Ⅰ-2 肥えた男にゃかぼちゃが映える

 どれくらい経ったのかはわからない。わたしはあいかわらずベッドの上にいた。


 彼女が不意に訪れないことを十分に確認すると、脇腹の真新しいガーゼをめくる。縫われた傷口に薄くかさぶたが出来ていた。同時に、あれから結構な時間を眠っていたのだということも。


 両足の動きの塩梅を見てからベッドから這い出て、壁に立て掛けられていたライフルを杖に立ち上がった。脇腹の痛みはあの時よりもだいぶ和らぎ、それでも少々痛むのだが我慢できないほどではない。とりあえずお腹に入れられるものをいただこうと無理をしないペースで歩き始めた。ついでに中の様子を見渡す。やっぱりここは蟻の巣だ。


 昔あった戦争で兵士の保養地兼武器貯蔵庫として機能していた地下施設を改装して住めるようにしたと、エルネスティーは言っていた。軍用施設であったなら壁も床ももう少し綺麗に整っていても良いはずだが、このあたりはいろいろ角度を変えて見ても蟻の巣にしか見えない。横穴でも掘って増築したのだろうか。


 そうしてわたしは蟻の巣のような通路をさ迷った。ゆっくりとしたペースで歩いてはいるものの、歩けど歩けど出口らしい出口が見当たらない。しまいには、ずきり、と脇腹がおもむろに痛み始めた。今まで痛くなかったのは薬が効いていたからだろう。しかし、エルネスティーがいないまま痛み止めが切れてしまうとは都合が悪すぎる。


「う……」


 脇腹が痛むのを庇うように、わたしはライフルに体重をかけた。


「またそうやって体調を顧みない。破れかぶれな性格もここまでくると馬鹿にするのも面倒になる。呆れたわ」


「エルネスティー」深い青色が視界に広がった。「痛み止めを……」


「持って行こうとしていたところ」


 水入りのコップと白色の粉が包まれた紙を手渡された。痛みが酷くなるのが怖くて、今度は味や効能を気にせず飲み下す。


「はあ」コップの中の水を最後の一滴まで飲み干すと、大きく溜め息を吐いた。「これなんなの」


 苦さに顔をしかめつつ彼女に尋ねた。即効性のものではないらしく、眠気が襲うわけでなければ痛みが引くこともなかった。


「ふつうの痛み止め。遅効性だけどよく効く。……作り置きだから安心して」


「うん、そうだね。でもどうしてふつうの痛み止め?」


 わたしは素直に聞いてみた。前と同じように超即効性の睡眠薬で良いではないか。早く痛みから解放されてしまいたい。


「痛み止めさえあれば歩けるようだからリハビリがてら町に出てみようと思う。あなたの薬や食事の材料は町から調達しているの。町の人に感謝しなさい」


 町の名前はアンルーヴと言ったはずだ。どういう町なのだろう。エルネスティーがわたしを谷底から拾って来られる範囲に位置しているのなら、周りは山に囲まれている。景観がわかればおおよその季節も把握できるはずだ。記憶を手繰り寄せる一助にもなるか。


「わかった。行こう」


「この地下の間取りも複雑だから把握しておいてほしいけれど、まずは町の案内ね。せっかく意気込んでいるようだし」


「そういえば杖どうするの。さすがにライフルじゃ歩きにくい」


「用意してる」


 来て、と言うエルネスティーにわたしはついていく。彼女の歩くペースが遅いのがありがたい。


 彼女の後ろについていって数分、迷路のような通路を抜けた先にはコンクリートで補強された広い部屋があった。壁に備え付けられた簡素な燭台が灯りを放ち、ただただ広いだけの部屋に奇妙な感情を宿らせている。そして灯りが続く奥には地上へと伸びる階段があった。それが見えたことに安堵し、それにしても複雑な場所だと小さく嘆息すると、エルネスティーはどこからか一本の松葉杖を持ってきた。


「ライフルよりは楽に歩ける」


 使い方わかる、と聞かれたが「松葉杖くらい知ってるよ」と言い、ライフルと交換でそれを受け取った。空いた左腕で脇に挟み、手のひらで中ほどのグリップ部分を握る。ライフルよりもだいぶ姿勢が楽になった


