第9話 帰る蝶
曙光が窓に差し始めるころ、寒さを覚えたサウレリは眼を覚ました。はっとして起き上がると、衾もかぶらぬまま、奥の間の入り口にのびていたらしい。
昨夜は飲み過ぎて、前後不覚となって寝込んでしまった。それもこれも、弦朗君に上手く乗せられて度を過ごしたためで――。
「……顕秀?」
帳をめくって薄暗がりの奥の間に眼を凝らすと、彼がいない。見ると、床の上にはサウレリが貸したラゴの服と、最初に弦朗君が身に着けていた鎖帷子が、どちらも畳まれて置いてある。いっぽう、烏翠の服は影も形も見当たらない。だが、床自体に手を当て、燭の芯を手でつまんでみると、まだかすかに温もりがあった。
――しまった!体よく酔い潰されてしまって…。
彼が暗闇に紛れ、戸口をすり抜けたのも気が付かなかった。サウレリは剣と弓矢を掴むと、靴を履くのももどかしく邑長の家を飛び出す。邑の西側から、二廟に至る蓬莱北道が延びている。馬首を巡らせ、いっさんに駆った。
弦朗君が二廟にたどり着く前に、彼を引き戻さねば――。
東の空はしらじらとして、夜はすでに朝に追われようとしていた。程なく日輪が上るだろう。さほど時間もかからぬうちに、曙光を浴びながら、とぼとぼと街道を歩く人影が見えた。
「顕秀!」
馬を捨てて弓矢をつがえ、やや離れた場所から大声で呼ばわる。
「俺の許しも得ずにどこに行く、邑へ戻れ…!」
振り返った弦朗君は昨夜とは打って変わり、硬い表情だった。
「私が今日にでも烏翠に帰らねば、そなた達が死ぬことになる」
「こっちに戻って来い!戻らねば、お前を殺すぞ!」
弦朗君は、眼を細めて相手を見返すばかりだった。あちこち破れて傷んだ烏翠の服に、光山府の徽章をかけた彼は、サウレリにでさえ侵しがたい、王族としての誇りと高貴を全身にまとって見えた。たとえ殺されても烏翠に帰る――その強靭な意思が彼の頼りない身体を覆い、いまや鎧となってサウレリを拒んでいた。
「ああ、そなたは私を簡単に殺すことができる。だから、殺すが良い。遠慮はいらぬから。だが私がラゴの手で死んだとあらば、烏翠はすぐさま攻め寄せてくる。短慮と私情で一族を滅ぼすつもりか?」
「顕秀!」
「…二度と私を諱で呼ぶな」
言い捨てざま弦朗君はくるりと背を向け、歩き出す。サウレリは唇を噛みしめて見送っていたが、ぶるっと身震いすると矢を相手に向けた。どんどんと遠ざかるその後ろ姿に向けて、弓を引き絞る。
「帰って来い!来ないと…」
彼が振り返りなどしないことは明らかで、歩調は崩れず、またしっかりとしたものだった。だが、その頭がぐらりと揺れた。なぜならば一瞬前に、矢が弓から放たれ、弦朗君の右肩甲骨の上部に突き立ったからである。
前のめりに倒れ込んだ彼に、サウレリは駆け寄った。
「馬鹿…!」
サウレリは矢の突き立った周囲の布地を、短剣で切り裂いた。そして、携帯用の煙管が入った木の筒を帯の隙間から抜き、呻く弦朗君の口に押し込んだ。
「抜いてやるから、噛んでいろ」
一瞬息を詰め、矢を引き抜く。
「――!」
声にならない、くぐもった悲鳴とともに弦朗君は木筒を吐き出し、荒い息をついている。
サウレリはほっとして、矢を放り投げた。ついで、傷を拭い、止血するため懐から布を取り出す。いっぽう、転がる矢尻を見つめた弦朗君の肩先が震えた。
「何だ?何が可笑しい」
痛みに涙を浮かべ、苦しげな呼吸の下からでも、弦朗君はかすかな笑いを漏らしている。
「やはりそなたは優しいな。いや、甘いというべきか…」
「何だと?」
「撃ったのは右の肩だし、返しのついた矢尻を使わなかったろう。だから…」
「このごに及んで減らず口を……本当に心の臓を射抜いてやっても良かったんだぞ」
サウレリはかっとなって、思わず傷を押さえる力を強くし、再び相手に声を上げさせた。
「…歩けるか?」
「どうにか」
「お前が強情だから、こんなことに…」
「そなたも人のことが言えるか?」
サウレリの帯を解き、腋窩から肩、そして胸に回して縛り、間に合わせの手当が終わった。しばらく経過を見た後、弦朗君はサウレリに寄りかかり、ゆっくりと歩き出した。彼を馬に乗せて自分が綱を引いていけば、時間はかかるだろうが、日が高くなる前に邑には戻れるだろう。
だが、サウレリは背後に人馬の気配を感じて振り返った。堂々とした軍馬に、堂々とした甲冑の男。過日の戦闘で、烏翠の軍を指揮していたあの老人だった。
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