Ⅱ-16 痛みの在処はこの胸に

 地下と地上の往路に使ったエレベータは、階こそ移動しているもののそれ以外に変化はない。どうやら電力を供給している人たちはまだわたしたちの存在に気付いていないようだった。


 地上に着いてそそくさと病院を後にしようとするエルネスティー。でも、わたしはどうしても確認したい事があった。右足がもつれた理由。


「ねえ、エルネスティー」


「何かしら」


「その……最上階に行ってみてもいい?」


「どうして。早く帰らないと」


「それはわかってるけど……」


 わたしは立ち止まって叱責するエルネスティーに縮こまりながら、自分の身体の異変についてやはり違和感を覚えていた。見た事があるような光景に確かにもつれたわたしの右足。それが自分にとってどういう意味なのか確認したい。もっとこの病院内を歩いて探索してみれば、きっと記憶の断片くらいは思い出せるかもしれない。


「マルール。ここに来る前に足の力が抜けたと言っていたわね」


「え、うん」


 応えると、彼女は目を閉じ顎に手を当てしばし唸った。と、思ったかと思うとすぐに目を開けて言う。


「Legion Graineを体に取り込んでいる以上、怪我の後遺症から来るものとは考えにくい。だから、あなたにとって何か印象的な出来事とその右足が関係している」


 印象的な出来事、となるとやはり、わたしの過去にまつわる事だろう。記憶を失ってから右足に関わる出来事はない。崖から落ちた時に骨折したのは左足だった。


「この施設にいる他の人たちが気になるけど、仕方無いわ。あなたの記憶が少しでも戻るきっかけになるのなら」


「でも、さすがにエレベータを使うのはよした方がいいかもね。もしかしたらわたしたちの存在が勘づかれるかもしれないから」


 エルネスティーはその言葉に頷いた。地下への移動に気付かれなかったのは単なる誤作動と思われたからだろう。三十階まで階段を使う事になるが、予定よりずっと早い目的達成で時間は余っているし、ギヨームさんには少し悪い気もするけど、わたしにとってもこれは重要だ。


「途中で疲れたらおぶったげる」


「これでも森歩きで慣れてるわ」


「予言するよ、エルネスティーは絶対音を上げるって」


「あなたこそ右足が疼かないといいわね」


 軽い小競り合いの後、わたしたちは階段を探して上り始めた。



━━━━━━━━



「で、あの威勢の良さはやっぱりエルネスティーのかわいいとこだった訳だ」


 茶化すつもりでそう言ったが、背中にいるエルネスティーは黙ったまま微動だにしない。言葉にできない程悔しいのだろう。


 エルネスティーが音を上げたのは二十階を過ぎた辺りだった。足が悲鳴を上げ始めたのは十五階を過ぎた頃で、それ以降は騙し騙し上っていたが、二十階でついに力が入らなくなってしまったという事だった。どんな強気発言だって森の勾配や歩きにくさとは随分勝手が違う。


 わたしは一段一段を軽妙な足取りで上っていた。エルネスティーの身体の軽さは言わずもがなだ。


「マルールはどうして平気なのかしら」


 悔しげな声が背中から聞こえた。


「そりゃあれだよ。元々の身体のつくりが違うって事」


「身体のつくり、ね」


「それより見てよ。もうだいぶ上ってきた。あと二階」


「ありがとう。だいぶ休んだから自分で歩けるわ」


「わかった。じゃ、踊り場で……」


 エルネスティーがそう言うので、わたしは二十九階への踊り場で彼女を下ろした。彼女は足を軽く曲げ伸ばして様子を見ると、大丈夫、という視線を送ってくる。そして、あと一階半の階段を上った。


 三十階のフロアに足を付けるなり、わたしは大きな溜め息と伸びをする。そのまま横を見るとエルネスティーがいて、その視線は壁に掲げられた大きな図面に向けられていた。どうやらこの最上階は一際大きい部屋が構えられているようだった。それも、方角にしてちょうど真南の位置を占領するようにどんと構えられている。