「傷口には響かないかしら」


「大丈夫っぽい」


「そう。包帯は替えたし、寝ている間に体も拭いてあげたから、いつでも出られるわね」


 寝ているあいだにも彼女には世話になっているらしい。やけに甲斐甲斐しいのがやっぱり気になった。


「見ず知らずのわたしにどうしてここまでするの」


 思いを巡らすうちに頭の中で考えていたことが口から漏れてしまった。けれど本当にそうだ。谷底にぼろ雑巾のように転がっていた人なんて見捨てるのが当たり前なのに、そうしてだれもが諦めそうなところを、彼女はわざわざ自宅に運んで来てまで介抱してくれている。


 しかし、彼女の答えは思いのほかあっさりとしていた。


「助けたかったから助けただけ」


「えぇ?」


 それだけ?、と拍子抜けした。


 それだけではないだろう、とも。


「本当はもっと他に考えてたんじゃないの。ここまでしてくれて」


 率直に聞いた。いくら彼女の性格が気まぐれであっても、厄介者でしかないわたしのような大怪我人を好き好んで介抱するはずない。


「そんなことないわ。私はいつだって自分の気持ちに素直に、直情的に生きているもの」


「それはそれで問題ありなんじゃ」


「どこに問題があるの。それともあなた、あのまま放置されて死んでいたかったの?」


「そんなことない。感謝してるよ」


 わたしは頭を横に振って答えた。しかし、こうなってしまう前の記憶を全て失ってしまった今、生きているのも死んでいるのとあまり変わらないと思う。


 記憶がないまま見ず知らずの存在に助けられて、心が詰まるような窮屈さは感じていた。なにが目的で助けてくれたのかは知らないけど、それでも助けてくれた事実は本当で、それってやっぱり感謝しなくちゃいけない。


 わたしは彼女の顔をじっと見つめた。彼女はこんなわたしの気持ちすら見透かしているのだろうか。やがて彼女は大きく溜め息を吐いた。


「馬鹿ね。この話はもういいから町に行きましょう。あなたの体だってまだ本調子とはほど遠いんだから、早めに行って早めに切り上げて、ゆっくり休んでいなきゃ」


「あ、う、うん」


 死んでいたかったのかと聞いたり、ゆっくり休んでいなきゃと言ったり、まるで正反対の物言いをよくコロコロ切り替えて言えるね──思わずそう言いたくなったが、面倒ごとになるのは勘弁したいと思い言いとどまった。


 結局わたしたちは階段を上がって町へと続く錆びついた鉄扉を開けた。ゆっくり開けるとそれにともなって薄暗い地下に外の光が差し込んでくる。わたしの視線まで光が差し込むと、眩しいほどの明るさで目をつむった。


 彼女が鉄扉を全開にしたのちしばらくして目が明るさに慣れる。それと同時に目の前に広がる光景にわたしは目を瞬かせた。


「ここって」目の前には石造りの巨大な建築があった。五階建ての建物ばかりで、手前では馬車が通り過ぎ、コートを着ながら背中を丸めて歩く人々の群れ。もっと寂れた辺鄙な田舎なのかと思っていたが、その予想は見事に裏切られてしまったようだ。「町のなか?」


 その景色を見ながら傍らにいるエルネスティーに尋ねた。


「町なかは町なかだけど外れにある。いくつか入り口があって、ここは一番目立たない場所。今はここだけを出入り口に使ってる」


 わたしは松葉杖を使って扉をくぐった。振り返ると空き家のように見える小屋がちらほらと建っている程度で、さらにその向こうには寂れた林が広がっている。どうやらここが目立たない場所というのはそのとおりらしい。しかし、町の外れと言っても人通りは多く、活気があるようにも感じられる。この町は規模がそこそこ大きいのかもしれない。さっき通り過ぎた馬車の装飾も綺麗だった。


