Ⅱ-17 亡念、まごころ忘れなば

 昼過ぎ──アンルーヴに戻りギヨームさんに家の入り口前で降ろしてもらうと、わたしたちは顔を見合わせる事無く家への扉を開け、クランとソフィが待っているリビングに行く。しかし、リビングに二人はいなかった。


 ルフェーブルさんがいる部屋の扉を開けると三人がいた。クランとソフィは彼の世話をしていたのか、氷嚢の用意をしている。その状況は明らかに出掛ける前とは違っていた。


「あ、二人ともおかえり。帰って来て早々悪いんだけど、ルフェーブルさんの容態が急に悪くなったの。手伝って」


「お姉ちゃん……パパが……」


 その二人の様子にエルネスティーは取り出していたサンプルの入った容器をわたしに手渡し、「実験室にある冷蔵庫に入れておいて」といつもの調子で言われ、すぐにルフェーブルさんの容態の確認に取りかかる。サンプルを手渡されたわたしは文句を言える立場でもなく、言い付け通り実験室に向かった。


 実験室はいつも薄暗い。わたしは電気を点けず冷蔵庫のある部屋の一角へと歩く。すると、親指と人差し指で作った輪っかぐらいの大きさをした白く光る丸いものが冷蔵庫の上にあった。右から左へと移動し、その動きを繰り返すように点滅している。注意深く近寄ってみると、「キッ」と鳴いた。どうやらシュトートが冷蔵庫の上でぐるぐる回っていたようだ。


「どうしたのシュトート。こんな所にいるなんて珍しい」


「キッキッ」


「お腹でも空いたの? でも、ここに餌は置いてないよ。ちゃんと自分で一日に食べる量だってわかってるでしょ」


 わたしが言うと、シュトートは二度ほど目をぱちくりさせて首を左右に振り始めた。


「何言いたいのかわかんないって」


 そんな気持ちを吐露しつつ冷蔵庫の扉を開けて中のサンプルを冷蔵庫の所定の位置に収める。すると、逃げた冷気がシュトートの寒気を誘ったらしく、「ギ」と声を上げながら身を低くし、臨戦態勢でわたしを睨みつけた。


「ごめんごめん。ほら閉めるよ。上にいると寒いから降りな」


 そう言うとシュトートは冷蔵庫の中にするりと入り込んでしまった。寒い場所に自分から入るなんてバカになっちゃったのかな、と思うが、どうやらシュトートは何かを伝えたいらしい。ウイルスの入った容器をしきりにぺしぺし叩き、突如ぐっと首元を押さえ苦しそうに「ギッ、ギッ」と呻いた後、ぱたりと倒れる真似をする。そして瞼をそっと開け、ちらりとわたしの方を見た。


「やめてよシュトート。そんな遊びするような頭の悪い子じゃないでしょ。それに、今そんな真似事するなんて酷いよ……」


 うんざりしながら言うが、シュトートはそれでも真似事をやめない。見ようによっては鬼気迫っているようにも見えるのだが、ルフェーブルさんの様子も気になる。シュトートのおかしな行動に付き合っている暇は無い。


 仕方無く、何か訴えようとしているシュトートの首根っこを掴み、彼を冷蔵庫から引き離してから冷蔵庫の扉を閉めた。彼を見ると項垂れた様子で「キイイ……」と悔しそうな声で呻いている。


「いいかいシュトート。君はね、エルネスティーのお眼鏡に適ったんだよ。その意味わかってるでしょ。ほら、わかったら図書室に戻りな。わたしも早く戻らないとなんだから」


 言い聞かせてやると、シュトートは「キュウウ」と今度は今にも泣き出しそうな声を出した。


「ほら。戻って」


 きつく言うと、泣き出しそうな態度から一転して大きく口を開けて牙を剥き出しに見せ付けてから、逃げるように駆けてしまった。「このわからずや」と捨て台詞を浴びせられたような気分になる。もしかしたら実際にシュトートはそう思っていたのかもしれない。


「一体何なんだ」


 ひとり呟いた後、わたしはエルネスティーたちのいる部屋へと急いで戻った。


 ルフェーブルさんの容態は俄然悪くなっていた──とわかるのは、エルネスティーの顔に焦りと汗が見えたからだった。クランもエルネスティーも献身的に診ているが、事態は好転しないらしい。見ると、ルフェーブルさん自身もうんうん唸って苦しげに呼吸を繰り返していた。