「これは院長室ね」


「院長室って、一番偉い人の」


「ええ」


「行ってみよう」


 わたしは言った。院長室はすぐ近くにエレベータがあるが、階段は正反対に位置している。少し歩く必要があった。


 念のためライフルを構えてエルネスティーを後ろにやる。わたしは細心の注意を払った。


「……待って、エルネスティー」わたしは立ち止まる。そのままエレベータの階数表示を見た。「この階に誰かいる」


 三十階で光っている表示を見て、咄嗟に声を出さないよう促した。そして、安全そうな部屋に飛び込んで身を低くした。


「たぶん院長室だ。この部屋で待ってて」


「マルール、無理してこの階に留まる事なんて無いわ。ひとつ下の階でも」


「違う。……──違うよ」


 あれ、と思った。勝手に言葉が滑り出てくる。


「殺さなきゃ。敵は二人だ」


 呆気に取られたエルネスティーの表情。


「待ちなさい。どうしたの、いきなり」


 立ち上がろうとして、ぐっと掴まれたのはベストの端。


「殺せって言われたんだ」


「誰に、マルール、一体どうしたの。もしかして記憶が」


「関係無い。行かなきゃ。離して」


「離さないわ」


「エルネスティー、お願い」


「あなたのお願いでも」


 力いっぱい手を握りしめて、ベストを掴んで離してくれないエルネスティー。こんな事をしている暇は無かった。目標は二人、確実にあの院長室にいる。それをみすみす逃す訳にはいかない。


「マルール、──……っ!」


 エルネスティーの首元に、ナイフ。


「こんな事させたくないなら、さっさと離して」


「離さない」


 マルール、どうして、と彼女が言う。


 言葉にできそうもない素直な気持ちの、その理由。


「殺さなきゃ生きられない。殺さないと何にも貰えないんだよ。生きるための食べ物も、お金も」


 何言ってるんだわたし──心にも無い事を口走り、自分自身に驚いてしまう。


「そんなの私と一緒にいれば関係無い」


「うん、関係無いね、ごめん。でもなんか、そう……食べ物を食べるって生き物なら当然でしょ? だから殺すのも当然だって自分の中で」


 自分の中──?


「ごめん」


 わたしは首元に寄せていたナイフを逆手に持つと、彼女の握り締められた両手の甲を軽く薙いだ。


「っ……」


 途端、エルネスティーの表情は痛みに歪み、ベストを握り締めていた手も離れてしまう。力加減を誤ったのか、大量の血が出ていた。


「マルールっ」


 小さく叫ばれ危機感を覚えたわたしはナイフの柄の底面で彼女のこめかみを打った。それで呆気無く気絶してくれて、床に倒れて動かなくなる。


 気付けば踵を返して駆け出していた。


 わたしは二人組の待つ院長室へ向かっていた。



━━━━━━━━



 院長室の開け放ちの出入り口の前で屈み中の様子を窺う。ちらりと見える部屋の中には予想通り二人組の武装した人間がいた。穏やかな様子で立ち話をしているようで、窓の外の景色を眺めながらゆっくりと歩き回っている。


 あいつらを殺してしまえば今日も好きなウサギ肉の串焼きとかぼちゃのスープが食べられる。わたしはライフルを背中から取り出して銃弾をゆっくり装填すると、二人組のひとりに狙いを定めた。


 彼らはどちらも軽装で、どこかの武装組織の人間だとわかった。体格にはほぼ違いが無くどちらも内太股は狙いやすい。引き金にゆっくりと指を掛け、今度こそ失敗する訳にはいかないと細い深呼吸を繰り返した。これは神様がわたしに与えてくれた願っても無いチャンスなのだ。わたしがまた、生きる事にありつくためのチャンス。