 ぼけっとしながら感心していると、エルネスティーが肩に手を乗せた。


「まずは食材屋のおじさんの所に行く。少し遠いけど平気?」


「うん、たぶん」


 よし、と首を縦に振って確認すると、彼女は再びわたしの前に立ち先導し始めた。


 歩きながら町の様子を見る。ぴりぴりと刺すような肌寒さと薄く霧がかった町並みで、今この季節が秋か冬であることがわかる。不快に感じるほど寒いとは思わないが、周囲を歩く人は一様に厚手のコートを着ていながら白い息を吐いて体を震わせている。そして建物と言えば、レンガ造りの立派な五階建てが視界いっぱいに広がっている。どれもこれもコンクリートビルのように均整がとれていて、デザインも一律だ。ここらへんは集合住宅が建ち並ぶ居住区に違いない。


 人家の合間をしばらく歩くと不意に近くが騒がしくなる。人の声だ。先導していたエルネスティーが振り返った。


「この横道を抜けると商店街。食材屋は中ほどにあるのだけど、そこまでまたしばらくかかるわ」


「大丈夫。平気だよ」


「そう。──人にぶつからないように注意して。転んだら傷口が開くから」


「気をつける」


 ふた言三言の会話を重ね、わたしたちは再び歩き出した。


 商店街、あちらこちらで呼び子と通行人の話し声が飛び交い、まるでお祭りのような活気があった。そんななか意識を向けていた喧騒から奇妙な声が聴こえてきた。


「なあ、あれ……」


「ああ……」


「あの子、大丈夫か……」


 ひそひそとした声調で、心配しているような怪しんでいるような、そんな声だ。


「魔女が……」


「だれだろう、あれ……」


「あんまり目合わせるな……」


 声調が少し強くなった。魔女、とはもしかしてエルネスティーのことだろうか。そうとなると、だれ、と呼ばれているのはわたし。


 なんにせよ目を合わせるなだなんて失礼極まりない。わたしはエルネスティーの後ろを外れ、そのひそひそ声が聴こえるほうにくるりと体を翻した。見ると若い男の人が三人、茶色い瓶を片手に木箱の上で語らっている。わたしの接近に気づいたひとりが「おいっ、こっち来る」と仲間に慌てて告げ立ち上がった。ぎょっとした残りの二人もわたしを見て、急いで立ち上がると路地裏に消えていった。


「なにしてるの、はぐれないで」


 ふとわたしの肩に置かれた手はエルネスティーのものだ。


「ああ」男の人たちが消えていった路地裏に視線を向けながら「ごめん」そうとだけ告げる。エルネスティーは溜め息を吐くとわたしの肩をひと撫でして言った。


「気にしたらだめよ」


 はっとして彼女を見ると、すでにわたしから離れて先へと進んでいた。


 この町と彼女はなにかあるな、と思った。けれど、それはまだわからないし、知るべき時ではないだろう、とりあえず先ほどのことを忘れ、わたしは彼女の後ろについていくことに意識を集中させた。


 

━━━━━━━━

 


「食材屋はここ」


 彼女がそう言いながら指し示したのは、レンガ造りの建物が多いこの町では珍しい木造建築の平屋だった。彼女にそれを尋ねると、この時期食材を保存するのは石蔵よりも木蔵が適しているかららしい。確かに石よりは木のほうが通気性がいいし、湿度もより良く保たれる。


 建物を眺めながら感心していると、エルネスティーは先に店に入ってしまった。あわてて遅れて入るなりからんからんとベルが鳴り、中では彼女と男の人が話している。少し肥っているがふくよかな頬の肉が朗らかな印象を与えてくれるおじさん。そして、彼女とおじさんがわたしのほうを向いた。


「あれよ」


「ほう。こりゃまた姐さんと同じべっぴんだ」


「冗談よして」


 おじさんがからかっているのをエルネスティーが適当にあしらう。そんな彼らに近づいておじさんに向き直った。


「あの、えと、名前はまだないんだけど、エルネスティーのところでお世話になってます。わたしの分の食べ物をここで買いつけてるって彼女から聞いて。ありがとうございます」


