Ⅰ-1 時に当たりてこれを食わせば
身体を包み込むやわらかな感触に違和感を覚え、まぶたをうっすらと開けて簡単に周囲を確認すると、部屋の壁のところどころに簡素な燭台が設置され、蝋燭の薄ぼんやりとした灯り。
その淡い光に照らされた部屋はとてもシンプルで、わたしが体を預けているベッドの他にはなにもない。壁は藁混じりの土と組木、おそらく地下だった。
薄ぼんやりとした灯りもようやくはっきりした輪郭が見てとれるようになると、上半身をゆっくり起こして自らの置かれている状況を推理しようとした。
けれど。
「……?」
なんにも思い出せない。
思い出そうとすると頭がずきずき痛む。手を添えてみると、どうやら頭には包帯が巻かれているようだった。
まずはこの部屋から出なければならない。ここがどこなのかを確認しなければ──そう思い、わたしはベッドから両足を下ろした。そうして地面に足を着け、立ち上がって一歩踏み出そうとする。
「い、っつ」
左足に走る鋭い痛みに思わず顔をしかめ見やると、木の板と包帯でぐるぐる巻きだった。
「なにをしてるの」
上から語りかけられ、はっとする。そこには青いフード付きのクロークを羽織った、目の周りが「パンダ……?」の黒髪が長い女の人の姿。
小さい舌打ちをしたのち、彼女が言った。
「失礼よあなた。なにしてるの」
「ここから出ようと思ったら、足が痛くて歩けない」
「痛いんじゃなく大怪我なの。歩けないんじゃなくて、動けないの」
「大怪我?」
目の前の女の人にそう言われ、今一度自分の身体を見てみた。左足と右腕には木板で出来たギプスがあてがわれ、胴体には大きなガーゼ、思えば左目も上手くひらかない。一体どうしてこんな状況に陥っているのか。それに目の前の女の人は何者なのか。
黙ったまま頭を抱えていると、女の人は対面に椅子を引っ張って座り、さらに言葉を投げかけてきた。
「はっきり目が覚めたことだしいろいろ聞きたいわ。これ、食べながらでいいから」
女の人はそう言いながら湯気の立つ温かいスープを手渡した。かぼちゃのいいにおいが香り、鼻とお腹に染み渡る。
本能に抗えずそれを受け取るも、なにか毒でも入っているのではないかと思い「なにも入ってない」無表情の彼女にそう言われ、わたしは木のスプーンで口にひと掬いした。かぼちゃのふんわりした味と滑らかな食感が起きかけの体に優しい。
「あなたの名前は」
一口食べたところで彼女が尋ねてきた。わたしは口を特定の音に定まらない形に開くと、そこではたと気づいた。
「わからない」
「え?」
「名前」
わずかだが無表情の彼女の顔がしかめられたような気がした。
「記憶がないというわけ。これ以上私から聞いて、なにがわかるのかしら」
彼女が、はあ、と溜め息を吐いた。わたしだって溜め息ぐらい吐きたい。
「こっちから聞いても」
「答えられる範囲で」
「わたしどうしてここにいるの」
今度はあからさまに嫌そうな顔をした。さながら説明するのも面倒臭いといった雰囲気のそれだ。記憶がまっさらに抜け落ちているのだから仕方ないだろう。
そうして彼女のしかめっ面にしかめっ面で返すと、彼女は無表情に戻ったあと話し始めた。
「この近くの谷底に落ちていたのを拾ってここまで連れてきた。それだけ」
「それだけ?」
「ええ」
「わたしの、その……出身とか、そういうのは」
「知る訳ない」
彼女がやけに馴れ馴れしいから、てっきりわたしの知り合いかなんかだろうと思っていたが、それはちがうらしい。どうやらわたしは全く見知らぬ土地に流れ着き、全く見知らぬ人間に介抱されているようだ。
「でもあなたはライフルを担いでいた。持ってくるから待っていて」
彼女は音もなく立ち上がると、やはり音もなく歩いて部屋から出て行った。
「ライフル……」
見覚えがある気がするが、上手に想像できない。細長い筒のようなものだというのはなんとなく想像がつく。そのライフルとやらを見れば、なにか思い出せるだろうか。
その時、奥から彼女が出て来た。
「これよ」
手には長く、やはり黒い筒のようなものが握られていた。渡されていろいろ考えを巡らせてみるが、これといって思い出すことがない。持ち方を探ってみると、末広がりの方を肩で支え、均等な凹凸部分に手を添えるとなかなかしっくりくることに気づいた。右腕は使えないので左腕で抱えているが、左腕で持つのはどうにも違和感がある。きっと利き腕は右なのだ。