「エルネスティー戻ったよ。わたしにもできる事……」


「無い。この場ではクランの方が慣れてる」


「直接じゃなくていい。少しでも手伝える事は」


「ソフィと一緒に外へ出ていて。肉親が苦しみもがくところを見せるなんてできないわ」


「……わかった」


 手を休めず的確な指示を与えてくれる彼女にわたしは頷いた。その間もルフェーブルさんはソフィの名前を呂律の回らない口で呼び続けている。部屋の端で椅子に腰掛けてそわそわしているソフィの元へ歩いた。


「マルールお姉ちゃん。パパどうしたの……」


「パパはね、ちょっと寝苦しいんだって。パパが寝付くまでエルネスティーたちがそれを治してあげるみたいだから、わたしたちはパパが安心して寝付くまで町を散歩しよう」


 不安の表情を隠さないソフィにわたしは手を差し伸べる。パパさんやエルネスティーやクランをひとりずつ見て、彼女はおずおずと手を取ってくれた。


「ありがとう。お姉ちゃんと町を回って、気分転換しようね」


 わたし自身にも向けた言葉かもしれない──ソフィが頷いてわたしたちは何も言わずに部屋を後にする。それから少しのお金を持って外へと出た。



━━━━━━━━



 一週間ぶりのアンルーヴの町は一層冬の色が強まっているように見えた。空は黒鉛のような雲が太陽を覆い、冷たく乾いた風が肌を粟立たせる。わたしたちはそれでぶるりと大きく身震いしてしまった。


「寒くない?」訊くと「だいじょぶ」と返事。わたしたちは歩き出した。


 厚い曇と冷たい風で冷やされた空気はアンルーヴの町の人を屋内へ押し込んでいるようだった。商店街に出ても人の姿はまばらで開店している店も少ない。見る人はみなコートを身に付け白い布のマスクを着用していた。


 わたしたちも寒さとその様子に背中を押されるように、開店しているカフェへと身を寄せる事にした。何度かクランとお茶をしたお店だ。ここは寒風を避けるには持って来いの場所らしく、店内には暖を求めてやって来たであろう客が温かい飲み物を注文して談笑に耽っていた。


 席に着くなりそれぞれホットコーヒーとホットハニーレモンを選んだ。好きなお菓子もひとつ選んでいいよ、と言うと、ソフィは少しメニュー表を眺めてからブリオッシュを指さした。店員さんに品物を告げてから数分、目当てのものが目の前に置かれ、お互い飲み物を一口してほっと温かい溜め息を漏らす──と同時にソフィが口を開いた。


「ねえマルールお姉ちゃん。本当はパパ、だめなんでしょ」


「へっ? な、何で?」


 咄嗟に答えたためか裏返った声がますますソフィに確信を抱かせてしまったらしい。ソフィは「やっぱり……」と呟くと顔を下向かせ、しょんぼりしたふうになった。


「いや、大丈夫だって本当に。あのエルネスティーだよ。治せない訳無いよ」


「パパの具合が悪くなっていってるの、知ってるもん。もうだめかもしれないって、知ってるもん……」


 俯かれたままそう言われると有無を言わせぬ感じがする。


 あの状態ではいつかそうなってしまうとソフィも知っているのだ。きっとルフェーブルさんの呻く様は今までに無い程の苦しみようだったのだろう。


「パパを一番に知ってるのはソフィだもんね。わかったようなふりして、ごめん」


 その言葉も、自分に向けて放たれたような気がした。


「……ごめん……」


 後悔が頭をよぎり、片手で額を押さえた。エルネスティーの事だけではない。自分自身さえ知らなかったわたしが自分の正体みたいなものを知って幻滅している。自己嫌悪をもっと酷く拗らせたような感覚がする。


 ソフィはそれでも「お姉ちゃんはあやまらないで」と顔を上げて応えてくれた。


「ソフィはやさしい子だね。どうしてそんなにやさしいんだろう」


 どこかに救いを求める気持ちでそれとなく訊ねた。ソフィは上げた顔をさらに虚空へ向けて黙る。その間、わたしはコーヒーを飲んで待っている。やがて考えがまとまったのか虚空に向けていた顔をわたしへと向き直した。


「あたしね。少ししか覚えてないんだけど、ママがいたの。もう、死んじゃったけど。それでね、ママが言ったの。やさしい子になってねって。ママの代わりにパパを助けてあげられるくらいやさしい子になってねって。今も覚えてるよ」


