Ⅰ-4 仕立て屋の老婦に敵う者なし

 かすかに降っていた小さな雪がいつの間にか見えなくなっていた。歩きながら上空を見ると、まだまだ灰色の雲は空を隙間なく覆っている。


 アンルーヴはいつも寒いくらいで、年間の平均気温は十度を下回る場合が多いのが普通だとエルネスティーは話していた。だからここでは仕立て屋のような服飾関連の店が多い。暖かい服はつねに求められているからだ。火の材料となる木を調達する木こりもこの町には多い。


「この町は年中秋と冬が続いているようなものだから。寒さ対策にはみんな気をつかっているの」


 わたしがへえと適当な相槌を打つと彼女は、その興味なさげな返事はなに、と苛立ちを隠さなかった。


 空を見つめながらわたしは答えた。


「着られればなんでもいいやと思ってさ」


「寒くても薄着でいられると」


「まあね」


 彼女は肩越しに振り返り言う。「あなたを見つけた時にあなたが着ていた服、なんだったと思う」


 え、と虚を突かれるも「真っ裸とか?」冗談ではぐらかす。はあ、と向こうから白い息が流れてきた。


「シャツとベストとズボンにブーツ。ポケットにはハンチング帽。猟師のような服装をしていた」


「猟師?」


「どうやら以前のあなたは着られればなんでもいいとは思っていなかったようね」


「そうみたいだね?」


 となるとわたしは以前、猟師を生業としていたのだろうか。


 動物を狩って、その肉や毛皮なんかを得て、それを必要としている人と取り引きして生計を立てるのが猟師だったはずだ。だけど、わたしのように崖から足を滑らせるようなドジを踏む人間に、狡猾で素早い獲物を追う役ができるとは思えない。


 そうなると、わたしの手持ちのライフルは?


「猟師かあ。信じられないな」


「私もあなたみたいなドジな人が猟をできると思えない。図太いけどね」


 一言余計じゃないかなあ、と心の中で突っ込んでおいた。それを声に出す代わりに、ちょっとぐさっとくるかも、と軽く笑いながら受け流す。


「……ここが服を預けている仕立て屋」


 歩いているうちに目的地に着いたようだ。建物の見た目はレンガ造りで、商店街のどの店ともなんら変わりない建物。


「ミゼットおばさん。頼んでいたもの、出来たかしら」


 エルネスティーがそう呼びながら入ったあとわたしも続く。この仕立て屋の主人の名前はミゼットおばさんと言うらしい。「おじゃまします」と言いながら店内に入った。


 中にはロール状にされた色とりどりの布が壁に寄りかかるようにずらりと並んでいた。七色のグラデーションになるよう綺麗に並べられ思わず圧倒される量だ。そして中央奥のカウンターには、短い白髪にウェーブをかけ気難しい表情をしたおばあさんがちょこんと座っていた。


「いらっしゃい。エルネスティーちゃん」


 うわ、と心中だけで驚き引く。聴くに堪えないしゃがれた声。


 それでも一歩前に出て挨拶した。


「初めまして。エルネスティーのところでお世話になっているマルールです」


「そう、アンタがね……」


 眼鏡を指でくいっと戻すと、よく見えるように片目だけ開けてじろじろ視線を向けてくる。気難しくなった表情と深く刻まれた皺の数々が彼女の放つ雰囲気と視線とをさらに刺々しくさせ、思わずたじろいでしまった。その反応のためか、ミゼットおばさんは口の形をへの字にしてみせた。


「この子、躾がなってないわね。きちんと教育してあげなきゃダメよ。記憶喪失なんでしょう」


「ええ」


 エルネスティーがこくりと頷く。躾やら教育やら、なんのことだかさっぱりわからない。


「……見たところ生真面目そうな印象を与えてくれるけども、性格は意外と粗野でつかみどころがないという感じね。それにエルネスティーちゃんが言っていたとおり、無意識に思わせぶりな態度をとる傾向がありそう」


「へえ」


 どうやらこのミゼットおばさんという人物は、見た目からわたしの性格判断をしてくれているようだ。しかし、今の性格がわかったところで記憶を失う前の自分を知ることなんてできやしないだろう。現に彼女の性格判断を聞いて思い出す過去はなにもないのだ。