 そして、ぐっと指に力を込めた時だった。


「そういやお前、Cold Boarって知ってるか」


「Cold Boar……遊撃隊だってアレか?」


 手が震える程の力を込めて、引き金を引く指が押し留められた。


「しばらく休業してたのにまた動き出したんだってよ」


「大昔の話だろ」


「眉唾だが、ひとりはまだ生きてるんじゃないかって噂もある。ひとりひとりが最高の腕前だから今さら誰がCold Boar名乗っても変わらないけどな」


「ここ最近の噂話でCold Boarの仕業だって話は聞いた事無いぞ」


「やり口が変わったらしい。内太股を狙うんじゃなく、頭を撃って即死させるのが新生Cold Boarの殺り方なんだってよ」


「おっそろしいな。じゃあ俺たちも」


「今すぐどっちか撃たれて死んじまったりしてな」


「まさか──」


 引き金を引き、迷彩柄の布を顔に巻き付けたの目が見開かれた。「──テオっ!」テオと呼ばれた方は内太股を必死の形相で押さえながらのたうち回る。わたしはナイフを持ち、黒い布で顔を覆った男と対峙した。


「てめえ何モンだ」


「通りすがりのマルールだよ。ねえ、さっきCold Boarの事話してたよね。教えてよ」


「ふざけんな!」


「おっとと」


 相手もナイフを取りわたしの顔を抉ろうとする。それを適当に避けて相手の後ろに回り込む。腕を捻って羽交い締めにしながら首元にナイフを寄せた。


「ね、教えて」


「こいつ……っ」


「あ、う……ラウぅ、血が止まらない……、Cold Boar……こいつが……」


「テオ! 諦めんな!」


「血……血だ……痛い……」


「くそ!」


 安い三文芝居はいいからさっさと教えてよ。


 そう耳元で囁くと、ラウと呼ばれたこの人が叫んだ。


「お前、内太股を狙ったな? お前がCold Boarなんだろ? 何でわざわざ訊く?」


「わたしは自分がCold Boarだなんて思ってもいないし、思いたくもないよ。でも気になるから訊いてるの」


「どういう意……」


「ごっちゃごちゃうるさいなあ」


 ラウが恐怖に叫んだ。ほんの少し首に刃を立てたのだ。


「な、何を言やあいいんだ」


「知ってる事ぜーんぶだよ?」


「知ってる事なんて、伝説の遊撃隊だってのと、その噂についてしか……ひっ」


「あのさ、わたし夕飯に遅れる訳にいかないんだよね。もうお預け食らうのごめんなんだ」


「わかった待て、そうだ、Cold Boarはどんな時も内太股を狙撃していた。そこを撃って即死はしない。お前もCold Boarなんだ。だからそこを狙う」


「どうしてCold Boarは戦争で遊撃隊なんてやってたんだろう」


「……あいつらは殺人狂だったんだ。頭を狙えばいいのに、いつも内太股を狙って死ぬまで苦しむ様を眺めて……性悪で陰険で残虐な奴ら。お前もどうせ同じなんだろ……」


「ふーん。で、他には?」


「し、知らねえ! もう知らねえ! おいテオ起きろ! 起きてこいつを撃て!」


 ラウが再び叫んだ。しかし、テオは既に事切れてしまったのか、血溜まりの中で微動だにしない。ナイフを喉元に当てているせいで声帯がめいっぱい震えているのがとてもよくわかった。


「はあ……もういいや。──早く楽になって」


「は?──ぐぇ、げ」


 力加減なんて気にせず力いっぱいナイフを喉に突き刺して、そのまま横にぐいと引いた。ラウが頑張って声を出そうとすると、血が泡立つ濁った音が漏れる。それと同時に体が激しく痙攣し始め、支えきれなくなったわたしはそっとその体を床に下ろしてあげた。少しすると、すぐ何もかもやんでしまう。その場はしいんと静まり返った。


