第218話 夏の惑星
「ここは……」
まず感じたのは、うだるような暑さだった。
焼け付くような強い日差し。耳をつんざくばかりの蝉の声。
どこまでも青い空には真綿のような入道雲が高く立ち上り、強い緑の匂いはこの世界が真夏である事を否が応でも教えてくれる。
秋も終わりに入ろうとしていたエイプルとは、明らかに異なる世界。
汗が噴き出し、耐えられずに上着を脱いだ。
「暑いよー。わたしも脱いでいいかー?」
サラも顔が赤くなっており、額には汗が浮かんでいる。
「早く脱いでください。熱中症の危険があります」
「そりゃ、あぶないなー」
タニグチとネモトは、膝を付いて呆然としているようだった。
「帰れた……? 帰れたんだ……」
「間違いない……ここは……ここは……地球だ……! 何度も何度も夢に見た、ふるさと……」
空想上の概念とされた異世界。
あるいは、魂の還るところ。
やはり実際には、そうではなさそうだ。
「地球…………」
人の生活の気配がする。
どうやらここは、民家の庭のようだった。
周囲は塀ではなく、直線的に刈り込まれた生け垣によって囲まれている。
木造の建物は二階建てで、屋根には変わった形の黒い瓦が敷き詰められている。
人の背丈ほどの大きさがある窓は、ベランダのように出入りが出来るようになっていたが、玄関ではなく縁側らしい。
その部屋は、草を束ねて作られたらしい床材が敷き詰められている。
壁には、小さな女の子の色付き写真が飾られていた。
「あれって……」
「わたし、かー?」
黒髪に黒い瞳のその女の子は、間違いなくもっと幼い頃のサラだ。
その時、奥の引き戸が開き、穏やかな笑みを浮かべた老婆が現れた。
映像で見たジョージ王と、鼻の形がよく似ている。
痩せ型で眼鏡をかけた白髪の老婆は、年齢を感じさせない身のこなしだった。
袖のゆったりした、ローブにも似た涼しげな花柄の服は、コルセットの位置にある大きな帯で巻かれていた。
「素敵な浴衣ね……私も、持っていたっけ……」
「ユカタ……ですか?」
ヤスコが言うには、この服は『浴衣』というらしい。
どうやら、この国の民族衣装らしかった。
子供向けの絵本をはじめ、カトー様の物語には、こういった服装の女性が度々登場する。
老婆は一度深呼吸をしたあと、一同を見渡す。
やがて、サラに穏やかな笑みを向けた。
「いらっしゃい、サラちゃん。あなたが来るのを、ず~っと待っていました」
「わたし、しってるー……お城にあった肖像画……父様が描いてた……もしかして、もしかしてー?」
サラは目を丸くして固まっていた。
老婆はにっこりと頷く。
「そう。……わたしが、
サラは、一美と名乗った老婆の胸に飛び込む。
「お……おお……おばあちゃーん!」
「あらあら。甘えんぼさんね」
蝉時雨の中、二人はいつまでも抱き合っていた。
サラの顔は、まるで母親に抱かれる子供のように安らいでいるし、一美もまた慈愛に満ちた表情だった。
「…………よかった」
思わず声が漏れる。
間違いない。彼女こそ、血を分けたサラの本当の家族だ。
やがて、一美が意味深な事を呟いた。
「――お盆にお父さんと譲二が帰ってくる代わりに、孫と出会えるなんて。ご先祖様、ありがとう……」
◇ ◇ ◇
一行は、縁側から室内に通される。
きれいに片付けられた部屋は、どこか懐かしい匂いがした。
新しい物好きの貴族が趣味で作ったインテリアを雑誌で見た事があるが、それによく似た造りだ。
地球では一般的な様式らしく、ジョージ王が地球を懐かしみ、再現した物が貴族を中心に広がっているのだ。
他に人の気配は無い。
使用人も居ないようだ。
家も特別広い訳ではなく、ジョージ王がこの世界においては平民であることを示している。
壁の色付き写真に映っている少女は、やはりサラだ。
「わたし、こんなにちっちゃくないぞー」
「そりゃあ、そうでしょう……」
ジョージ王が暗殺されたのは、四年前。
それ以前の撮影だとすれば、年齢的にも辻褄が合う。
『メール』とやらは、写真を送ることも出来るというが、あるいはジョージ王が実際に帰省していた可能性もある。
部屋の片隅には、大きな黒いガラス板が鎮座していた。
「ちょっと待っててね、すぐに飲み物を持ってくるから。テレビでも見てて」
一美がローテーブルに置かれた小さな機械を操作すると、ガラス板に人の顔が浮かび上がり、音楽とともに声が流れ始める。
