第5話 敵討ち
サウレリはオドアグを弦朗君の見張りに残して、もう一度邑の近辺から烏翠との境近くを巡回したが、枯れ木は息をひそめ、岩は沈黙し、不気味なほどに周囲は静かだった。
彼は「神の眼」の淵に立って、青い湖面を飽かず眺めた。すでにツァングの邑には、自分の補佐達を呼び寄せるべく使いを走らせた。彼らは明日には到着するから、烏翠の要求をどうするかを話し合う。族長代理として、物事に対する最終的な決断は自分に委ねられているが、この度のことは一族の命運を左右しかねないため、サウレリは独断で決めることはしたくなかった。
――すっきりしない。
戦場に全く似合つかわしくない「彼」のことも、自分達を追い詰めずに退いたあの老将のことも。
ラゴ族を実質的に率いる者としては、弦朗君の持ってきた条件を呑むわけにはいかなかった。今回呑んで持ちこたえたとしても、来年には烏翠は必ず税率を上げてくるだろう。小指の爪の先を恵んでやれば手首ごと食いちぎられる、そのことをサウレリは十分に承知していた。
――しかし、烏翠の王はなかなかの暴君だと聞く。役目を果たさせずに彼を帰したら、罪に問われるだろうか。ひょっとすると、彼の命も危うくなるかもしれない。
そこまで思いが至り、サウレリは苛立たしげに首を振った。
――何だというのだ。だからといって、要求をそのまま受け入れるわけにはいかない。わが一族の命運と秤にかけたら、敵同然の王族が生きようと、死のうと…。
だが、殺すには惜しい、むざむざと死なせるには忍びない。そう思わせる雰囲気を、あの飄々とした男は持っていた。
結論が出ないままサウレリは馬首を返し、ラウニャに戻った。すでに日は傾き、愛馬サライの影が長く岩場に伸びる。かつてないほど長い一日だった。朝まだきの戦闘、思わぬ拾いものと交渉――。
しかし邑の門の前で、サウレリの考えごとは途切れた。誰かがサウレリを見るなり中に駆け込み、そうかと思うと邑長が転がり出てきたからだ。
「タフラ・マージャ、大変です!男たちが烏翠の使者を殺そうと……取り囲んで」
「何だって…!」
馬を飛び降り、邑長の指さす先に猛然と走る。ラゴの神を祀る廟の裏手に回り、陰から様子を窺うと、目の前は三丈ほどの低い崖の下になっており、弦朗君はそこに追い詰められていた。周囲には邑の男が数人取り巻き、何とオドアグもその一人となっている。
――いかんな。
烏翠の王族は自分の剣を構えていたが、剣術の基本だけ手ほどきされたといった体で、技量は皆無に近いのが見て取れる。髪は乱れ、服はそこかしこ斬られ、肩で大きく息をしているのが憐憫の情さえ呼び起こす。
――嬲り殺しにするつもりだな。
服は破れているが、身体に傷はついていない。ラゴの男ならば、殺そうと思えば一撃で相手の息の根を止められるはずなのだ。だが男たちの表情は、明らかに仇敵を前にした憤怒のほか、獲物をいたぶる昏い快楽にも満ちていた。
「何をしている!」
大声で呼ばわりざま、サウレリは飛鳥のように男達に迫り、次々と当て身を食らわせる。
「族長代理である俺が礼儀をもって遇した使者を殺すとは、俺を貶めることに他ならんぞ、オドアグ、見張りのお前まで一体…」
名指しされた部下はぐっと言葉に詰まったが、顔を真っ赤にしながら唸るように声を出した。
「烏翠のせいで、この邑でも死者が出て、俺達も仲間や血縁を失った。ルロイ、パージャ、ウッダル……彼等の無念を晴らすため、敵討ちをして何が悪い!のほほんとしたこいつを見ると吐き気がする、殺させてくれ、サウレリ!こいつの首を烏翠に送って…」
サウレリは一瞬絶句したが、すぐに気を取り直してオドアグを殴りつけた。
「馬鹿!お前達の軽率な行動が、一族を滅ぼすのだ」
そして剣をすらりと抜くや、弦朗君を庇うように立ちはだかった。
「どうしてもこの男を殺したければ、俺を倒してからにするがいい。一時にかかってきても良いぞ」
「――すまんな」
「ん?」
太陽も山の稜線の下に落ちた。邑長宅の奥まった部屋、獣脂を使った燭台の脇で、弦朗君は盥の水で顔を洗って自ら髷を結い直し、斬り裂かれた服を脱いだ。
「お前を危うく殺してしまうところだった。確かに、使者の命は保障できぬと言ったのは俺だが、あのような形では…」
「わかっている」
弦朗君は穏やかな表情をしていた。
「彼等も烏翠に家族や同朋を殺されているのだろう、私を亡き者にしようとするのも、無理からぬこと」
「これを――」
サウレリが差し出したのは、ラゴ族の服である。
「俺のものだが、着ていてくれ。丈はさほど変わらぬゆえ…」
弦朗君はすっと眼を細めた。
「それとも、我等『蛮族』の服は着られぬか?」
サウレリの問いに、相手は微笑を返した。
「そうではない、かたじけないと思っている」
背中をこちらに見せ、服に袖を通そうとする弦朗君に、サウレリは声をかけた。背には斬りつけられた跡がはっきりとした痣として走っていた。
「今朝は鎖帷子を着こんでいて、助かったな。混戦になったときに斬られたのか?それとも盗賊に?」
だが、相手からは返事が返ってこない。気のせいか、ぴくりとその肩先が震えたようだがサウレリは気をとめず、帯を結んで向き直った弦朗君に思わず破顔した。
「何が可笑しい」
眉根を寄せた相手を前にサウレリは首を横に振ったが、なおも口もとがほころんでしまう。
「似合わぬな」
確かに、色遣いが烏翠の服よりも濃厚ではっきりとしたラゴの服は、日焼けしたラゴ族の者だから似合うのであって、柔和な顔つきの、どちらかと言えば肌の色の白い烏翠の王族には、ちぐはぐに見えた。
「そうか、似合わぬか」
弦朗君も顰め顔を崩し、ふふふ、と声を立てた。
使者の会見のとき供された軽食を夕餉の代わりとし、サウレリは奥の間に弦朗君の床を整えさせたが、部屋の出入り口には自分が陣取って見張りをつとめることにした。弦朗君が勝手な真似をせぬよう、そして同胞の弦朗君への襲撃を防ぐためである。弦朗君は床につくにあたり、自分の剣を差し出したが、サウレリは受け取らなかった。
「使者としての体面もあろうし、お前ごときの剣ではラゴ族の誰をも倒せぬ」
「そうか、それはそうだろうな」
「言っておくが、俺の寝首をかこうとしても無駄なことだぞ」
「わかっている」
きょう一日で死線を越えてきたラゴの青年と烏翠の若者は、少しく離れたところにめいめい横たわり、ほどなく寝息を立て始めた。
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