 単刀直入におじさんに感謝の念を伝えると、どうしてかおじさんの目が見開いた。わたしを指差してエルネスティーに尋ねる。


「わざわざそれ言わせるために連れてきたのか?」


「そうよ。リハビリがてら」


「そんなかわいそうなことさせるなよ、こんな怪我人に……」


「リハビリだからいいの」


 腕を組みながらひらひらと手を振る彼女。薄々思ってはいたけど、やはりこの怪我でリハビリというのは常人なら少々無理があるらしい。リハビリがてら町に出ようと申し出た彼女は人間ではないようだから、きっと判断基準も常人とは異なるのだろう──この怪我が我慢できる程度のもので良かった。


 大丈夫なのか、と問われるも、平気だよ、と答える。


「それにしても姐さん、彼女、名前がないって。そういえば記憶喪失なんだって?」


「そのようね」


 おじさんがわたしを向くも、わたしの代わりに彼女が答えた。引き継ぐように補足する。「なにも思い出せなくて。だから名前も」


 あらら、とおじさん。「思い出すまでのあいだだけでも仮の名前を付けたらどうだい」と付け加えた。もちろん、名前を付けることにわたしの気があまり進まないのをエルネスティーは知っているはずだ。だから「別に要らない」と視線で彼女に訴えたのだが、彼女はそれを勘違いしてしまったようだ。


「そうね。おじさんの提案だしそれもいいかもしれない。とびきりの名前を付けてあげようかしら。一緒に考えましょう」


「ぱあっ」と太陽も羨みそうな笑顔をわたしに向けてくるのだが、模様のせいで笑いながら怒ってるみたいに見える。とは言えいつもの無表情からは想像もできないその顔に猫を被っているのだと一瞬で推測がついた。まるで本当に、人をたぶらかす魔女みたい。


 ふくよかな頬をにんまりとつり上げたおじさんの笑顔も相まって、なかなか断りづらい状況になった。もしかしたらエルネスティーはお礼の言葉やリハビリ以上に名前を付けるためにわざわざここまで歩かせたのではないか。わたしならこの優しそうなおじさんの誘いを断れないだろうと踏んで。太陽みたいに優しい笑顔を向けられて断れるほど、わたしはたぶん冷たくない。


「ああ……いいね。名前、付けよっか」


 そう言うとおじさんは嬉しそうに笑ってくれた。それにちょっと安心する。それからおじさんが両手をパンっと合わせて仕切り直しをしてくれた。


「じゃあ昔の言葉で『シェリー』はどうだ。今のきみにぴったりだ」


 シェリーってなにと問うと、シェリーっていうのは「愛される者」って意味だよ、と答えてくれる。ふうん、シェリー、悪くない。


 ところが、エルネスティーを見ると不機嫌そうな顔をしている。


「エルネスティー。わたしはシェリーでいいよ……」


 彼女の不機嫌な顔を見つつそう言うが、彼女は気に食わないのだろう。なぜだかわからないが、ひしひしとそれが伝わってくる。


 やがて彼女は口をひらいた。


「あなたの名前は『マルール』がいい」


「マルールって?」


「『忘却』という意味」


 マルール、響きはいい名前だと思うが、忘却が意味だなんてちょっと寂しい気もする。そんなわたしの心を代弁してくれたとでも言えばいいのか、おじさんが「おいおいちょっと」と声を上げてくれた。


「確かにこの子は記憶喪失らしいが、いくらなんでも忘却ってのは悲しくないか?」


 やっぱり悲しいよね。わたしもそう思う。


「エルネスティー。さすがのわたしもマルールはちょっと……」


 彼女の顔が雰囲気悔しそうなのは、わたしに否定されたからではなくて、おじさんに否定されたからだ。無表情だから感情の起伏の読みとりづらい人かと思っていたが、意外と単純でわかりやすいと思う。