「思い出した?」
「いや、とくに」
そういえば一体どれほど眠っていたんだろう。この部屋には窓がなく、明るさから時分はわからない。それにカレンダーもない。記憶がない現状で日付を気にしてなにかわかれば良いのだろうが、あいにくと手持ちのはずのライフルを触ってなにも思い出せなかったのだ。日付ごときで思い出すことはないかもしれないが、一応聞いておくべきか。
「どれくらい眠ってたの」
「藪から棒ね。でも、一週間ほど」
わたしは口をヘの字にした。二、三年ほど経っていれば現状への納得もできたし、過去への早々の諦めもついただろうに。
「何故そんなことを聞くの」
「記憶がないからには知っておくべきもあるんじゃないかと思って」
目の前の女の人は、それでなんだか悲しそうな目をしてみせた。
けれど以前の記憶を丸っきり失ってしまったらしいわたしが過去を手繰り寄せようとしたところで、それこそ意味があるのだろうか。記憶を手繰り寄せた先に自分の全てを取り戻す結末なんて、実際はそうやすやすと上手くいくものではないだろうし、わたしは今、自分の名前を思い出せないほどに記憶を失っているのだ。
記憶を思い出す鍵を目の当たりにしたとき、唐突に記憶がよみがえるのは虫のいい話ではある。
「あの、君の名前は」
「エルネスティー」
「しっくりこない」
「私は人間ではないから」
人間ではない、とは。「人間にしか見えないけど」
「あなたにはこの模様が人間の特徴に見えるのかしら」
エルネスティーは薄く笑みを浮かべながら、自身の目の辺りに優しく手を這わした。黒く塗り潰したようなその模様は眉の頭の部分で雫のように締まり、まるでいつでも機嫌を損ねているように見える。黒に囲まれた灰色の瞳はそれとは裏腹になんの色も湛えてはおらず、妙な不調和でもって不気味な印象を与えていた。
でもさっき、たしかに悲しそうな目をしてみせた。
「入れ墨じゃなくて?」
「そんな趣味ないわ」
ほんの少しうな垂れて青のフードの陰になり、憂い気で伏し目がちな視線に一瞬胸がどきりとした。妖しい。少なくとも、こんなに暗い場所で暮らしているなんて、ふつうの人ではないのはわかる。
それに、模様の向こうの顔は無表情なのに、その模様のせいかいつでも嫌そうな顔をしているように見えるのだ。それが胸を妙にざわつかせる。
「スプーン、動いてない」
エルネスティー、が無表情にわたしの顔を覗き込む。はっとしたわたしは咄嗟に嘘を吐いた。
「ごめん。なんか食欲失せた」
「ゆっくりでいい。冷めたら交換する」
「いや、そこまでしなくても……」
「いいの」
冷めた瞳で睨みつけ有無を言わせないエルネスティーの声にほんの少し体がすくむ。彼女が人間でないのなら、大怪我で動けず記憶も失ったわたしなど化け物の巣に捕まっているようなものだ。怪我だらけで弱った今は不味いから、治っておいしくなったら一思いに食べちゃうつもりなんだ。きっと。
わたしは頭を軽く振った。こういうのは良くない。少なくとも、今はわたしを看病してくれている命の恩人に変わりないのだ。いつか彼女が豹変しようともその時はその時だ。とにかく今は彼女の思いどおりに動くべきだろう。
「そういえば、ここってどこなの」
「それはこの場所がどこに位置しているか、という意味?」
「それ以外になにがあるの」
「そう──ここはアンルーヴという町の地下。過去に起きた戦争で兵士の保養地兼武器貯蔵庫として使われていた施設を改装して作った場所。もったいないから住んでる」
「ここらへんで戦争が?」
わたしは彼女に尋ねた。けれど、彼女は薄く笑みを浮かべながら「遠い昔の話。今ならだれでも知っている戦争だけど、あなたはきっと記憶にない」とだけ言った。たしかにそのとおりだが、もう少しオブラートに包んだ言い方にしてほしかった。
「いつまでも『あなた』じゃ面倒臭い。なんて呼んだらいいか答えて」
「名前、決めなきゃならないの」
黒い雫の締まった方がやにわにつり上がる。なにが不満なんだろう。
「馬鹿ね。どうせ治るまでそこに張り付けでしょ。ここにいるあいだくらい親しくなきゃ気まずくてこっちがやってられない。あなたのことなにも知らないし」
エルネスティーはぷいと横を向いた。自分を人間ではないと言い放ったくせに、妙なところで人間臭いな。