 その筈だった。


「いっ、」


 右の脹ら脛に痛み──見ると、すっかり青ざめた顔でこの時を待っていたかのような顔をしたテオが、こちらに拳銃を向けていた。


 撃たれた──。


「初めて反撃された……」


 本当の事。


「パパの……嘘つき……」


 痛みが伴う事。


「一丁前に敵の前に現れて撃たれておめおめ帰ってきた?」


「お前をそんなふうに育て上げた覚えはないぞ。また一から叩き込まなきゃ駄目か」


「もう一度聞くぞ。また一から叩き込まなきゃ駄目か。そこまでお前馬鹿なのか」


「こういうふうに胸ぐらを掴まれたら許しを請うのが教えた事だったか」


「死にたいのかお前」


「こいつあ駄目だな。来い」


「ここの奴ら全員殺せ。ちょうど新しい依頼が舞い込んだんだ。一匹残らず殺ったら足を治して、飯も今まで通り食わせてやる。弾薬は帯の分だけだ」


 わたしは生きるために、人を殺すんだ──。


 わたしは、そう、パパから教わった──。


「そうだ」


 答えてくれたかのように後ろでパパが気づいたように言う。


「一発だけ、手伝ってやるよ」


 そうして、わたしの体に覆いかぶさるように銃身を支え、わたしの指を巻き込むように、引き金に指をかけるパパ。


「狙うべきはどこか、サイトをきちんと覗いて、瞼は開いておけ」


 ──そうだぞレティシア。それでいい……。


「──あ……」


 記憶? 自分の? この人たち、殺した? なんで? 人……死……。


「マルール……」


「っ、エルネスティー……エルネスティぃ……わたし……っ」


「何も言わなくていい。息を整える事に集中して」


 出入り口から力無く現れて、現れるなり抱いてくれるエルネスティー。それだけでわたしの焦燥も呼吸も少しだけ収まった。そのまま彼女がゆっくりと深呼吸を始め、わたしも彼女のそれに合わせるように深呼吸を始める。その調子で背中をさすられて、しばらくそれを繰り返すと、ようやく呼吸が整ってきた。ずっと抱きしめていた彼女の体が離れる。


「マルール。本当にどうしたの。それに、この真新しい遺体は」


 エルネスティーの表情は静かで穏やかだった。いや、努めてそうしているのかもしれない。彼女の内に見えるものは、どう考えてもわたしへの猜疑心だった。


「ごめん、ごめんなさい。体が勝手に動いて」


 それだけで確信を得られないと思ったらしい彼女は早々に質問を繰り出した。


「何か、思い出したのね」


 胸が高鳴る。聞かれたくなかった質問だ。


「……うん」


 もう足の傷が治ってしまっている事に気付き、わたしたちは打ち捨てられた院長デスクの上に腰掛けた。ぽっかり空いた窓から見えるのは瓦礫とくず鉄の山で、遠くの景色は霞んでいる。太陽は薄い雲で隠れて見えなかった。吹きさらしの部屋に時折入り込む風が、何だか妙に寒く感じる。


「エルネスティー。ごめん」


「ええ」


「わたし、エルネスティーが負い目を感じてる戦争に、加担していたひとりかもしれない。……人殺しをしてたみたいだ」


 嘆息しながら言うと、隣に座っているエルネスティーが息を飲むのがわかった。


「ごめん。無責任な言い方だった。わたしは、人殺しが生業だった。パパがいた。パパから人の殺し方を教えられてた。それで依頼を受けて、成功報酬で生きてた」


 そう、と言う彼女の声はほんの少しだけ震えていた。


 胸が痛くて、でも言わなきゃいけないと思った。


「ここに来た事は無い。似たような場所に来て、そこで二人の男を殺すように言われてた。失敗して、右足を撃たれて、パパのところへ戻ったら、すぐ別の依頼をさせられた。貿易商隊ひとつを潰す依頼だった」


「その後は覚えているの」


「一発だけ……撃って、すごく小さな子どもがひとり、死んだのだけ覚えてる」


「それで、パパという人の名前や顔は」


「それが、思い出せないんだ」


 エルネスティーは黙った。きっとわたしはエルネスティーにも酷い事をしたに違いない。彼女の手の甲は固まった血で茶色く染まっていた。


「エルネスティー、その手の血」


「転んで手をガラス片で傷付けてしまったの。覚えてないかしら」


「え、え、と」


 手の甲をガラス片で切るってどういう転び方だろう、そんな自然な疑問から、もしかして彼女はわたしを気づかっているのかと思った。


「ねえ、それわたしが傷付けたんでしょ。エルネスティーにしてはヘンな言い訳だもん。そうなんでしょ」


「違うわ。本当に転んだの。想像以上に足が疲れているようね」


「……」あまり突っ込むのも彼女の気を悪くしそうな気がして、それ以上は問い質さない事にした。横目でちらりと彼女を見ると悲しそうな素振りも無く、いつものようにまっすぐに、瓦礫とくず鉄の山しかない景色を見つめていた。


