Ⅱ-20 人が信じる願いひとつ
打開策としては手分けして細菌の弱点を解明するしかない、という事だった。机上の空論で物事は前進しない。その結論を出して私たちは医学書や実験器具を総動員させ解明と薬の開発に取り掛かった。
ファイトプラズマは植物や昆虫に媒介し、哺乳動物には感染しない。人間に感染するには哺乳動物に感染できるよう変異する必要がある。仮に原因がそれであっても可能性はゼロに近い。
いつの間にか器具を持つ手が震えている事に気付き、深呼吸で気持ちを整えた。
答えを早まっては、また同じ過ちを繰り返してしまう。
「まるで呼吸しているような動きを……」
「だがそうなると別の要因も……」
植物。呼吸。皮膚。炭化。言語障害。歩行障害。麻痺。
今までにわかっている要素を列挙してみる。脈絡の無い要素には私が想定している以上の共通点がある筈。それを何としても見付け出さなくてはいけない。
「エルネスティーちゃん!」
考えていると突然、実験室の扉が乱暴に開かれる音と共にガラガラ声が響く。そこには肩で息をして憔悴しきった表情のミゼットおばさんがいた。「町の様子は知っているわね。ドックスのジジイが……表にいるから来てちょうだい」
それを聞いて私はすぐにおばさんの後について行く。数人の医師たちも私の後ろについてきた。
地上へ上がる階段を抜け外界への扉を抜けると、そこにはところどころに黒を浮かべたドックスおじさんが苦しげに呻き、蹲っていた。ドックスおじさんが絞り出すような声で言う。
「おお、姐さん……悪いな、こんな事になっちまって。ミゼットのばあさんに来るの、手伝ってもらったよ……」
「話すのをおよし」
ミゼットおばさんの表情が険しい。けれど、今の私には打つ手が用意されていない。
「……何とか耐えて。私が何とかするから。必ず」
無責任な言葉を繰り返す事しかできないなんて。
周囲を見ただけでもざっと十人ほどの人間が道端で太陽を求めるように呻いているのがわかる。彼らは皆一様に黒いクロークを羽織り、救いをも求めているようだった。振り向くと医師たちが怪訝そうな顔で私たちを見ていた。
「あなたたちはこの近くの患者を運んでください。彼らを診察してみます」
「魔女の
「場合によっては無理矢理にでも。意識は混濁し正常な判断は難しくなっている筈です。見捨てたいのなら私がやります」
そう言うと医師たちはいそいそと周囲の患者たちを抱えて地下へ運んでいく。ドックスおじさんも同様に抱えられ連れていかれた。そして、その場には私とミゼットおばさんの二人だけになった。
「エルネスティーちゃん……」
「ミゼットおばさんも患者から感染すると大変なので、中で待っていてくださいな。クッキーも紅茶も煙草も、自由にしていただいて構いませんから」
「エルネスティーちゃん、そうじゃないのよ。またアナタ」
ミゼットおばさんは唯一、数年前の伝染病で何があったのかその一連の出来事を話している。おばさんの言いたい事はわかっている。また町の人を救うつもりなのか、と。
「私は、確かに耐えられなくなっておばさんに全てをお話しました。まさかたった数年で同じような事態になるとは思いませんでしたが、それでも助けられたはずの人の数が私には多過ぎます。こんな私でも救えるのなら救いたいと……そう思うのは間違っているのでしょうか」
「エルネスティーちゃんが一生懸命頑張っているのは知っているわ。今もね。でもこんな事が起きて、多くの人が死んでしまう。また何も知らない町の人の憎悪が増してしまうのはアタシにだって耐えられないわよ。そうじゃないかしら」
ミゼットおばさんの言葉は深く響いてくる。けれど、今はその言葉を心に馴染ませる事はできない。
「苦しんでいる人がいます。行かないと」
そう言うとミゼットおばさんは小さく溜め息を吐いた。私は踵を返して実験室へと向かった。
━━━━━━━━
決して広くはない実験室は横たわった十人ほどの患者で足の踏み場もない。もがき呻く患者たちの声が実験室を阿鼻叫喚の地獄へと変えてしまったかのようだ。医師たちはそれぞれ患者の病状や症状の具合を確かめ、患者に耳を傾け、カルテにメモを録っているひとりに声を掛けた。
「何かわかったかしら」
「それぞれの症状はほぼ同じのようですが、程度はてんでばらばらです。意識のある患者から聞いた限りでは、視界が霞んだり、明るい所で異常に眩しく感じる事もわかりました」
「白内障ね。体温は」
「三九・八度と極めて危険な水準です」
「軽度と重度、患部細胞のサンプルを取って」
「わかりました」
顕微鏡のひとつに戻る。植物や昆虫にしか媒介しない細菌という前提を覆した方がいいのだろうか。けれどそうなると、ようやく少しの手掛かりを得た段階から振り出しに戻る事になってしまう。そんな悠長な真似をしていられないのは長い潜伏期間から考えられる町の人への感染率。
「何でもいい……手掛かりを……」
──ねえソフィ。パパは病気にかかる前、どんなお仕事をしたり、どんな場所に出かけていたりしたの?