 いや、翻って今のわたしは「もし」の姿なのだ。


 以前のわたしから記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったから、ミゼットおばさんが判断したように、粗野でつかみどころがなく、無意識に思わせぶりな態度をとる──要するに脳筋──ということになるのかもしれない。記憶を失う前の自分がどんな性格をしていたかは知らないから、比較できようもないんだけど。


「『へえ』だって。エルネスティーちゃん。この子への教育はもっと厳しくても構わないわ」


 わたしがあれやこれや考えているうちに、ミゼットおばさんからあられもない発言。


「ええ、そうですわね。ミゼットおばさん」


「ちょっとエルネスティー」


 呆気に取られてから反論するわたしにエルネスティーが近付き「彼女の意地の張り具合はこの町一番よ。それでいてとびきり腕がいいから得意先にしている客は多いけれど、好き好んで来る人はいない。わかるでしょう」と早口で囁いた。


 エルネスティー越しにミゼットおばさんを見て、なるほどと合点がいく。たしかにこんな気難しい表情をしたおばあさんの元へ嬉々として訪れたがる人はいないだろう。茶目っ気すらなさそうな彼女の雰囲気のせいで店に入るのもままならない人もきっと多い。


「なにをこそこそしているのかしら」


 彼女からそんな言葉をかけられ、わたしたちの肩がびくりと震えた。エルネスティーがミゼットおばさんにさっと向いて「ミゼットおばさん──彼女への教育は私がしっかりしておくので──頼んでおいた品の具合を見せていただきたいのですが」


 いい話の逸らし方、と心の中でエルネスティーに精一杯のエール。


 それが上手くいったのか、ミゼットおばさんも預けているものの話に移った。


「頼まれたものね。ちゃんと出来ているわ。しっかり繕ったから見てみてちょうだい」


 上手く話を逸らせて安堵したエルネスティーがおばさんの元へ行く。わたしはようやく荷を下ろしたように肩の力を抜いた。


「これよ。擦り切れたり穴が空いたりして酷い有り様だったけど、アタシの手にかかったわけだもの。造作もなかったわ」


 ふふふと笑いながらミゼットおばさんが奥の棚から畳まれた服を取り出した。受け取ったエルネスティーが衣服を広げて仕上がりを確認し始めたので、わたしも彼女の隣に移動してその出来を確認する。


 素人目で見ても一目で新品同様とわかるほどだった。布の継ぎ目は見当たらず、これが本当にボロボロになっていた服なのだろうかと疑ってしまった。


「すごい……」


 思わず感嘆の呻き声がもれた。しかし同時に「本当に作り直したのかな。実は原型留めてなかったりして」とも、漏れる。


 当然ミゼットおばさんがこれを聞き漏らすわけもなく「エルネスティーちゃん。この子の言葉づかいが改善されるまで、この子への食事はスープだけでいいと思うわ」などとのたまい「そうですわね。覚えておきます」彼らだけで口裏を合わせてしまう。


 エルネスティーから服を受け取って詳しくじろじろ眺めてみるが、感心するばかりで肝心の記憶についてはやはりなにも思い出せない。自分の肌に身につけていたものでも思い出せないというのなら、もはや思い出せる過去なんてないのではないか、と訝ってしまう。自分に関する情報が少なすぎるのも思い出せない要因なのかもしれない。


 服を調べているわたしをよそに、彼女らは話を進めていた。


「それで、代金はおいくらに?」


「占めて六十エールといったところね」


 服を調べながら、六十エールってどのくらいの価値なんだろう、と頭の片隅でぼんやりと考える。


 エルネスティーが顎に手を当てて小さく唸った。「六十エール、ですか。少しお高いんじゃ……」


「あれだけのボロ雑巾をここまで堂々と着られるものにしてあげたんだ。それくらい貰わないと割に合わないよ。それに、見積もりの時点で最低でも五十エールは払うことになると言ったろうに」


 ぐ、とエルネスティーの唇が引き締まる。どうやら相当高い料金を請求されてしまっているようだ。見ず知らずのわたしのために、エルネスティーは高いお金を支払おうとしてまでわたしが着ていた服のことを考えてくれている。


 それで彼女を庇うために一歩前に躍り出た。


「エルネスティー、ごめん。──その代金、わたしが支払うよ」


「あなたじゃ無理よ」


「無理じゃない。それにもちろん、すぐにはできない」


 彼女に半身を振り返らせ、肩に手を置きそう告げる。少し目を見開いてこちらを見る彼女の顔は「なに言ってるの」と言いたげだ。ミゼットおばさんはいまだ不敵な笑みを浮かべながら「いい案でもあるのかい」と問うてきた。わたしは向き直る。


