夜釣り

もろえ

夜釣り

 一、

 彼は毎年(もう十何年にもなる)夏になるとよく釣りに出かける。

 夕方になると、餌の太い(鉛筆ほど)ミミズを採りに行き、日が暮れるまで自宅で過ごす。

 日が沈みかける頃に、手早く夕食を済ませ、車に釣り道具を積み込み、いつもの川の決まった場所へ車を走らせる。

 彼の狙いはうなぎだ。

 彼の言うところに依ると、天然の鰻を一度味わうと、もう二度と養殖物には手を出せないほど、脂の乗りが上質で上品であるらしい。

 そして、これも彼の言うところに依るのだが、天然物は大きければ大きいほど、その上質で上品な脂の乗りを味わえるのだとか。

 彼はその日の天候を確認し、彼自身の多くの経験と照らし合わせ、釣りに行くかどうかを決める。

 そうして釣りに行くことを決めた日には、彼はもうその事で頭が一杯になる。

 餌を採りに出掛ける前から、落葉の下を割り箸で穿ほじくると、暑さと光を避ける為にそこに潜っていたミミズが驚いて二、三匹にょろにょろと蠢き出す様子も想像していた。釣り場に着いて針にミミズを掛けて、無数のテトラポットが重ねられた対岸へ、そのテトラポットの一メートルほど手前の彼の思うベストポジションへと餌を投げ入れる様。竿先に取り付けた当たりを知らせる為の鈴が「シャリンシャリンシャリンシャリン」と、鳴る音、個々に違った魚の引き方に、

『この強い引きじゃこいだな。』とか、

『この細い魚特有の引きは、早くも奴が掛かったのか!』などと、心を躍らせながら、懐中電灯で水面を照らして魚影を確認する様など、兎に角、釣りに行くと決めたその時からそんな想像を繰り返し、何度行っても楽しみで仕方がないのだ。


 二、

 その日もまた、彼は夜釣りに出た。

 自宅から車を十五分ほど走らせると、彼の釣り場に着く。

 釣り場の上の土手からは、近くの集落の家の明かりをぽつぽつと確認することができるが、河原へ下りると、人工の光は彼の持つ懐中電灯と、ガスランタンの灯りのみ(雲のない日には、それに加えて月光が差し込んでいるだろうが、鰻は光を嫌う為に曇った日の方が活発に動くというので、彼がここに来るのは殆どの場合、夏特有の分厚い雲がかかったどんよりとした夜だ)である。

 彼が車を停めるのはいつも決まって土手を下ったところの草が刈られて、少し広くなった場所だ。

 そこから更に二重になっている土手を降りたところに彼の釣り場がある。

 その土手を下って、釣竿、替えの針におもり等の入ったケース、網、ランタン、懐中電灯、竿立て、折りたたみ式の椅子、餌の入ったバケツ、クーラーボックス等の釣り道具を釣り場まで運ぶのだか、彼はそれをたったの二往復で済ませる。

 とても二往復で運び込める程の数ではないし、往復の回数が増えたとしても何度かに分けて運んだ方が明らかに楽だというのに。

 彼は懐中電灯と竿と網を右手に、左手に、ケースと折りたたみ式の椅子、竿立て。といったように持つと、土手を下り、それらを釣り場に置き、懐中電灯のみを手にして土手を上がり、残りの道具を運ぶ。