 初めて──彼女が今何を思っているのかわからない──そう思った。


 わたしの口が何かを紡ごうとして動く。ただそれは、吐息だけが少し肌寒い風に紛れて空を切った。そのまま唇を噛み締める。すぐ隣にいるのに、遠く離れているような気分がする。


 ふと、「人殺し」という声が脳裏を過ぎった。自分自身で言ったのだ。その言葉を。


 断片的ではあった。だけど、確かにわたしが撃った。わたしが引き金を引いた。わたしが人を殺した。パパから人殺しの術を教えてもらっているわたしがいた。右の人差し指にあの時の引き金の冷たさと、パパの指の無骨な感触が残っている。


「ひと、ごろし」


 間を通り抜ける風の音のおかげで、その微かな呟きはエルネスティーには聞こえなかったようだ。


 嫌な予感がした。わたしが人殺しであるという意味と、わたしが今エルネスティーと過ごす理由を考えてしまった。Cold Boarという言葉に聞き覚えがあるのも、内太股を狙うのも、かつてウサギを初めて狩った時、止めを刺さず死ぬまで見届けていたのも、それは全部彼らが言っていたようにわたしがCold Boarだからなのだろうか。いや、もしかするとパパがCold Boarでありエリクなのかもしれない。わたしはパパから生き物の殺し方を学んだ。だから、エルネスティーを殺すためにアンルーヴに足を運び、そして霧深さに崖から足を踏みはずし、落ち、記憶を失ってしまったのだとしたら。


 急に動悸がしてきた。呼吸と胸が苦しい。まだわたしがあの谷底で倒れていた確信的な理由にはならないのだ。それに、それが事実だったとしてわたしはそんなの認めたくない。


 エルネスティーは殺せない。


 それでも。


 エルネスティーを殺すためにアンルーヴに来たのだとしたら。


 エルネスティーから離れたくない気持ちも、彼女を殺すまで離れる訳にはいかないという理由なのだとしたら。


 また、知らない内にエルネスティーを傷付けてしまうのだとしたら。


 その未来が可能性として大きく横たわっているのだとしたら。


 わたしは、君の隣に、ずっと一緒にいるべきなんだろうか。


「マルール」


「あっ、何?」


 急に呼ばれて慌てて振り向くが、それでも彼女はこちらを見てはいなかった。ただまっすぐと景色を見ていた。


 真一文字に結ばれた口が薄く開き、告げる。


「私、少しだけ、マルールが何考えているかわからなくなった」


「え……」感じた事の無いむなしさ。「……エルネスティー」


「……」


「ごめん、ね」


 怒ってるのかな。悲しんでるのかな。憂鬱なのかな。それともわたしが手を傷付けたから、ショックを受けて呆然としているのかな。いままでにないほどぜんぜんわからない。


 エルネスティーが何を思っているのかわからないけど、すごく悲しいよ。


「こんな事、今言うのもおかしいけど」


「……」


「わたし、何があってもエルネスティーの事、す……」


 きゅっと喉が締まって、その先を告げさせてくれなかった。


 すき。


 言ってしまっていいのか。エルネスティーにこの言葉を。だってアンルーヴに人殺しに行く人なんて、その目的なんてわかりきっている筈だ。エルネスティーを殺すため。それに、エルネスティーの近くにいたい気持ちが、もしかしたら彼女を殺すまで近くにいなきゃならない因縁のせいだとしたら。