「いつつ」
「笑うと傷口がひらく」
脇腹にあてがわれた大きなガーゼの存在を忘れていた。傷口は大きいらしく、まだ完全に塞がっていないようだ。ガーゼには少しずつ血が滲んでいく。
「せっかく縫ってあげたのに」
「縫った?」
痛みに耐えながら不可解な言葉に返すと「これぐらいの節くれだった枝が脇腹を貫通していたの」と綺麗な指で直径五センチほどの輪を作って見せた。
「枝の細かい欠片は患部に残ったままだけど、それよりも内臓の損傷と感染症のほうが気がかりだったから、ひとつひとつ取り除くようなことはしなかった。谷底で見つけたときは全身ずたずたのぼろ雑巾みたいで死んでるかと思った。凄まじい生命力ね」
それでこちらも気がかりに思った。見ず知らずの人間にここまで尽くす意義をだ。そこまでして人間を食べたいのなら、この上にあるアンルーヴという町の住民でもいいだろう。なぜわざわざ部外者であるわたしを気にかけるのだろう。
人間ではないものは人間を糧とすると相場が決まっている。人間の姿をしていながら人間ではないなんてロジックは気に食わないが、頭上に日の光当たる町があるというのに、わざわざ地下生活を送るのも存分に化け物じみている。
わたしは血に染まるガーゼを気にしながら、いつの間にかどこかに行ってしまった彼女に気づいた。手負いだが今のうちに逃げ出せるなら逃げ出しておきたい。なにかあってからでは遅いのだ。
わたしはベッドのわきに立て掛けられた黒いライフルを杖に片足で立ち上がった。脇腹が酷く痛むし、血が滲む量も途端に多くなるが、この際そんなの気にしてられるか。早くここから逃げないと、と一歩踏み出そうとした。
「ぐ……」
脇腹に余計な振動が伝わり、脂汗が額に浮かぶのがわかる。歯を食いしばりながら痛みを我慢してもう一歩踏み出すと、やはり痛い。これ以上、一歩も踏み出せない。余計な振動を与えないためにその場に固まってしまった。
「変な格好」
エルネスティーが戻ってきた。手には替えのガーゼらしき白い布。彼女になにか言ってやらねばならないが、脇腹の痛みに切羽詰まってそれどころではない。
「我慢して」
「いっ……たっ……!」
ガーゼをベッドの傍らに置くと、いきなり支えであるライフルを取り上げられた。支えを失ったわたしは脇腹への痛みを危惧してその場に力なく崩れ落ちるのだが、それは彼女によって反動を殺すように支えられ事無きを得た。
「う、あ、ありがとう」
素直に礼を言うと、エルネスティーはキッとわたしを睨みつけた。
「自分の体調すらわからないの。馬鹿ね。なんでこんなの拾っちゃったのかしら。こいつに触れたせいで私も馬鹿になったのかしら。だとしたら最悪」
「な」
まるでやわらかい布に包み込まれるような見事な身のこなしだったと二言目には誉めてやろうと思ったけど、そんなことを言われたものだから気が削がれた。
「目が覚めたらいきなり『人間ではない』なんて言われて、逃げ出そうと思わないほうがおかしいでしょ」
「逃げ出す?」
わたしをベッドに寝かせガーゼを手に取ると、彼女はすっとぼけたような声を上げた。
「私があなたを食うとでも思ったの」
「え、ちがうの?」
向こうから踏み込んだ話題をしてくるとは思わず、おどおどした声で返してしまった。
「たしかに新しい薬の治験には役立たせてもらったけど、取って食うつもりで拾ったわけではないわ」
「なに新しい薬って……」
「傷薬よ、風穴が空いた脇腹に塗った。通常なら傷口が化膿して、あなたは化膿による疼きと感染症による発熱に苦しめられているころ。けれどそうではないのは、ひとえに私の献身的な働きによるものなんだけど」
なんと返してやれば良いのか言葉に詰まってしまった。取って食うつもりがなければ、わたしを奴隷にするわけでもな──。
「は……」
「どうしたの」
突然胸の中にざわざわした感覚が広がった。恐ろしいなにかが脳裡に住み着いているような、恐怖が自分のすぐ後ろで鎌首をもたげているような、そんな得体の知れないなにかが、いる。
エルネスティーがわたしの顔を覗き込んできた。心配している気など微塵もなさそうなあいかわらずの無表情で。わたしは胸を上下させ、わずかにひらいた口で粗い呼吸を繰り返す。呼吸をするたびにかすかに声が漏れ、わたしは気分悪さに耐えきれず頭を抱えた。なんとなくずきずきと痛むのは傷口が疼いているからか、それともなにか思い出そうとするのを阻もうとしているからか。