「その……怪我が治ったらいくらでも働いてお金を稼ぐ。わたしがその六十エールを稼いで代金を支払うから。元々わたしの服らしいし、エルネスティーには命を助けてもらった恩もあるしさ。これ以上迷惑かけられないよ」


 彼女の表情は驚きに満ちていた。働いて稼いで支払うだけのことにどうしてそこまで驚くのかまったくわからない。少なくとも自分の服の代金は自分で支払うのが道理のはずだ。


 わたしたちを黙って見ていたミゼットおばさんがにやにやしながら言った。


「なかなか……。思っていた以上に義理がたいお嬢ちゃんじゃないかい。気に入ったよ。直した服はとりあえず渡そう」


 ただし、と続ける。


「代金はきちんと六十エール、後払いだよ。マルールちゃんがきちんとお金を返せたら、アタシから祝いのプレゼントのひとつでも差し上げようかね」


 わたしたちははっとして彼女を見るも、にやにやと企むような意地悪い顔を崩さず、さらに続けた。


「できたら、の話だよ。この町で稼ぐには難しいからね。すこぶる腕が立つか、だれとでも仲良くなれるか。この町のコミュニティはしっかりしてるから」


 片目を閉じ、もう一方の目でエルネスティーを舐め回すように見る。見られたエルネスティーはわずかに目を逸らした。嫌なことでも言われたのだろうと思い失礼を承知で呟いた。「意地悪だ」けれど、ミゼットおばさんは聴こえない振りをしたのかその呟きを無視した。都合のいい耳。


「どうだいこの話。悪くないだろう。無理を承知でやってみるかい」


 挑戦的な言葉で挑発する彼女に、わたしはエルネスティーの前に一歩出て宣言した。


「いいよ。やってやる。でも約束を果たせたらちゃんとわたしの名誉を回復してよね」


「アタシに二言はないよ」


 わたしだけで話を進めて良かったのだろうか、この期に及んで心配になりエルネスティーに振り返ると、彼女は唇をきゅっと閉じ、うつむきがちの視線で突っ立っている。まだ気にしているのかなと思ったが、そうでなかったらわたしたちの間に割り入ってくるか、とひとり合点がいった。


「エルネスティー、話ついたよ。帰ろう」


 我に返った彼女は小さな溜め息で間を繕った。


「ええ……」


 まただ。どうして悲しい顔するんだろう?


 わたしは渡された衣服を備えつけの包装紙で手早く包むと、彼女の手を取り足早に店を出た。「おやおや、ねえ……」と後ろで聞こえる声を無視して。


 

━━━━━━━━

 


 エルネスティーの手をとって適当な路地裏まで導くと、軽く息を吐いてから彼女の方へ体を反転させた。


「どうしたの」なんか調子ヘンだよ、と言うわたし。


「なんでもない」


 だったらさっきのつらそうな顔、なんなの。


 そう問うと、彼女は静かに顔を伏せた。青のフードで表情は完全に隠れる。たっぷり十秒そのままでいると、ぱっと顔を上げた。悲しそうな目なんかしてない無表情のそれ。「大丈夫。心配かけて悪かったわ」


「エルネスティー、よく聞いて」


 わたしはさっさと帰ろうと踵を返す彼女の肩に手を乗せた。


「これは気休めだよ。でも本当の気持ち。わたしはエルネスティーにそんな顔してほしくない。昔何があったのかとか知らないけど、そんなつらそうな顔見たくないよ。もっと楽しそうに笑う顔が見たい」


 体を向こう側に向けているからその顔は窺えないが「そんなの気休めじゃない。本当に──」と言う彼女の声は震えていた。


「うん。だから気休め」


 肩にほんの少し力が入ったのがわかる。


「ひどい人……」


 わたしの手から離れた彼女は先を歩き始めた。もしかしたら墓穴を掘ってしまったのかもしれない。でもどうしても彼女には笑っていてほしい。それだけは伝わっていてくれるといいんだけどな。


 そこで視界に雪がちらつき始めていることに気づいた。牡丹雪になっていて、肩に雪が積もっている。前方のエルネスティーの肩にも雪が積もっているから払ってあげようと早歩きするけど、どうしてか追いつかなかった。


 だから、わたしはほんの少し息を吐いて、彼女の後ろについていくことしかできなかった。

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