「……いいえ、あなたはマルールよ。記憶を取り戻したらあなたは名実ともにマルールではなくなるんだから、それでいいじゃない」


「姐さんも強情だねえ。でもまあ音的にはさほど悪くはないし、いいんじゃねえか。マルール」


 やれやれ、とおじさんが肩をすくめた。わたしはとくにリアクションをしなかった。するだけ無駄かも。


 わたしは、マルール。


「名前が決まったことだし改めて自己紹介しようか。おれの名前はドックス。よろしくな」


「マルール……です。よろしくね。ドックスおじさん」


 ついさっき付けられた名前を名乗るのも気恥ずかしい感じ。それもおじさんの朗らかな笑顔を前にすればどうでもいいことのように思えるのが不思議だ。おじさんの笑顔はそんな魔法のひとつみたい。


 ひとりむすっとした表情でかぼちゃや白菜、にんじんといった食材を手に取り、計量器の上にどっかと置くエルネスティー。今日の夕飯はスープ作ってくれるのかな。けれど、彼女は明らかに声色に怒気を含ませていた。


「おじさん。会計済ませて」


「なんで怒ってんだよ」


「怒ってないわ」


 彼女の機嫌を損ねたのはおじさんが彼女の命名に否定的だったからでは、とのわたしの弁はひとまず置いておいた。この場でなにか発しようものなら、エルネスティーからきつい一発を脇腹あたりに食らいそうだったから。


 計量器で計った重さでドックスおじさんが料金を伝えると、彼女は青いクロークの懐から蛇革らしき財布を覗かせる。手作りなのか革がところどころ剥げたり、糸が飛び出しているのが見えた。脇腹の縫った跡はすごく綺麗なのにそっちのほうは不器用なんだなあと思いつつ、わたしはなんとなくその革財布が気になった。エルネスティーが会計を済ませ、品物を粗末な紙に包んで抱える。


「それじゃおじさん。またあとで」


「いつでも待ってるよ」


「食べ物、ありがとうございます」


「いいってことよ」


 少しの別れの言葉を告げ、わたしたちは店の外へ出た。出るなり先をゆく彼女を呼び止める。


「エルネスティー」


「なに」


「さっきの革財布、ちょっと見せて」


「なんで……」


 面倒くさげにそう言うも、荷物を片手に抱え、器用に財布を取り出してわたしに手渡してくれた。


 大きくて薄い黄色のまだら模様が目を引くこの蛇革は、おそらくアルビノパイソンのものだろう。鱗の並びが均等で綺麗な見た目をしている。剥げかけている部分を中心にそこそこ傷んでおり、修繕しなければあと一年も経たずに目も当てられないさまになるはずだ。


 わたしは革財布を少し持ち上げ「これ、直そうか」と言った。彼女はほんの少し目を見開き「直せるの」と問う。


「新しい革があれば張り直せるかも。これよりも丈夫にできる気がする」


 蛇革のなめらかな手触りを指先で楽しみながら彼女にそう言うと「直し方がわかるってことは、記憶が」と少々あわてたような声で問うた。しかし、わたしはふるふると首を横に振る。


「ううん。でも、直せる気がするんだ」


 身体に染み着いた感覚と言えばいいのかな。わたしはこの手作りの革財布が気に入ったのかもしれない。頭は忘れていても身体は覚えている。この剥げかけの革財布を直したいと、身体がそれを望んでいるのがわかる。不安は全くない、革財布の修繕はきっと楽しいだろうし、早くやってみたかった。


 革財布の手触りを確認していると、エルネスティーがあわてた様子から立ち直り、わたしをしゃんとした視線で見据えた。


「なら、直してもらおうかしら」


 わずかながら期待が入り交じった声。お安いご用。わたしはこの革財布をこれ以上に良いものにできる自信がある。


 わたしは彼女に財布を返しながら言った。


「エルネスティー。まずは行かなきゃならない場所を回ろう。全部回ったら家に帰って、それからゆっくり直してあげる」


 わたしは堪えきれないほどの胸の高鳴りを自然と浮かんでしまう笑顔に載せて言った。そんなわたしの様子に、一瞬だけ固まるエルネスティー。それでもすぐにはっと我に返り、彼女は言った。


「……あまり無理はさせないから」


「わかってるよ。行こう」


 わたしは松葉杖を付いた左手で彼女の青いクロークの端をくいくい引っ張った。


「子どもみたい」


 彼女がそう言うのを聞いて、わたしは一歩踏み出した。

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