Ⅰ-14 わからないままそこにいること

「ああーうー」


「変な声出さないで」


「だってまたベッドに釘付けだなんて」


「ヒグマと戦うなんて無茶するからよ」


 エルネスティーの家に帰ってきて即行われたのは体の診察だ。元よりヒグマとの死闘でぼろぼろだし、彼女が心配するのも無理はなかった。


「それで、何をされたの」


「腕を引っ掻かれて、左の脇腹を横なぎに思いきり殴られた」


「細菌の処理と内臓の損傷ね。細菌の処理はまあいいとして問題は内臓よ。ただの打撲ならいいけど」


 と、こんな具合だ。


 わたしは清潔なシャツ姿になってベッドに仰向けに転がっている。内臓が損傷していようがいまいが、少なくとも数日はとにかく絶対安静で、食べ物もふやかしたパンと水みたいにあっさりしたスープしか口にすることができないのだという。エルネスティーが作ってくれるかぼちゃの濃厚なスープも、わたしがせっかく捕らえたウサギもとりあえず解体して保存しておき、今は食べられないとのこと。


 せっかく空腹を満たすために捕まえたというのに、新鮮なウサギ肉。


「ひどいや……」


「喚いても無駄よ。観念なさい。服の裾、まくり上げて」


「なんで?」


「触診する。まさかお腹をかっ割いて直接見るわけにもいかないでしょう」


 触診?


「──なななに言ってんのエルネスティー! わたしそんないかがわしいことできないよ!」


「頭まで殴られたのかしら?」


「ひぇっ」


 わたしは怒気を纏う彼女に圧倒されて情けない声を出した。


 あの細くて、すべすべで、繊細な動きをするエルネスティーの指がわたしの脇腹を優しく撫でるなんて、想像しただけでもなんか、ダメだって。


「わたしの理性どっか吹っ飛んじゃうから、何しちゃうかわかんないから……自分でやるから……」


「自分で触診できるの」


「板みたいに硬いところを言えばいいんでしょ」


「ええ」


 わたしはシャツの裾をまくり上げて脇腹を露にすると、右の指先を左の脇腹に当てた。力の加減を補助するために左手も添え、わたしはぐっと殴られた周囲を押し始める。


「……」


「……」


 なんだか、見られるのが恥ずかしい。


「あのさ。エルネスティー」


「なに」


「後ろ、向いててくれない?」


「どうして」


「いや、その、なんか、恥ずかしいから」


「は?」


「いや、その……だからこの見られてる感じ、ちょっと恥ずかしい」


 わたしが顔を背けながら言うと「まったく」エルネスティーは座っていた椅子の上で体を向こうに反転させ「これでいいのね」と言う。


「う、うん。わかったら呼ぶから」


 そうして触診を再開した。しかし、どこを触っても異常はない。


「エルネスティー。どこも変なとこないよ」


 呼びかけると、それを契機にしたように彼女の肩がぴくりと動く。こちらを振り向いた。


「もしかすると脾臓かもしれないわ」


「え。脾臓って肋骨のすぐ下だよね」


「ええ。もしかするとそこが損傷しているのかもしれないわ」


「もしかして、って」


 首と視線を動かして脾臓の位置を見た。胸に隠れて見えない位置にある。つまり、胸のすぐ左下辺りにある。


 それでわたしは堪らず叫んだ。


「ムリだってえ! こんなとこ!」


「なんで」


「だって、胸のすぐ下……!」


「さっきから何。あなたが怪我して寝ている間、体を拭いてあげたのは私よ」


「そ……」


 そういう問題じゃない。だって、起きてる間にエルネスティーにそんな際どい部分触られたら、絶対変な気分になるし、脇腹だからくすぐったくておかしな声も出ちゃうし、何よりも──わたしがエルネスティーをどうにかしてしまう。


「あ、えと、エルネスティー。にじり寄らないで」


「内臓の損傷は命に関わる。うだうだ言ってないで診せなさい。それとも何、死にたいの?」


「死にたくないよ、そりゃ、でも……」


 エルネスティーの様子はいつもと変わらない。ごく真面目に触診を遂行しようとしているだけだ。むしろ、勝手におかしなことを想像して、勝手におかしな気分になっているのはわたしなのだ。