 釣竿は三本用意しているが、釣りの前に糸が絡まったりといった時間のかかるトラブルを嫌う彼は、竿に関しては、必ず二回に分けて持ち込む様にしていた。

 彼は、いつもこの準備をせかせかとした。

 全ての道具を運ぶと、一転今度は竿立ての足場の具合、取り付けた鈴の鳴り方、竿先を照らすランタンの位置、網を置く場所等をいやに入念に確認する。

 そして、針の先にミミズを掛け、その具合を確認し、対岸のテトラポットの一メートル程手前を目掛けて竿を振り、投げ入れる。

 多少の妥協はするものの、余りにも気に入らない位置で錘が入水する「ジャポンッ」という音が響いたと見るや、手早くリールを巻いて投げ直した。それを三本分繰り返す。

 その準備作業を終えると、初めて彼は折りたたみ式の椅子に腰を下ろし、胸ポケットからタバコを出し、ランタンに当てて火をつけて一息つき、鈴の音を待つ体制に入る。

 その日によってまちまちではあるが、凡そこの時、夜の七時から八時頃であった。


 三、

 土手の向こうの集落の木々からであろうか、昼間は煩く聞こえる油蝉あぶらぜみ

「ジーッ、ジーッ」と、鳴く声は不思議と心地良く耳に届く。

 川の浅瀬の

「サラサラサラサラ」という、透き通った音を奏でるせせらぎも心地よい。

 彼のいる岸はコンクリート護岸になっているが、その凹凸がうまい具合にそのせせらぎを一層、風流に響かせている。

 三十度を超す昼間の気温に慣れているためか、川辺ということもあってか、シャツ一枚で涼しく気持ちがいい。

 涼を取るこの時期、人の大敵であるは水辺であり、いかにもぷーん、ぷーんと左右から猛攻を仕掛けてきそうな気もするが、何故かこの場所では一匹もいない。

 小さなは少々いるものの、気にならない程度で、ランタンに向かって飛んで行く。

 まさに

『飛んで火に入る夏の虫』

 とは、この事だ。

 ただ、彼が一服をしながら、竿の当たりを待ち、改めてその蝉の声や、川のせせらぎ等に耳をやると同時に気味の悪い声も再び(その声も、蝉の声もせせらぎも彼がこの場所に着いてからずっと鳴り止む事なく響いてはいた)否が応にも耳に入る。

 決して見えることはないが、対岸の竹の葉にその声の主らの羽が当たっていると思しき、

「ファサガサ、ファサガサ、」

 という薄気味悪い音に合わせて、

「キェッ、ギェッ、キェッ、ギェッ」という、甲高く、絶妙にかすれた、そして絶妙な長さの生物の鳴き声だ。

 それが、対岸のテトラポットの奥の竹藪のシルエット全体から彼のいる岸に向かって発せられる。

 その声の主は百や二百ではない。千、いや、二千はいるだろう。途切れることなく、

「ファサガサ、ファサガサ、」と、飛び回り続けながら、

「キェッ、ギェッ、キェッ、ギェッ」の大合唱。

 それは彼にとって決して見たことのない生物ではなかったし、特段珍しいものでもない。

ただの蝙蝠こうもりである。

 まして、彼は何度も何度もこの場所を訪れているのであるから。然し、毎度のことながら、数が物凄い。

 彼はその声と音を再度認識させられる時、決まって(自然と)嫌なことを考えてしまう。

 こちらも毎度の事なので、勿論彼自身も、そうさせられることを知っていた。

 嫌なことというのは、特に決まった何かという訳ではなく、その時々に、彼が懸念している彼自身の問題について最悪の解決の仕方を想像することに始まり、やがて、世間の出来事、例えばニュースで見た殺人事件であったり、ネットでたまたま見た奇妙な事件をまとめたページのこと等、その時は特に心に残ったわけでもない(むしろ、初めてそれらを知った時からここに来るまで、唯の一度も思い出したことがない)ことを鮮明に思い出してしまう。

 鮮明と言うより、より恐ろしく、より奇妙にそして強制的に自身の脳により脚色させられた上で想像させられる。そういう表現の方が的確だろう。

 その声と音に依ってそうさせられることを彼は知っているが、何度そうさせられても、何か対抗策を見出した訳でもなく、只々気取った様にタバコを吹かして、平静を装おうとした。彼以外にこの場所に人はいないのに。

 もしかすると、彼の虚勢は対岸の竹藪に対するものなのかもしれない。

 昼間は複数の釣り人がいるこの場所も、夜は常に彼一人だ。

 彼はこの場所で、この時間に自分以外の人間を目にしたことが無かった。それも十数年来、毎夏頻繁に夜釣りをしているのにも関わらず、である。


 四、

 そういう風に彼がいつものようにしていると、大体鈴の音が最初の当たりを知らせてくる。それが目的であるにも関わらず彼は、当たりを知らせるその

「シャリンシャリンシャリンシャリン」

 という鈴の音に『ドキッ』っとし、一瞬不安な気持ちになる。

 しかし、すぐにそれは獲物が掛かった興奮へと変わる。

 そして彼は竿を手に取り、獲物の動きを感じ、それに合わせて竿の角度を変えたり、リールを巻く手のリズムやスピードに強弱をつけながら、焦らずかと言ってここぞと見るや大胆に獲物を岸に引き寄せていく。

