Ⅱ-22 長秋の暮れ、太陽の傾き(または「冬へ」)
森の奥の開けた場所は月明かりで照らされ、用意しておいたランプの明かりも必要無い程だった。馬を少し離れた場所に待機させるとむしゃむしゃ草を食べ始める。ここは森で発生した異変も届いていない場所で、好きなだけ食べても大丈夫だった。
事態が落ち着いてからもう一度異変のあった場所へ向かってみると、そこはどうやら木の実の樹が生っていた円形の内部、しかも中心付近に位置していて、周辺のブナの中でも特殊中の特殊なブナだという事がわかった。エルネスティーでも詳しく調べてみないと実態がわからないそうだ。
そして、バジーリオさんと約束してしまった例の「なんでも」の約束は、わたしが実力行使で無かった事にしておいた。実力行使と言っても何という事は無い、ただ少しばかり馬を借りて彼の家へ向かい実験室に焼きを入れようとしただけだ。もちろん実際にする気は無かったけど、実験と実験台と実験成果第一のバジーリオさんにとってそれらは命よりも大事なものなのだろう。彼はわたしの前に敢然と立ちはだかり、訴訟も辞さないといった剣幕だった。
そして町民大会が終わった後、クランには数年前の日没病の件からこれまでの次第をベルトラン町長も交え全て話しておいた。過去の事柄もきちんと話せばものわかりのいいクランはすぐに納得してくれて、エルネスティーへの敬意も一層増したようだった。
ソフィについてはクランの家で彼女と一緒に暮らす事になった。両親を亡くしてしまった今、身を預けられる後身もいないソフィ。彼女に対し同じ境遇のクランはいい話し相手ができると思ったらしい。ソフィもそれで納得したようだ。だけど、わたしは単に、クランはわたしたちを気遣ってくれたのかなと思っている。
過去の日没病と今回の煉獄病についてはエルネスティーの助言を受けながら、彼女ら二人で解明していくらしい。未来のエルネスティーとマルールって呼ばれるようになると、二人とも意気込んでいた。
ドックスおじさんは薬を投与されたすぐの日に、けろりとした様子で立ち上がれるまでに回復した。その数日後にはわたしたちに手製の野菜スープを振る舞ってくれるまでになって、今ではもうすっかり快復している。
病気はアンルーヴ周辺に生える煙草の原料──バジーリオさん曰くこれも新種の植物らしく、煙草と同じ〈マーシィ〉という名前になった──の抽出物を調整し、点滴として投与するだけですぐに快方へ向かう程度のものだった。病原菌はいくつかの環境条件下で動植物に対して強い感染能力を持っているものの、薬を投与すればすぐに死滅してくれる弱い菌だったという。ただし感染して未処置のままだと死は免れないらしく、やはり少し気付くのが遅れていれば多くの人が亡くなっていた。
どうしてアンルーヴ周辺の特定のブナがその病気に罹り、ドナルドさんに感染し、また別の植物の抽出物で治るのかはわかっていない。ベルトラン町長との町周辺の環境調査と合わせ、これもエルネスティーの研究対象になるらしい。他の町へ病気が飛び火する事も考えられ、薬の製造方法を医師会とバジーリオさんに託し、知識の拡散を彼らに任せておいた。
夜風が少し肌寒く頬を撫でる中、わたしたちは森の開けた場所の中央に陣取りラグを敷いて腰を下ろした。ギヨームさんから借りたアルコールランプでお湯を沸かし、お裾分けに貰った紅茶を淹れる。長く生えた草がクッションみたいになってくれてやわらかい。
「天の川ってあれかな。あの星の白い帯みたいなの」
わたしが指を指した。
「ええ。……すごく、綺麗」
そう言うと彼女はおずおずと手を伸ばしてきた。わたしの右手を掴んでぎゅっと握る。少し肌寒い気温だけど、彼女の手は温かい。
「エルネスティー?」
どうしたの、と訊くと。
「……に、ならないように」
「え?」