「……そうだったんだ」


 やさしい子になって、なんて、思い出された記憶では一度も聞かなかった。


 記憶の失う前と今のわたしはどうしてこんなにも違うんだろう。人を殺すのが嫌だったから、その記憶をすべて失った自分は、いつかミゼットおばさんが言っていたようなエリクの性格そっくりに陽気で楽天家で子どもの扱いに長けて、誰よりもエルネスティーが大好きで、人殺しなんか生業にしているような人間ではない人格を作り出してしまったのだろうか。自分から人殺しに関する一切を消した姿が、わたしなんだろうか。


 これから失われた記憶をどんどん取り戻していってしまったら、いつか自分は今のわたしではなくなってしまうのだろうか。人殺しを厭わず、どこまでも冷たくて、残虐な性格になってしまうのだろうか。


 それで、いつかエルネスティーを殺すのが、わたしにとって当然の事だと感じるようになってしまったら。


「やさしい、って。どういう意味なんだろうね、ソフィ……」


 エルネスティーが苦しんでいるならそれを終わらせてあげたいと、自分勝手なやさしさの中に彼女の死が選択肢として立ち現れてしまう可能性。


「どうしたの。マルールお姉ちゃん。苦しそう……」


「ううん……大丈夫。お姉ちゃん、ちょっと悩み事があってね。何でも悪い方に物事考えちゃうんだ」


「マルールお姉ちゃんにもなやみごとあるの? あたし、何にもできないかもしれないけど、少しでもお姉ちゃんの役に立つなら何でもするよ」


「何でも? 本当に……」


 じゃあわたしが人を殺して生きてたって言ったらどう思う?


 咄嗟に口から出掛かった言葉をぐっと飲み込んだ。そんなの小さな子どもに聞いてどうするっていうんだ。それでなくたってソフィのパパさんは、今。


「っ、ごめん……。お姉ちゃん、ちょっとお手洗い、行ってくるね」


「あ、う、うん」


 わたしはソフィの承諾を得て店の一角のトイレへと駆け込んだ。鍵を閉めてすぐに我慢していた嗚咽が漏れた。涙がぼろぼろ溢れてくる。


「なんで、泣いちゃうんだろ……っ」


 こんな記憶思い出したくなかった。こんな気持ちになっちゃうなら、ずっと記憶を失ったままでいたかった。何も知らない楽しい生活だけ送っていたかった。


 自分が人を殺して生きていたなんて。


 わたしは、エリクと同じで、あの谷底に身を投げた方がいいんだろうか。エルネスティーを傷付けてしまう可能性があるなら、少しでもその未来が見えるのなら、わたしはエルネスティーが大切だから、そうした方がいいのか。彼女の前から消えてしまった方がいいのか。今の未完成なLegion Graineならまだ自分は死ぬ事ができるかもしれない。けれど、突然わたしが消えたりしたら彼女はどう思うだろう。


 まだ僅かな記憶で早合点かもしれないのは十分わかっている。けれど、その記憶がもたらした僅かな可能性さえわたしである事を許してくれない気もする。


 思い出してしまったんだ。思い出してはいけない事を。


 大きく息を吐いて涙を拭う。


 もし彼女を殺してしまう事が自分にとっての使命のようなものだとしたら、それは自分で抑えるしかない。彼女を悲しませる一切を彼女に見せてはならない。だってわたしはエルネスティーが好きで、大好きで──それだけはきっと、記憶を取り戻しても変わらない真実であって欲しいから。


「泣いてるとこ、エルネスティーが見たら心配してくれるかな……」


 彼女が何を考えているのかよくわからなくなっているけれど、彼女ならきっと心配してくれる。エルネスティーは冷たいふうに見えても心の奥ではいつだって他の人を気遣ってくれる人だ。


 鏡を見た。少しだけ眼が赤らんで涙の跡も残っている。備え付けの蛇口から水を掬い顔にかけて引き締めた。ソフィにだって心配は掛けられない。今はこの気持ちでしゃんとしなきゃ。


 わたしは何度か深呼吸をして喉のつっぱりを治した。


「うん。よし。大丈夫」


 鏡に向かって言い、わたしはソフィの元へと戻った。


「ごめんねソフィ。ちょっと体調悪くなっちゃって」


「気、つかわせちゃったならごめんなさい……」


「お姉ちゃんなら大丈夫だよ。自分の事で悩んでるんだ。ソフィこそわたしに気なんて遣わなくていいんだよ」


 ほら、お菓子も食べていいから。


 手付かずのブリオッシュに気付いたわたしがそう言うと、ソフィは申し訳無さそうにお辞儀をして切り分け始めた。すると一口大のかけらになったそれをフォークで刺して、ずいとこちらに向けてくる。


