第8話 蛮族の涙

 翌朝早く、サウレリが身じまいを済ませて奥の間を覗いてみたところ、弦朗君も既に起き上がっていた。ただ酒の気が身体から抜けきっていないのか、床に片膝を立てて座り、どことなくぼんやりとしている。


顕秀けんしゅう、起きていたのか。まだ寝ているかと思ったのに」

 弦朗君は相手を見上げ、怪訝な顔をした。

「なぜ私のいみなを?」

「なんだ、覚えていないのか。昨夜のこと」

「昨夜?」

「酒を酌み交わしていたとき、お前は俺に諱を明かして、『以後は諱で呼んでくれてかまわない』と言っていたぞ」

「私が?」

「本当に覚えがないのか」

「ある段階からの記憶がない…」


 額に指をあて、昨晩のことを懸命に思い出そうとする弦朗君とは対照的に、サウレリは笑いをこらえている風だった。酒と肴を楽しみ、煙管を吸い、月下の歓談は尽きることがなかった。

「酒で正体がなくなるなどと…」

 彼は意識を失うほどに酔うという、王族としての、否、敵陣にある身としての不用意な振舞を恥じているかのようである。

「まあ、記憶にないのなら仕方がない。嫌なら、諱で呼ぶことはなしにする。諱は大切なものなのだろう?だから、君号のままで…」

「あ、いや」

 急き込むように、弦朗君は言った。

「呼んでくれて、かまわない。その……そなたは私より年上であるばかりか、いわば命の恩人ゆえ」

「…ふん」

 鼻を鳴らしたサウレリに、今度は弦朗君が笑いを噛み殺す番だった。

「それはともかく、寝首をかくだの何だの、恐ろしいことを言っていた割にそなたは優しいのだな。いや、甘いというべきか……酔い潰れたのに、言葉通りには私の寝首をかかなかった」

「不満か?今からでもその細首をかっ切ってやってもよいのだぞ?」

 不機嫌になったサウレリを、王族の双眸がやさしく見つめていた。


 軽口の叩き合いはそこまでとして、サウレリは今日までには弦朗君への返答をしなければならないと考えていた。要求を拒むか、もしくは、彼を人質にして交渉の打開策を探るか――。

 前者の場合、いよいよもって本格的な戦を覚悟せねばならない。だが、地の利はこちらにあったとしても、兵力の差はいかんともしがたく、一族の命運が尽きることにもなりかねない。また、彼を人質にして時間稼ぎをするにしても、新たな条件や譲歩を、烏翠とラゴが相互に開陳できるかというと――。


 そんなことで頭を悩ませながらも、サウレリは弦朗君を襲った盗賊を処分するため、彼等が囚われている村はずれのあばら家に自ら足を向けた。邑長の家に連行させなかったのは、弦朗君にラゴ族の裁きを見られるのを憚ったためである。


 庭に引き出された三人の盗賊は、最低限の食事だけでもだいぶ気力を回復したようであり、尋問には素直に答えた。

 サウレリは、盗賊に身を落とした彼等のやむにやまれぬ事情を汲んで、処刑だけは免じてやるつもりだったが、気になることがあったので一つの問いを発した。

「あの軟弱野郎に斬りつけたかって?背中?いいえ、そんなことをしやしません。ぶった斬ってしまう前に、あっちが気絶してたんで、すんなり用が済んでしまったんでさあ」

「本当だな?」

 サウレリは念を押したが、彼等の反応を見て、嘘は言っていないと確信した。


 ――では、彼の背中を斬りつけたのは誰だ?