 エルネスティーの言うとおり、内臓の損傷を甘く見てはいけない。だが、それ以上にエルネスティーに、そんなとこ触られるなんて。


「エルネスティー……」


「痛くはしない。診るだけよ」


「……絶対に守ってね」


 エルネスティーはこくりと小さく頷くと、わたしのシャツの裾に手をかけて胸の下辺りまでまくり上げた。


 ひんやりと冷気が素肌に触れた、かと思ったが、それはエルネスティーの指だった。あまりにかすかな感じに触るものだから、冷気と勘違いした。


 エルネスティーは腹のすぐ下辺りに指を這わし、軽く周辺を押し込んでゆく。


「どうしてそこを」


「脾臓が傷つくと流れた血液がここに溜まるからよ。吐き気や圧迫感はない?」


「少し、おかしな気分がする」


「じゃあ問題ないわね」


 すっ、と手を私の背中に差し入れて、体を転がした。右側に臥せる姿勢だ。そして、左の脇腹を指でなぞった。


「うっ」


「動かないで」


「だって、いきなりそんなふうに触られたら……」


「ちょっと待って」


 そこで、エルネスティーは──大腸が直腸に向かって曲がる辺りに手を這わした。そこはわたしにとって「くすぐったい」場所で、そこをぐっと押し込まれて変な声が出る。


「あ、はっ、ちょっとエルネスティー。んっ」


「変な声出さないで」


「ひどい……」


 こんなのされて平気でいられるほど理性なんて保てない。


「え、わ」


 わたしは触診をしていた彼女の手を右手で取り、こちら側に引っ張った。すると、中腰の姿勢だった彼女はバランスを崩して倒れ込んでくる。わたしはバランスを崩した彼女と入れ代わるように体をくるりと反転させて起き上がると、そのままエルネスティーを下に組み敷くような姿勢になった。


「……随分元気そうね」


「エルネスティーが悪い」


「なにが」


「あんな風に触るから」


「気でも触れた?」


「ううん」


「じゃあ……」


 わたしは右手でエルネスティーの両手を塞ぎながら、左手でエルネスティーの青いクロークを剥がしにかかった。


「マルール、何してるの」


「仕返ししようと思って」


「あなた馬鹿ね」


「わたしの気が晴れる」


「やめなさい」


「絶対やだ」


 どうせエルネスティーはわたしから逃れられない。首元の紐を解くとクロークはベルトの部分まで容易に脱げ、黒のタイトなボレロを外すと、中には黒いドレス。そこで彼女が小さな溜め息を吐いた。


「マルール……わかったから、ここからは自分で脱ぐ」


「え、自分で……って」


 何も言わない。それでもゆっくり手を離すと、気難しい表情をした彼女は言う通り、自分から脇腹に指を掛け黒のドレスを脱いで見せた。そうして、素の上半身が露になると、そこには──。


「この模様」


 鎖骨から下、胸元、腹の部分まで、目の周りの黒い模様と同じ形の、細かな黒い雫模様が無数に浮き出ていた。まるで全身を覆い尽くす黒い呪文が書き連ねられているようにも見える。


「なに。これ」


 あまりの様相に息を飲んでいると、エルネスティーが静かに告げた。


「目の周りだけじゃない。私の模様は全身に浮かんでいる」


「病気のせいで?」目を逸らした彼女が小さく頷いた。「でもなんで、こんな」


 そう訊ねるとエルネスティーは「気色悪いでしょう。目の周りだけならともかく、全身にこんな模様があったら」とわたしを再び見据えて見透かしたような声を出した。


 その言葉でわたしは我に返り、慌ててクロークの端を掛けた。彼女の上になるのをやめてベッド横で立ち尽くす。エルネスティーは何事もなかったようにドレスとボレロを着直し、クロークを纏って首元の紐を結んだ。


「ごめん──なんか──ここんとこ頭に血昇ってばっかりだ。ごめん」


「気にしてない」


 やんわりと体を退けられベッドから立ち上がると「それくらい元気ならきっと大丈夫ね。でも、やっぱり数日は絶対安静。内臓の損傷は症状がすぐには現れないことも多いから」としゃんとした様子で告げた。


「うん……」わたしはベッドの上でへたりこみ、力なく返事をした。


「ちゃんと寝ているのよ」


「うん。ごめん」


 そうしてエルネスティーは部屋から出ていった。ベッドの中で体を丸めた。


 ここ最近はどこかおかしい。まるで自分じゃないみたいだ。すぐに嫌な気分になってカッとしたり、変な気分になったからって襲おうとしたり。でも、もしかしてこれが記憶を失う前の自分の本性なのだとしたら。


 撃ったウサギを黙って見ていた時もそうだ。さっさととどめを刺してやればウサギだって苦しまずに済んだはずなのに、わたしは、ただ苦しむ様を黙って眺めていた。息絶えるまでその様子を観察していた。こんなのがわたしの本性だなんて思いたくない。記憶を失う前のわたしに戻りたくない。ずっと記憶を失っていたい。記憶なんて取り戻したくない。


 自分の隠された記憶の中に化け物が潜んでいるのか。エリクという亡霊がわたしに同じ轍を踏ませようとしているのか。


 わたしはさらに毛布を被って頭を抱えた。もし仮にそうなのだとしたら、記憶が戻ってしまった時にわたしがする行為も自ずとわかってくる。


 エルネスティーを手に掛ける。


 周辺の森で倒れていたのも、エルネスティーを殺すのが目的でアンルーヴへ向かっていたのだとしたらライフルを担いでいた理由もわかるし、猟師──わたしがそうだったかもしれない理由も頷けてしまう。


「どうしよう……」


 答えてくれる人なんて、いない。

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