「マルール?」
ふとマルールのあの時の問いが浮かんで私は気付いた。マルールが実験室にいない。
「……」
──えっと、おしごとは木こりで、出かける場所はいつも森だよ。木を切ってまきにしたり、たてものの柱にするんだって。
「もしかして、森に」
そう思った時、視界の端に実験室の扉を破って勢いよく飛び出して来た黒い影──鳶──が、適当に留まれる場所を定め、ばさばさと翼を羽ばたかせ降り立った。
「おお、シャンタル!……と、何だねそのサルは」
「シュトート!」
突然の事にびっくりした私だったが、ベルトラン町長のサルという言葉によって、鳶の背に乗っていたものの正体がわかる。一体どこからと思った矢先、シュトートは私に一目散に駆け寄って「キッキッ」と首に掛けた小さなペンダントを渡してくれた。
「これは何?」
シュトートはそれ以上何も指し示さない。よく見るとそのペンダントのようなものは、黒いブナの葉によってその幹の木くずが巻かれ、猛禽の爪先でしっかり固定された包みのようなものだった。
脳裏にちらつく。
マルール。
ミゼットおばさん。
ルフェーブルさん。
ソフィ。
何故ルフェーブルさんの症状は進行が遅かったのか。そして、発症してから半年間その近くにいて全く症状が現れていないソフィ。
部屋。
におい。
煙。
「……煙草……」
一瞬の間の後、私はソフィに歩み寄った。びくっと肩を震わせるも、屈んで優しく手を取り包み込むと強ばった表情が少しだけ緩んだ。
「ソフィ。あなたの父親が吸っていたという煙草は何?」
訊ねるとソフィは洋服のポケットから年季の入ったブリキの箱を取り出した。開けて中を見ると、数本の葉巻。
「えと、〈マーシィ〉っていうの。パパが森で見つけたひみつの
「〈マーシィ〉ね。少し借りてもいいかしら」
「うん。でも、ちゃんと後で返してね」
私はしっかり頷いて踵を返した。これはきっとルフェーブルさんの形見。
一刻も早くその場所へ行かなければならない。きっとマルールは逸早くその事に気付いたのだろう。けれどシュトートを先に寄越したのは彼女自身に何か起こったという事だ。私はシュトートに向き直った。
「マルールはどこ」
するとシュトートは先程シャンタルと呼ばれていた鳶に駆け寄り、「キキッキキッ」と私を呼び付けた。鳶がひと鳴きし、もしかして私を案内してくれるのかとわかった。しかしここから離れる訳にはいかない。この場で新しい治療薬を造る技術を持っているのは恐らく私だけだろう。
マルールの事だからきっとまたどこかで無防備に倒れているかもしれない、そう思うとすぐにでも行ってやりたいけど──。
「──うおおおおおおおおおおっ! きみが! きみが魔女か?」
「……はい?」
「バジーリオ!」
唐突に右から聞こえてきたつんざくような絶叫とベルトラン町長の叫びに耳を痛めながら振り向いてみると、そこには白衣を着、小さな丸眼鏡をかけ、ポマードでオールバックに黒髪を纏めた男性が立っていた。
「ああ失敬。僕はベルトラン町長の親友のバジーリオ・ストゥッキ。隔週新聞で伝染病が流行っている事を聞き付けて、まさかベルトランの町に危害が及ぶとなれば、僕だって悠長に構えていられないさ」
「何故ここにいると?」
「そりゃあベルトランから聞いていたし。彼女を是非とも町に迎え入れたいと町長就任時から会うたびに語っていたよ、就任時から一回しか会っていないけどね。問題は町民がそう思えるかに尽きるけど、という事も」
打ち付けに現れるなり随分馴れ馴れしい態度をとる人、とそんなふうに思ったけれど、それはこの人が何らかの研究職に就いているからと推測した。それも相当に性質の屈折した人間。私を恐怖や畏怖の対象ではなく興味や好奇心の対象として見る人というのは、いくら時代を経ようと、どんな人であろうと、漏れなく変人だった。
「あなたは、バジーリオさんは、研究に携わっている方なんでしょうか」
「カナーレという街で生物や植物や患者を調べて色々な研究をしているよ。薬草学は僕の専攻だ」
「不躾ですみませんが、この病の見解を伺っても?」
「よくぞ聞いてくれた。──僕も気になってずっと調べていたんだが、こいつの原因はビスコニオクシア・ヌムラリアと呼ばれる子嚢菌の一種だ。この辺りじゃ土中や植物に広く見られる普通の黴だが、人間以下哺乳動物にも宿るとなると突然変異している可能性が高い。要は人体表面に生えるドロドロキノコみたいな感じだ。今季は特に土壌環境が良好に保たれたから、菌たちも張り切ったんだろうな」
「突然変異の原因をファイトプラズマに求めています。初めは植物病由来の病かと思っていましたが、同じ宿主内で発現性の極めて高いRpoDを有したファイトプラズマは子嚢菌に対する感染能力を獲得した可能性があります」
「僕としても面白い見解だ。調べる必要があるな」