 そして、弦朗君はサウレリの逡巡を見透かすように、人質策をあっさりと粉砕した。

「サウレリ。私は人質としては、本当に何の役にも立たないよ」

「なぜそう言える?」

 彼等は昨晩と同じように、黄昏の去ったあとで酒膳を囲んでいた。といっても、ラウニャの邑でも酒の備蓄が尽き、今日が最後の酒となるだろう。

「瑞慶宮は、使者の件は失敗を見越しているばかりか、私のことは死んでもかまわないと思っているからだ、いや、是非にも死んでほしいと思っている……これが正しいかな」

「どういうことだ?」

「さあ、王宮にでも聞くがいい。だが、彼等は私の命は惜しまぬが、ラゴを掃討する口実にするかもしれん」

「顕秀、烏翠では一体何が起こっている?いや、王の政についての噂は聞いている。だが」

 サウレリはそこで一度言葉を切り、相手を鋭く見据えた。


「お前の背中に斬りつけたのは盗賊ではなく、――烏翠の者では?」


 弦朗君はそれに対して否定も肯定もせず、ただ大きく息をついた。

「私は太妃さま――祖母の保護をもって今まで山房の命脈を永らえさせてきた。だが、『彼等』は祖母の目の届かぬところで、私を亡き者にしたいのだ。王に跡継ぎとなる王子がまだおわさぬ以上、目立つ山房、近い血脈の王族は眼の障りとなるらしい。親しくしていた大きな山房がひとつ族滅となってまだ間もないが、繊細な性格だった母は耐えきれずに狂気を発した」

「何と…」

「いずれにせよ、次は私の山房の番かと」

「それを全て承知で…?」

 弦朗君は掌中の節をサウレリに見せた。

「他にどうせよと?この血脈をもって王に仕える身としては、王命を受けるしかないだろう?たとえそれがいかなる命であっても」

「お前が俺にここまで話すということは、烏翠に弓を引くのと同じことだぞ。それなのに敢えて…」

「ふふふ、月は恐ろしい。人はつい、秘め隠すべきものをその光にさらしたくなってしまう」

 人質にはなれぬうえ、交渉の果実を持たずに戻れば、弦朗君は身の危険に直面する。


「いや、やはりお前を烏翠に返すわけにはいかん。むざむざと――」

 殺されるのを知っていて彼を送り出すなど、できない。

「でも、結局はそうなるのだ。交渉の決裂は決まっていて、役目を果たせなかった私は罪に問われ、おそらく死ぬ。お祖母さまの取り成しとて、今回は役に立たないだろう。だが、烏翠の要求をラゴが呑むわけにはいかない。たとえそれを呑んだとしても、増すであろうラゴの苦しみと怒りは、今度は族長代理であるそなたに向く。私はそなたに死んでほしくはない。それに私が烏翠の陣に戻るのが遅れれば、烏翠の将官も罪に問われる」

 弦朗君は悲し気に微笑んだ。

「ただ、私が瑞慶府まで戻って復命するまでは間があるし、可能な限り王の処断を引き伸ばしてみせるから、それまで一族で知恵を絞り、できるだけの備えをしておくがいい」

「だからといって…、本当にどうにもならぬのか?」


 サウレリの左眼から一筋、温かいものが流れ出た。

「サウレリ・タフラ・マージャ。ラゴ族一の武勇を誇り、一族を統べる者が、これしきのことで泣くなどと……敵同然の者に情けをかけて…」

 自分を窘めるのが静かな口調であるだけ、サウレリの心には堪えた。気まずさをとりつくろうかのように弦朗君が差し出した椀を、族長代理は押し戻す。

「何を言う。お前は敵では…」

「味方でもないだろう?」

「敵でも味方でもどちらでも良い、お前を死なせたくない」

「でも仕方がない」

 弦朗君は、自分の着ているラゴ族の服の袖を引っ張って見せた。

「私がこの服を着て、ラゴの月を見て、ラゴの酒を飲んで暮らせるとでも?誰にでも、生きるべき場所と死ぬべき場所がある、それだけだ」

「お前は優しい顔をして残酷なことを言う、顕秀」

「――サウレリ」

 弦朗君の手で、再び椀が差し出される。


「礼を申す。まさかこの異郷の地で、私のために泣いてくれる者に巡り合えるとは思わなかった。生涯最後の酒の相手がそなたでよかったと――」


「礼などいらん、とにかく、俺はお前を烏翠には帰さんぞ」

 駄々をこねる年上の若者を、柔和な顏つきのまま年下の王族は手を振ってとどめた。

「わかった、わかった。とにかく、そのふてくされた顔を引っ込めねば、族長代理の威厳が台無しだ。さあ、気を取り直して私の献酬を受けてくれ、な?」

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