第2話 湖水の瞳を持つ者

 早朝の戦闘から、すでに半日が経っている。


「ふう……」

 サウレリは大きな息をつき、遥かな谷底を見下ろした。浅黒い肌に皓歯こうし、筋肉質の体格を持ち、いかにも精悍そうな顔つきの、二十に満たぬほどの若い男である。

蒼穹の下、雲なす山間を縫って走る蓬莱北道ほうらいほくどうは、蓬莱山から山岳部の民族が暮らす領域を経て、はるか烏翠うすいとその王都にも続く路である。彼はその北道を、数騎を引き連れて南下しているところだった。

 


「あいつらは、『二廟にびょう』までは後退しただろうか?オドアグ」

 若者の問いに、オドアグと呼ばれた部下が首を捻る。

「どうでしょうか、また遠からず攻め上がってくると思いますが…。サウレリ、二廟まで足を延ばして巡回しましょう」


 「あいつら」とは、もっか彼等が係争中の烏翠の兵士たちである。いっぽうサウレリやオドアグ等は「ラゴ族」と呼ばれ、北部の諸族のなかでももっとも数が多く、また勇猛果敢な一族としても知られていた。

 彼等は、もとは隣接する烏翠国が天子の末子によって開かれたとき、その随従として天朝から付き従い、途中この地に留まって邑を営んだという伝説を持っている。ゆえに、いまでも烏翠には従うばかりではなく、かの国に岩塩や鉄鉱石、宝石のみならず、他の地域からの商品をも中継ぎで売り、また烏翠からは小麦や茶などを買うという関係を保ってきた。

 だが、そんなラゴと烏翠の間には、いまや暗雲が立ち込めている。


「サウレリ、あそこに人が…」

 ラゴと烏翠との境界である「二廟」まであと少しというところで、オドアグが異変に気が付いたようである。サウレリが眩しげに額に手を当て、指さされた方角を見やった。岩場に誰かが倒れている。近づいて馬を降り、歩いて行くと、その者は頭を斜面の下に向け、腕を左右に投げ出していた。


 倒れているのはやはり若い男だった。ざっと見たところ衣服はラゴ族のではなく烏翠のもので、脚絆と手甲はつけているが、武装と呼ぶには軽い。奇妙なことに、胸元は大きくはだけられて軽い鎖帷子が覗き、帯も断ち切られていた。サウレリが短刀を抜き、男の鼻の下に当てると曇った。

「――息はある」

 敵のことながらサウレリは安堵の息を漏らし、あらためて男を検分する。帯に提げ緒が巻き付いているところを見ると、剣を提げていたと思われるが、現物が見当たらないので、盗賊に襲われて持ち去られたか。


 オドアグも膝をつき、サウレリとともに男の身体を改める。

「サウレリ。おそらく盗賊に懐を探られたのでしょう。奴らは金目のものを剥ぐだけ剥いで、持って行ったと見えます」

「うむ。だが、この者は誰だろう…」

 ただの兵士ではなく、着ているものからして、身分か階級の高いものであることは容易に想像がついた。だが、武官という雰囲気でもない。


「どうする?このままにしておくわけにはいかない」

「連れて帰りましょう。身分の高い者であれば、良き人質になります」

 人質――サウレリはその言葉に頷くことはなかったが、相手の身体を検分した。そこかしこの傷はごく軽いものだが、背中に腕を回してそっと裏返したとき、サウレリは息を呑んだ。背中を斜めに斬られ、服が破けている。だが全く運がいいことに、鎖帷子のおかげで、無傷で済んだものと見える。男をうつ伏せの体勢から、再び上向きに戻したその瞬間。


「……ん」

 意識を取り戻したとみえ、男がうっすらと眼を開けた。サウレリは覗き込み、はっとする。

 ――「神の眼」。

 その澄んだ瞳に、一瞬、ラゴ族の守りである青い湖を連想してしまった。サウレリが眼をしばたたかせると、水面の幻影は消えてしまったが。


 男はサウレリ達を見上げたまま、しばらく呆然としていた。状況を把握するまで時間がかかったものの、目の前にいる者たちの服装を見て敵の手に落ちたことを悟るや否や、頭をゆるく振り、起き上がりざま腰に手を伸ばした。だが、サウレリより一瞬早く、オドアグが男の衿に手をかけ、首筋に自らの刃を当てた。


「動くな。お前――烏翠の者だな?名と身分を言え」


 追い詰められているというのに、男は唇を引き結び、答えようとしない。サウレリの見たところ、傷つき頭髪も衣も乱れてはいたが、自分と同じ年頃で、落ちつきと気品を備えた若者であった。

「言わぬか、でないと――」

 焦れたオドアグが首に傷をつけようとするのをサウレリは「よせ」と制止した。

「我等の言葉が通じないだけだ」

 そして、若い男の傍らに膝をつき、烏翠の言葉で話しかけた。

「名乗るがよい、烏翠の公子よ。身分高き者と見受けられるが?」

 若者の表情が一瞬だけ動いたが、返事をしようとしない。サウレリは軽く溜息をついて立ち上がった。

「……」

 舌打ちしたオドアグは、沈黙する男の両手首を刀の提げ緒で後ろ手に縛りあげる。相手は痛みを覚えたのか、顔をしかめた。


「サウレリ、舌でも噛んで死なれたら面倒だ、猿轡さるぐつわか縄を口に…」

 さらにオドアグが縄と布を鞍の袋から出したのを見て、言葉はわからずとも成り行きを察したのか、男は眼光を鋭くしてサウレリを見据えた。

「死んだりなどせぬ、だが轡は受けぬ…」

 その瞬間、オドアグが若者のうなじをしたたか刀の柄で殴りつけたので、彼は口がきけなくなった。岩場に倒れ伏し、咳き込む。

「オドアグ!」

「何を言っているのか知らんが、人質のくせに反抗的な目つきを…」

「とにかく、やめろ」

 不満げな部下を制し、サウレリは男の前に膝をついた。


「死なぬという約を守れるのであれば、轡は免じてやる。逃げぬと誓うのであれば、縄もかけぬ。それでいいな?お前の先祖と父母の名にかけて誓えるか?」

「むろんのことだ。――かたじけない」

 貴公子らしき男は頷いた。そこでサウレリは、男にかけた縄を解くようオドアグに命じた。

「どちらにせよ、お前は我等の手のうちにある。これから一緒に来てもらおうか」

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