを返した。


「悪かった。突然過ぎて混乱したよな」


「ううん、そんな事無いよ。ハンカチありがと」


「ありがと、か」


 イゾーはすっかり冷めきった残りのコーヒーを飲み下した。わたしは立ち上がって火から避けていたコーヒーのガラスポットをかまどに置く。


「あったまったらまた飲めるから」


「ん」


 微妙な時間が流れている。


「あ、ねえそう言えばさ、イゾーはこの間の煉獄病の流行の時に全然見かけなかったけど、どこに行ってたの」


 間を取り繕うように、そして先程の話には触れないような話題をそれとなく投げ掛けてみた。


「ん、ああ。あの時はアンルーヴを離れて海の方まで行ってたんだ。知ってるか、ティレニア海って場所」


「ティレニア海? 聞いた事無いなあ」


「ここからずっと南にある。半島の先の部分に浮かぶ三角形の島、その少し北辺りにある小さな島な。海産物の宝庫みたいなとこで漁業の腕を磨いてた」


「へえ、どんなのが捕れたの」


 そこでガラスポットからふんわり湯気が立ち上り、いい香りがキッチン中に広がった。今度はポットに近い彼が立ち上がって二つのカップに注ぎ入れてくれる。


「ごめんね、ありがとう」


「おう」


 それからイゾーはタコだとかエイだとかウツボだとかいった想像もつかない海の生き物の話から、彼の店でもたまに見かけるタラやアジといった平凡な魚まで、色々な話をしてくれた。中でも漁船に乗り込んでカジキという大きな魚を捕るために数日掛けて死闘を繰り広げた話なんかは、まるで何かの物語みたいでわくわくしながら聞く事ができた。


 ひときわわたしの興味を引いたのはその島の人たちが日常的に飲んでいる「ガルム」だった。青魚を塩漬け発酵させて作るそれは、臭いと味さえ気にしなければとても体にいい食べ物なんだとか。それを毎日飲んだり、調味料として食べている島民たちはいつも元気いっぱいらしい。その島にだけ生える海藻も天日干ししたものを煎じてお茶にして飲むとお通じが良くなったり、生のものに熱を通して食べると癌を予防するとかで長らく島の大切な名産品になっているみたい。


 それを聞いてすごく行ってみたくなった。もしかするとアンルーヴでは手に入らない薬の材料が見つかるかもしれない。


「でもどうしてわざわざそんな遠くまで? 沿岸なら別に半島の先まで行く必要無かったんじゃないの」


「親父の故郷なんだ。伝手があった。俺が生まれる前はあの辺も戦争で危なっかしいとこだったらしいけど、今は戦線も遠く離れて安全って聞いた。親父は戻りたがらないけど、俺はやっぱり海に出たい」


「つまり、この辺りで糸垂らして魚釣りするより、もっと広い海に出て大きな魚も捕れるその島に、将来的には移住したいって事」


「ああ。今はまだ親父が認めてくれねえし、海での漁業技術だって未熟だ。たまに島に行くのは移住までに腕磨いて、向こうに言った後困らねえようにって親父の気遣いでもある」


「いろいろ考えてるんだね」


 偉いなあと呟くと、お前は何かあんのかよ、将来の夢みたいなの、と聞かれた。


「将来の夢、かあ」


 いざ考えてはみたけれど、特に何も思い付かない。


 だから。


「今はまだ、エルネスティーと毎日楽しく過ごせればそれでいいかな、と思ってるよ」


 少し躊躇ってしまったがきちんと考えを口にした。イゾーは表情を変えず「まあそれでもいいんじゃねえかな。Legion Graineだっけ。それがありゃ普通の人よりずっと長生きできんだろ」と言葉尻にはつまらなそうな顔で言った。


「うん。そうだね」


 コーヒーに口を付けつつ壁に掛けられた振り子時計に目をやると、針はいつの間にか四時頃を指そうとしていた。


 わたしの視線に気付いたイゾーも時計を見て、あっと目を見開いて立ち上がった。


「やっべえ、親父に怒られる。そろそろ帰るわ」


「門限怖いの?」


「そりゃな。それに時間は漁師に必要な感覚だ」


 カップ片付けとくよ、と言うと、すまん頼んだ、と口早に答えた。


 イゾーを出入り口まで見送る時、また二言三言の会話を重ねた。


「さっきの、告白なんだけどよ」


「うん」


「俺の事は気にしないでくれ。マルールが決めた事を俺は尊重する。だからマルールは、マルールのままでいて欲しい」


「うん」


「じゃ、じゃあな」


「うん。また魚屋で」


 手を振ってイゾーが歩き出した。家々の角を曲がって彼の姿が見えなくなるまで。そしてふと気付いた。


 マルールのままでいてって、似たような言葉をエルネスティーにも言われた事があったっけ……。



━━━━━━━━



 エルネスティーが戻って来たのはその二十余分後だった。


「おかえり。今日は随分時間掛かったね」


「季節の境目は毛皮ごとに相場変動が激しいから。今日の取り分よ」


 そう言うとエルネスティーは財布から九エールのお札を取り出した。


「これで三十八エール……目標の四十五エールまであと少しだね。この間森に入った時のウサギで返せると思ってたんだけど、やっぱ狼か鷹が持ってっちゃったのかなあ」


 悔しいなあ、悲しいなあ、そんな風にぶつくさ言っていると、彼女は「そうね」と適当にあしらってちらりとキッチンの隅に置いていた木箱を見た。「それよりもあの箱は」


「ああそれ」かくかくしかじか、わたしはエルネスティーが外出している間にイゾーがやって来て、雌雄つがいの鮭をプレゼントしてくれた事を話した。


「あの子から来るなんて珍しい」


「うん。それに退屈だったし、そのままちょっとくつろいでもらってたよ」


「このコーヒーの残り香も、そういう事」


 鼻を利かせる彼女が視線を虚空へ向けた。「それで、今日の夕飯はそれを使いたいんでしょう」


「うんうん。イゾーに教えてもらったんだけど、オスもメスも色々な料理に使えて美味しいんだって」


 勿論イクラはソイソース漬けだよ! と言うと、彼女は小さく頷いて「身を切り分けるの、手伝ってくれる?」と聞いてきた。


「あったり前!」


 それからわたしたちは鮭を切り分けて部位ごとに小分けにした後ムニエルにして、ちょっぴり遅めの夕飯をいただいたのだった。

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