「マルールが……迷子にならないように」
そう言えばわたし、いつも気付かない内に勝手にいなくなっちゃうんだっけ。そっか、エルネスティーにとってそれって「迷子になってる」って感じなのか。そんな気全然無いのに、なんだか心配掛けてばっかりだな。
記憶は思い出したくないけど、やっぱりもう少し自分の事、知っておいた方がいいのかもしれない。
「あ。そう言えばさ、エルネスティー」
「何かしら」
「迎えに来た時どうしてキスしてくれたの。わたしびっくりしちゃったよ。そういうのエルネスティーから本当にしてくれたんだって思うと」
「大した意味なんて」
「へえ。大した意味が無いなら、今ここで、できるよね?」
「そ、……」
恥ずかしいのかぎゅっと手に力が入ったエルネスティー。わかりやすくてかわいい。
エルネスティーがしてくれないなら、こっちからキスしてあげようかな。
そう思って体をエルネスティーの方へ向こうと体に力を入れた時だった。
──調子に乗らないで。
そう耳元で囁かれて、唇の右端に軽く触れるだけのキス。
「は……わ……ぁ……」
今のすごい、優しい感じだった。優しくてやわらかいキスだった。エルネスティーからの。
「マルール?」
「あ、エルネスティー……そそ、そ、その」
「……何?」
「その、わたしも、同じとこにしていい?」
「……嫌よ」
つーんとした言葉でもわたしはわかってる。エルネスティーのほっぺたも耳も少し赤くなってる事。
「ねえ、わたしたちこれから一杯キスする仲なんだよ? わたしからもしなきゃお返しにならないよ。それでなくたってわたしから──そうだよわたしからキスした事一度も無い」
「関係無いでしょ」
「関係無くない」
「減らず口閉じなさい」
「キスして塞げば?」
「っ……ばか」
「あ、じゃあわたしか……あああああ手! 手え痛ったいって!」
悶絶と抵抗の意を表明するとすぐ手を離し、わたしは強く握られた手をさすった。手指の骨がゴリゴリ擦れ合って本当に痛かった。けれど、これはわたしの度を超したコミュニケーションのせいだって、わかっている。敢えてやっている。
「あっ」
「今度は何」
「わたしの方からキスするの目標だったの忘れてた」
「本当にこの子は……」
「もっと強気に迫れば良かった……」
溜め息を吐いてそれ以降彼女は返事をせず、再び星空を眺め始めた。わたしも、折角来たんだから茶番はそこそこにするべきと思い、星たちを見つめる。
空に浮かぶ星たちはどうやって輝いているんだろう。町を救ってエルネスティーは自分から輝く事を少しでも肯定してくれたかな。生きて罪や苦しみを受け続けなければならない存在なんだ、なんて気持ち、少しはそうじゃないかもしれないって思ってくれたかな。彼女の気持ちがはっきりわからなくなっているけれど、ほんの少しわかる気がする。そう思ってくれているって。
ベルトランさんから手紙を受け取ってから今まで、わたしもだいぶ自分について気付かされる事が多かった。記憶を少し取り戻して、自分が元は人殺しで、エルネスティーを狙ってこの町に来たかもしれない事。そして、わたしは今もエルネスティーに対して隠し事をし、嘘を吐き続けている事。
もしかしたらそれは、いずれ彼女を心の底から悲しませてしまうかもしれない。
今度はわたしからそっと手を重ねた。彼女は静かにそれをほどいて、あらためてゆっくりと指を絡ませてくれる。
それでも彼女はわたしの事を今みたいに慕ってくれるかな。わたしがわたしでなくなっても今までどおり接してくれるかな。それは多分、今はわからない。
けれど、少しくらいお互いがわからなくなっても、わたしたちは心の奥で繋がっている。
確かに、そう感じる──。
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