「ですが、目下目指しているのは治療薬の製造です。第一発症者が吸っていた煙草の原料で治療薬が作れるかも知れません。……本当に申し訳ありませんが、この場を離れてもよろしいですか」
私はブナの包みを彼に手渡し言った。途端に彼はおどけたような笑みを浮かべ、訊ね返してくる。
「ほう。それはまた?」
「森に行って探さなければ」
「この場できみのような優秀な人間が一人欠ける、それは万が一にもアンルーヴの町の人を見捨てるという事にならないかい」
ぐ、と唇を噛んだ。バジーリオさんの言う通りだ。けれどマルールを見捨てる事だって、私にはもうできっこない。
「事態が収束したら何でもします」
「ん? 言ったねえ。そうだな、ここの研究設備は面白そうだし受け持ってあげようかな。その代わりさっさと帰って来てくれよ。何をすればいいかなんて全然わからないんだから」
既に全てを把握していそうににやにや笑うバジーリオさんから、そんな雰囲気は一切感じない。
私は一度深くお辞儀をするとシャンタルが飛び立つのを待って外に出た。外に出ると、彼らは上空を旋回し私の準備を待っていた。医師たちがここに来るために乗ったであろう馬を一頭拝借し、旋回した上空の彼らは森の方向へと向かう。私は馬をぴしゃりと打つと大きく体を転換させてその方向へ馬を走らせた。
━━━━━━━━
すごくあたたかい。
それに、やさしい感じがする。
白くて、ふわふわで、でっかいの……。
「ん……」
「マルール」
「……エルネスティー」
目の前にはエルネスティーの心配で泣きそうな顔があった。わたしを覗き込むようにして見下げているようだ。
「ここは……」
どこ、と訊ねる前に、顔が近づいて──
「っ……」
唇に唇が、くっつきあった。
「……? ? っ?」
首筋よりあたたかくて、耳たぶよりやわらかくて、ほっぺたより張りがあって、ちょっと舐めただけで生クリームみたいに溶けちゃいそうな、エルネスティーの、少し開いていた口から、彼女の、湿って熱い吐息だって。
「は……っ」
離れた。
「ぅゎ、あ……ぅ……く、くち、っ、エル……っ」
やばい心臓の音聴こえちゃう。
「マルール……」
「は──はぃっ」
「何故いつも無茶をするの……」
「へ?」
彼女が移した視線の方を見ると、白いシャツがはだけて横腹辺りに大量の血が滲んでいた。そう言えば馬を助けるためにLegion Graineの一部を摘出したんだっけ。
よく周りを見渡すとむしゃむしゃ草を食べている茶色い馬のまったりした姿。もう一頭は黙って立ち尽くし、毛並みは黒い。こちらはエルネスティーが乗ってきた馬だろう、シュトートとシャンタルが上に乗って茶々を入れながら遊んでいた。こんな長閑な光景で経緯を知らない彼女が心配するのも無理ない話だ。
それにわたしの事、探しに来てくれた。
「ご、ごめ、また勝手にいなくなって。そうだよね、エルネスティー、そういうの嫌いだもんね」
すると、きゅっと唇を噛んで心配そうに見てくる。
「そんな事より町は? 大丈夫なの? それとも、もしかしてもう」
すると、彼女は少し安心した様子に頬を綻ばせ「バジーリオさんという人が現れてその人に任せたわ。見た目は変人だけれど信頼はできそうな人だったから」と語る。
「えっ、危ない事されちゃわな──」わたしがバジーリオさんを知っているのはまずい。「──信頼できるって事はそれなりの頭と腕なんでしょ。変な事されなかった?」
「事態が落ち着いたら何でもすると約束してしまったわ……」
なんてこった。あまつさえあのバジーリオさんにそんな危険過ぎる約束をしてしまうなんて。わたしはわたしにされた凶行を忘れてなんかいない。
「大丈夫。わたしがそんな、何でも、なんて、させないからあ……!」
「マルール。怖いわ」
「さあ今すぐ帰ろう。まだやる事は一杯あるんでしょ。わたしなら心配しないで。エルネスティーからキスされて爆発しそう」
「……」
起き上がる時に膝枕されていたと知り、もっと早く気付いておけばよかったと歯噛みした。
「治療薬は早々に完成しそうだけど、まだ油断はできない。例のブナの木のサンプルと、ルフェーブルさんが吸っていた煙草の原料を持って帰らないと」
わたしたちはそうしてお互い乗り合わせた馬に乗った。
走らせる前、エルネスティーが少し不思議な事があったと切り出す。
「あなたが家出した時に白い野猪に出会ったと言ったじゃない」
「うん」
「あの時と同じ野猪かわからないけれど、白い野猪があなたを守るように寝そべっていたの。私と目が合った途端、逃げるように奥へ行ってしまったけれど」
「白い野猪?」何だかすごくあたたかかった時があったような気がする。「不思議だね。やっぱりわたしのペットか何かだったのかな」
「まさか。……行きましょう」
それで、わたしたちは馬を走らせたのだった。
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