第7話 月下の対酌

 干した鹿肉を火であぶり、椀の酒につけるとじゅっと音を立てる。もう一つの椀にも酒が溢れんばかりに注がれる。


「また良い酒のつまみがあったものだな」

「だろう?烏翠の酒には烏翠の肴があろうが、ラゴの酒にはラゴの肴が合う」

 男二人は軒下に場所を移し、先ほどから飽きることなくさしつさされつしているが、それを見下ろしているのは明るすぎるほどの月だけである。山間とあって、夏とはいえ冷え込むので、サウレリも弦朗君も肩に厚めの毛織物をはおっている。


「それにしても、俺もたいがい酒には強いと思っていたが、お前も相当なものだな」

 何気なく言ったサウレリは、思いもよらぬ相手の反応にどきりとした。弦朗君は辛そうな、また切なげな、何ともいえぬ眼差しで見返してきたからである。

「だが、いくら飲んでも酔えぬとは辛いものだな。……まるで、天が私により苦しめと命じているかのようだ」

「おかしなことを言う。ああ、したたかに飲まねばやり切れんことでもあったか?」

 弦朗君はわずかに顔を伏せたが、答えとしてはそれで十分だった。


「それで弦朗君、お前に家族は?」

 相手は笑みを浮かべたが、眼は笑っていない。

「酒を呑ませついでに尋問でもするつもりか?酔わせて烏翠のあれこれを探ろうとしても無駄というものだ。私は力のない一介の王族で、何も知らないのだから」

「尋問?俺がそんな野暮な真似をするとでも思っているのか、心外だな。月が美しい、酒がある、そして飲み比べをする相手もいて、よもやま話でもしたいだけだ」

 サウレリの真剣さに、それまでどこか鋭さを宿していた弦朗君の表情が、すっと和らいだ。

「疑ってすまぬ。確かに、今宵は月が美しい……恐ろしいくらいだ」

 使者はそう呟くと、天空の高みに視線を投げた。


「何か、月を詠じた烏翠の詩か歌でも聞かせてくれぬか?」

「いや。…ここまでの月には、古今の名高き詩歌でさえ邪魔となる」

「そうだな」

 二人はしばらく沈黙したまま月を眺め、虫の声に耳を澄ませていた。


「そなたが聞いたのは家族の話だったか…、父は先代の王の弟だが、私が十三のときに亡くなった。だから私は、ごく若くして山房の主となって今に至る。あとは母と、すでに嫁いだ姉と…」

 弦朗君が「母」という言葉を口にしたとき、その瞳に悲しみの色が宿ったように見えたのは、サウレリの気のせいだろうか。

「で、そなたは?やはり家族がいるのだろう。族長代理」

「サウレリと呼べば良い。ふむ、俺もすでに父がない。母も病で伏せっている」

「ああ、私も母が病で…」

 弦朗君はまた視線を月に向ける。

「そうか、同じだな。お前の歳は?」

「十八だ」

「では、俺より一つ下だな。妻はおらんのか?」

「いや、まだだ」

 サウレリは眉を上げた。

「俺もまだ独り身だが…意外だな、山房の当主、しかも二十歳近い王族とあれば、すでに婚姻していると思っていたが」

「……」

 弦朗君はそれには答えず、鹿肉に箸を伸ばしたが、ややあってサウレリに兄妹の有無を聞いてきた。


「うむ、妹がいる」

「妹?」

「ふふ、男勝りで、武芸も馬術も得意な娘だ。俺が父代わりになって教えたからな。今はツァングの邑にいて、俺の帰りを待ってくれている」

「可愛がっているのだな」

「もちろん。おまけになかなかの器量だ。あれは美人になるぞ、俺に似てな。性格も真っすぐで…」

 弦朗君はくくくっと笑い、空になった椀を差し出した。

「族長代理ともあろう者が、そのように相好を崩して……大切な妹御とて、いずれ嫁ぐ日も来よう。婿になる者が気の毒だな、このような気難し屋の兄の気に入る人間など、誰がいるというのか」

「当たり前だ、下手な男に妹はくれてやれん。刀の露にしてくれよう。だが…」


 サウレリはふっと言葉をとぎらせ、弦朗君が先ほどしたように、夜空を見上げた。

「ラゴと烏翠の成り行き次第では、俺も妹もどうなるか…」

「そのように、心のうちを明かして――」

 咎めるような口調の弦朗君に、サウレリは鹿酒の椀を返した。

「隠していても仕方がないだろう。確かに俺はこう思っている、いざとなればラゴは北方の諸族を糾合して、烏翠に本格的な戦いを挑むことも辞せぬ、と」

「だが、そなた達は戦いには強くとも、絶対的に数が足りぬ」

「そうだ。ラゴは烏翠に隷属しているわけではないが、いまだ烏翠からのくびきを逃れることはできない」

「……」


「弦朗君、お前は我等に捕らえられたとき、轡は肯んぜなかったな。だが烏翠は、我等ラゴ族にいまだに轡をはめ、くびきを強いているように、俺には思えるがな」

「轡など……」

 眉根を寄せた弦朗君に対し、サウレリは皮肉交じりの笑みを浮かべる。

「違うのか?お前たち烏翠の者は、我等を平気で『蛮族』呼ばわりするではないか。我等は神と天朝の御祖みおやの勅令をもって、『白烏の神侍しんじ』として烏翠開国の祖に随従したが、いまは山間で暮らしているだけであって、お前たちに蛮族などと呼ばれる筋合いはない」

「蛮族とは、我等は…」

「思っていないか?お前達が本当に?では聞くが、烏翠の王族や高官のうちで、ラゴの言葉を解する者はどれだけいる?我等ラゴ族で統率の任にある者は、烏翠の言葉を話せるというのに」

「……」


 弦朗君は俯いた。彼自身はラゴ族のことも尊重しているようだが、同じ烏翠の者が往々にしてラゴ族のことを何と呼び、どう思っているのかもよく承知しているのだ。


「北方の商いに関しては、烏翠とラゴは持ちつ持たれつでやってきた。だが、これ以上税を重くし、通行の妨げを助長されれば、ラゴも今まで以上に苦しくなる。ただでさえ、ラゴのなかでもお前を襲ったごとき盗賊が増え、こちらも苦慮しているのだ」

「それは私もわかっている。だが…」

「悪いが、今の王は何を考えている?涼へつながる涼魏街道の桟道は崩れるにまかせるいっぽう、ラゴを通る蓬莱街道は南北両道にせっせと手を入れ、補修しているだろう?だが、それは我等北方との友好や取引を盛んにするためではないのは、火を見るよりも明らかだ。王…いや、お前達烏翠は何を企んでいる?」

「……詳しいな」

「蓬莱街道を吹き抜ける風は、さまざまな噂を運んでくる。しかも素早くな。知っているぞ、いまの烏翠の国君が厳しいまつりごとを行い、気に入らぬ者を片端から粛清していることも」

「……」

「まあ良い、此度の紛争もどう決着がつくかわからぬ。だが、いずれ我等は言葉通り、烏翠のくびきを断ち切って見せる」


 サウレリは不敵な笑みを浮かべると、複雑な表情をした相手に再び椀を渡した。

「さあ、これ以上つまらぬ話を続けると、酒の味が濁る。お前も、そんな顔はやめよ。飲み比べはこれからが本番だ、覚悟するがいい。万一にも酔い潰れなどしたら、寝首をかくからそう思え」

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