 そんな言葉、言える訳無い。


「マルール。何」


「……何でもない。ごめん」


 どうしてこんな悲しい気持ちになるんだろう。エルネスティーの気持ちだけじゃない。自分の気持ちさえわからなくなりそうだ。


「エルネスティー。帰ろうか。ここ危ないし、ギヨームさんも皆も待ってる」


「そうね。賢明な判断だわ」


 わたしが提案すると、いつものエルネスティーの抑揚の無い声で応えられた。


 そうして、わたしたちはギヨームさんの元に戻るまで会話を一切交わさず、手を握り合う事も無く、ただ並んで歩いていた。



━━━━━━━━



 待ち合わせの街の入口まで戻ると、ギヨームさんはせっせと馬をブラッシングしていた。こちらに気付いたギヨームさんが振り向く。


「エルネスティー様。マルール様。目的のものは手に入りましたか」


「ばっちりだよ。ただいまギヨームさん。いつ頃出られそう?」


「馬の世話をしているので、あと三十分ほどかかると思います。お二人でお待ちになっていてください」


「あ、それなんだけどさ。ちょっと向こうで喧嘩しちゃって雰囲気悪いんだ。ほら、……エルネスティーは黙ってあっち行っちゃったし。ギヨームさんとお話したいんだけど、馬のお世話しながらできる?」


「ええ、もちろんできます」


「そっか。よかった」


 わたしたちとは離れて瓦礫の上に腰かけ、背嚢から医学書を取り出すと、黙々と読み始めたエルネスティー。そんな彼女をよそに、わたしもギヨームさんの近くにある手頃な瓦礫に腰かける。すると、ギヨームさんが切り出した。


「お二人が喧嘩とはどのようなものでしょうか。マルール様もエルネスティー様もいつも仲睦まじくいらっしゃったので、会話もできない程の喧嘩はわたくしには想像が難しいようです」


 ギヨームさんにだけは事の次第を話しておいた方がいいかもしれない。


「実はわたし、記憶を失う前は人殺しを生業にしていたんだ」


「人殺し、ですか。マルール様が」


 この告白にはギヨームさんも作業を止め、こちらを向いて目を丸くしてしまった。本当に無理も無い話だ。それ程記憶を失う前のわたしと今のわたしは、想像とかけ離れた人物なのかもしれない。日記で見たエリクの豹変ぶりに、わたしが呆然としたように。


「差し出がましいですがマルール様。悪く思えば思うほど、事態というのは悪い方向へ向かうものです。わたくしは人殺しを生業になさっていたマルール様より、エルネスティー様を慕う、今のお優しいマルール様が好きでございます」


「ギヨームさん……」


 わたしの名前は「忘却」の「マルール」だ。きっと今のわたしがエルネスティーの事を好きで好きでたまらないのだ。昔のわたしが人殺しで、エルネスティーの命を狙っていたのだとしても、どんな理由があるにせよ、今のわたしがエルネスティーを好きなのは変わらない。


 エルネスティーが付けてくれた名前──ギヨームさんがそれに気付かせてくれて、なんとなく救われたような気分になる。


「うん。そうだよね。ギヨームさんの言う通りだ。ありがとう」


 そう言うと、自然とにっこり笑みが浮かんだ。


「恐れ入ります。マルール様にそう言っていただけると、わたくしも大変嬉しゅうございます」


 ギヨームさんは作業に戻りつつ言う。


「作業が終わりましたら声をお掛け致します。それまでに、エルネスティー様とお話になってきてはいかがでしょうか」


「ああ、うん」ちらりとエルネスティーを見ると変わらない様子で医学書に読み耽っている。「でも、今はいいや。読書に集中してるみたいだし、後で話し合ってみるよ。適当に暇潰ししてるからギヨームさんは馬の手入れに戻って。お話聞いてくれて本当にありがとう」


「わかりました。では、作業に戻らせていただきます」


 ギヨームさんは小さく一礼すると馬に向き直った。わたしもライフルと血濡れのナイフを取り出し、手入れをしながら待つ。


 その後、わたしたちは再び三日かけてアンルーヴへと戻る道程を経たが、その途中でエルネスティーと会話を交わす事は一切無かった。

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