 さすがの手捌きだ。

 彼はタイミングを見計らい左手で網を取り、ランタンの火で糸が切れないようその位置を確認することも怠らない。

 獲物を十分に岸へ寄せると彼は一旦網を持った左手に竿を持ち替え、右手で懐中電灯持ち水面を照らした。

 水面に魚影が浮かび上がると、彼の口元は『ニヤッ』といった具合に動いた。

 その間の彼には先ほどのように平静を装う必要も、虚勢を張る必要も全くない。実に格好の良い男になっていた。

 後はもう一度右手に持ち替えた竿を高く上げ、水面ギリギリまで獲物のを動かし、そして左手の網で掬い上げた。針を外し、クーラーボックスへと移した。

 彼の言うところの、中くらいの鰻だった。


 五、

 鈴が鳴っては『ドキッ』とし、期待して引くと外道。ミミズを掛けて投げ込み、一服しては、、、、、

 二時間程繰り返したが、鰻は初めの当たりだけだった。

 彼はそろそろ引き上げようかと思い始めた。そう思い始めた時、彼の嫌な想像はその日の最大値を迎えた。

 無論、彼はそれを知っていた。が、帰るかと思わないわけにもいかないので、為す術はないのも解っている。

 彼はまた平静を装い、虚勢を張る。勿論、無意識にである。

 そして彼は気味の悪い鳴き声のする竹藪に目をやり、暫く凝視した。『意識的に』だろう。

 一本ずつリールで糸を巻き上げていく。他の竿に絡まったり、川の中の石や草、ゴミなどに引っ掛からないように気をつけながら。それでいて、やはり手早く。

 明らかに作ったかのように見える落ち着き払った表情をしている。

 三本全ての竿を引き上げると、工場のライン作業のような手慣れた速さで竿立てと椅子をたたみ、網と竿三本と一緒に左手で持ち、鰻の入ったクーラーボックスの上に餌入れのバケツを乗せ、それを持った右腕にランタンのチェーンを掛けて足取りはゆっくりだが大股で車を目指し土手を登っていった。

 竿先の糸が互いに絡みあったが、釣りを始める前とは打って変わって、彼はそれに気づきながらも全く気にする様子はなかった。

 道具一式を車に乗せて運転席へ乗り込むと、彼は胸ポケットからタバコを取り出し、車のドアポケットにあったライターで火をつけた。

 蝉の鳴く声も、川のせせらぎも、竹藪の生物の鳴き声も羽音もその間ずっと夜の河原に鳴り響いていた。

 それらをかき消そうとするように、彼は車のエンジンを掛け、発車させた。土手の凸凹とした畦道あぜみちを通り、揺られて『ちゃぷちゃぷ』と音を立てる後ろのクーラーボックスを気にするそぶりを見せた。

 その時、彼は毎度のことだが何かに勝ったような気がするのだった。

 車に乗って、クーラーボックスを振り返り見て、コンビニで人の姿を確認して、家の門が視界に入って、自宅から漏れる電気の明かりを見て、そして妻や娘の声を聞く頃には、彼の頭には『今日も鰻を釣ってきた。』という紛れもない事実だけが残っているのだった。


 六、

 彼は積まれた荷物を下ろし、生け簀(といってもプラスチックの衣装ケースに、水を張ったものだが)に釣ってきた鰻を移し、妻と娘を呼び、彼女たちに見せて満足気な表情を浮かべた。

 その後、真夏だというのに浴槽になみなみと溜めたお湯に浸かり、更に蛇口を捻って熱湯をかけ流した。

 彼は熱い風呂が好きだった。

 お湯が溢れ、洗い場に流れていく。

 彼は浴槽のへりに頭をもたれ、足を伸ばし、目を閉じながら、自らが釣った鰻を捌き炭をおこし、蒲焼にしている所を想像した。

 天然鰻の蒲焼。その美味さを誰よりも知っている彼は、早速明日の昼にでも調理しようと思った。妻や娘に食べさせてやろうと思った。

「そしたら、明日の午後はまたミミズ採りかな。また夜釣りに行くか。」

 と考え始めていた。

「それじゃ、風呂上がったら天気予報でも見とくか!」

 そんなことを考えながら、彼は蛇口を捻りお湯を止めた。




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夜釣り もろえ @futabayama

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