どちらでもかまわない。ただ、頭が痛い。
「大丈夫?」
「触らないで……。頭痛い」
気づかって伸ばしてくれたのであろう彼女の手をわたしは軽く払い除けた。払い除けられた姿のまま、はたと固まったエルネスティーの真一文字に結ばれた口がにやりと薄い弧を画いた。模様のおかげでそこはかとなく見下されているような。
「痛み止めの薬が切れてきたのね。差し伸べた手を払い除けたということは『痛み止めは必要ない。頭痛も脇腹の痛みも耐えてみせる』と、了解したわ。じゃあ私は少し出かけるからおかしなことは考えないように」
「あっ」
「なに?」
「え、と」
口に薄く弧を浮かべたまま、まくし立てるように言うと、彼女はさっと立ち上がりそそくさと部屋を去ろうとする。痛いのは勘弁だ。彼女のふるまいは本気でわたしを放っておこうとするそれなのだ。
悔しいが、ここは素直に謝るほかない。
ところが、いざあらたまって謝るとなるとむしゃくしゃしてくる。彼女の意地悪さに気づいているからなおさらだ。
「私、早く行きたいんだけど。さっさと用件言いなさい」
ふん、と腕を組んで仁王立ちになるエルネスティー。無論わたしを見下す姿勢だ。
「痛み止め……」
「聞こえない」
「痛み止めの薬。ちょうだい」
自然とむすっとした声になってしまう。それに謝ってもいない。これでは彼女の感情を逆撫でさせるようなものではないか。
「それが人にものを頼む態度かしら」
案の定でぐうの音も出ない。性格は悪いが、仮にもわたしの命を助けてくれた恩人だ。
「……ごめんなさい。痛み止め、ください」
「よろしい」
少し待っていて、と元の無表情で語るのち、青のクロークをひらりと翻して彼女は行ってしまった。痛む頭を抱えて取り残されてしまったが、あの様子ならば痛み止めを持ってきてくれるだろう。優しいのか優しくないのかよくわからない。
しばらくすると彼女が戻ってきた。手にはコップと小さくたたまれた紙片。
「飲んで。とても苦いけれど」
「苦い……」苦いのは嫌だ。そんな気がする。
受け取った紙片を開いてみると、中には燃やし尽くした灰のようなきめ細かい粉があった。色合いもまさしくそんな感じで本物の灰みたい。本当にこれは薬なのだろうか。本当はなんかとんでもないものを燃やして灰にしただけではないのか。乾燥してすりつぶしただけのものを薬と称することなどままあるし、会話の端々から察するに新しい薬とやらの開発も頻繁におこなっている印象だし──おいそれと飲んでいい代物とはとうてい思いがたい。
そんな思いをして薬をじっと見つめなかなか飲みたがらないわたしを、エルネスティーは冷めた視線で見ている。「早く飲め」とでも言いたげだ。
「あの、これももしかして新しい薬ってやつ?」
「もちろん」
間髪を容れずの返答。どことなくしれっとしているのは聞かれたくなかったからにちがいない。わたしが知らないまま飲んで、失敗したらしたでその様子を観察でもするつもりだったのだ。とんだマッドサイエンティスト。だがここで薬を飲まずにただ怪我の痛みにさいなまれるのと、飲んで頭がおかしくなるだけ、もしくは痛みが引くのと、どちらが良いかと聞かれればそれは断然後者と言える。
仕方なく意を決し、灰色の薬を口に入れるとすぐに水で流し込んだ。後味もまるで灰のようにくすんだもので、その味わいに思わず咳き込む。当然すぐには効かないので、咳き込んだ反動で脇腹が酷く痛んだ。
落ち着いたところで、気持ち満足げな表情を浮かべるエルネスティーに聞いた。
「ひとつ聞いていい」
「ええ」
「この薬、ただの灰だよね」
あらたまった表情になった彼女が言った。
「そうね。灰だわ。ヤマネの心臓十匹分とクサリヘビの毒を乾燥させて燻して磨り潰したの。とてもよく効く痛み止めに仕上がったと思う。不服かしら」
不服もなにも。
「なんかすごく、眠い……」
「睡眠導入効果もあるようね……これはこれで成功。前の痛み止めより強力みたいだし、痛みもじき引くでしょう」
「それ……ど、……ぐぅ……」
強力すぎる睡魔によって、わたしは暗闇に無理矢理引きずり込まれるようにしてそのまま寝てしまった。
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