「ん、どうしたの」


「マルールお姉ちゃんにもあげる」


「いいの? うれしいなあ。じゃあ一口貰っちゃおうかな」


 わたしのお金だけどまあいっか。と思いつつも身を乗り出してぱくりと口に含んで身を引く。出来たてふっくらのパン生地にほのかな甘味があってとってもおいしい。


「うん、ありがとう。おいしいよ」


「元気出た?」


「ソフィに励まされて元気にならない訳無いよ。パパにもこうしてやさしさを分けてあげてたんだよね、うらやましいな……。これからもずうっとパパにやさしくできるように、早くパパに元気になって欲しいね」


「……うんっ」


 ソフィはパッと表情を明るくさせて意気揚々とブリオッシュを切り分け始めた。切り分けたそれをぱくぱく食べて、あっという間に皿は空っぽになった。やがてコーヒーもハニーレモンも飲み終わって、わたしたちは外に出る事にした。


「おいしかったね。次はどこ行こうか」


 店の外に出てソフィに問うと、彼女はほんの少し気恥ずかしそうにして「行きたいとこがあるの」とごく控えめに提案した。


「行きたい場所?」問うと「うん……ついて来て」と言われ手を引かれる。


 そうしてしばらくして歩いた場所は町の外れにある場所、共同墓所だった。整然と並べられた墓石には所々に花が置かれていた。物音も一切無く、静謐な印象が肌でも感じられた。


 ソフィがここに来る理由はよくわかっている。彼女の母親のお墓をわたしに見せたいのだろう。


「こっち」


 そういうとソフィはさらに手を引く。辿り着いた場所の墓石は入り口近くの墓石よりも一回り小さく、収入の低い人たちのための場所のようだった。


 立ち止まった前の墓石には「ルフェーブル」と彫られていた。下の余白部分には「オデット」。


「この人がソフィの」


「うん。パパが病気になってから年に一回のおまいりを月に一回にして、パパを助けてっておねがいしてるの」


「そうなんだ……」


 オデット・ルフェーブルさん。どんな人だったのかはソフィの慕い方で十分にわかる。


 わたしは屈んで黙祷した。どうかパパさんを助けてやって、と。エルネスティーが手を下している事に天国で反発しているのかもしれないけれど、ソフィのためにも、ここはひとつ。


「時間もだいぶ経つし、パパも寝てるだろうね。そろそろ帰ろうか」


「うん」


 そう言って手を繋ぐと、うう、うう、とくぐもった音が耳に入った。


「ソフィ、もうお腹空いたの?」


「おなかすいてないよ」


「じゃあ、この音……」


 また、うう、うう、とくぐもった音が聴こえた。音のする方を見ると黒い影がゆらゆら歩いている。


「マルールお姉ちゃん……ゆうれい……?」


 ソフィにも見えたらしく、不安げに訊ねる。わたしは彼女をここで待っているように言う。うん、と頷いてくれて、その場に座り込むのを見届けると、わたしは黒い影がゆらゆらしている方へ向かった。


「あの、ごめんください」


 後ろから呼び掛けても返事は無い。ゆらゆら、ゆらゆら……と本当に幽霊のようだ。


「ねえ聞こえてる? こんな場所で何して……」


 追い付き、肩に手を掛けて言った。すると、肩を揺らしてこちらを振り向いた。


「っ……!」


 微かな悲鳴が喉をこする。


 その顔は黒くどろどろに溶けていた。タールを塗りたくったようにも見え、まるでゾンビ。


 その人は一瞬だけ目を見開くと、足早に墓所を出て行った。呆然として取り残されたわたしも、後ろからくいくいとベストを引っ張られる。ソフィだった。


「ひとりでいるの怖くて付いてきちゃった。あの人は」


「あ、えと──何でも無いよ。わたしが驚かせたせいで、びっくりして逃げちゃったみたいだ。さ、帰ろう」


「うん」


 そうしてソフィの手を握ろうと伸ばしたのだが、自分の手が汗でびっしょりになっているのに気付いてやめた。


 あれは、もしかして、ルフェーブルさんと同じ症状?


 そうは思ったが、墓所という場所柄、嫌な想像で見間違えただけかもしれない。


「どうしたの?」


「ご、ごめんね。お姉ちゃんもちょっとびっくりして……」


 たった一瞬の事だったし考えていても仕方が無い。わたしたちは手を繋いで家路に着く事にした。


 帰ると、ルフェーブルさんは眠っていた。


 けれど、それはもう決して目覚める事の無い、安らかな眠りだった。

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