「映画……ですか? 色付きの……? 個人の家に……?」
『テレビ』とやらに圧倒され、ビンセントは尻込みしてしまう。
答えたのはタニグチだ。
「似たようなものですよ。厳密には違いますが、ラジオと同じです。電波によって映像を受像機のある家に送っているんですよ。こっちではみんな持っています。懐かしいなぁ……」
「みんな……持ってるんですか?」
これほどまでに高度な機械装置を個人が持っているなど、とても信じられない。
「あ、この人まだテレビに出てるんだ。でも、老けたわねぇ」
映っている男をヤスコは知っているらしい。
つまり、ヤスコの家にもあったということだ。
「あっ……」
場面が変わり、オルス帝国の帝都をも凌駕する、とてつもない近代的な大都市が映る。
色とりどりの服を着た人々が行き交い、たくさんの斬新なデザインの自動車が走っている。
「相変わらずだな、この国は」
ネモトは軽く溜息をついた。
よく見れば、機械装置は他にもある。
安楽椅子の前に置かれている、マッサージ装置らしき物。
エイプルとは形がずいぶん違うが、電話らしき物も設置されていた。
一美が大きな白い箱の扉を開けると、大量の食料品が入っているのが見える。
ガラス瓶の液体をコップに注ぎ、持ってきてくれた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。……冷たい……?」
どうやら麦茶のようだが、氷のように冷えている。
あの箱は電気冷蔵庫らしい。
しかし、トムソンの家で見た物よりも何倍も大きかった。
庫内を照らす照明まで付いているのだ。
他にも用途はわからないが、様々な機械が台所には並んでいる。
「まるで、おとぎ話の世界だなー」
サラもさすがに圧倒されたらしい。
不意にピリリ、と音が鳴る。
「な、何だ?」
何の音かはわからないが、一美のふところかららしい。
ポケットから取り出された道具かららしかった。
緑色のランプが明滅するその道具を耳に当てると、一美は独り言を言い始める。
「あ、はいはい。あら、ごめんなさいね、今日はお客さんが来ていて……」
サラも目を丸くしていたが、タニグチたちは意にも介さない様子だ。
「携帯電話、ですよ」
タニグチは、さも当たり前のように言う。
「そ、そんな……電話を……持ち歩くんですか!?」
もしかしたら、大金持ちの家かもしれなかった。
王様の母親の家なので、当然とも言えた。
ビンセントが目を丸くしていると、ヤスコが吹き出す。
「クスッ、ブルース君、私が持っているの、ブケートで見せたでしょう?」
「あ……あれですか!」
驚きの連続で、うっかり忘れていたらしい。
ほとんどの人が携帯電話を持っている世界は全く想像できなかったが、こうして当たり前のように使われているのを見ると、そういう物だと思うしかない。
なにしろここは、異世界なのだ。
無理矢理にでも納得するしかなかった。
「さ、サラちゃんもお父さんとおじいちゃんに、ご挨拶して」
一息つくと、サラは奥の部屋に通される。
サラに袖を引っ張られ、ビンセントも続いた。
蝋燭と香が焚かれ、黒い木と金箔で飾られた祭壇は、どうやら慰霊のためのものらしかった。
ジョージ王の写真と、彼によく似た老人の写真が飾られている。
試運転で地球に来たのは、やはりジョージ王らしい。
「…………」
「…………」
チーン、と透明感のある音が響く。
クッションの上に置かれた小さな金色のボウルは、どうやらお祈りに使う鐘らしい。
金色の一美に習い、同じように手を合わせる。
「せめて、もう少し早く会えていればとも思うけど……仕方がないもんね」
一美の夫、太郎は昨年亡くなり、今はこの家に一人暮らしだという。
彼女は息子と夫の思い出を語って聞かせるが、これほど科学の発達した世界でも、やはり人の暮らしは変わらないものらしい。
どこの世界も、変わらない。
ビンセントの出会った地球人は、皆一様にそう言っていた。
結局、人間が人間である以上、どの世界であっても何も変わらないのかもしれない。
その後、一美は冷や麦を出してくれた。
エイプルでも若い世代がよく食べている、夏向けのさっぱりした麺料理だ。
どうやらこれも地球から伝わったらしい。
意外なことに、一美はビンセントが箸を使えるのに驚いていた。
「……ええ、箸は三十年程前から使われ始めたようです。今ではみんな使えますよ、便利ですから。発明者はジョージ王と言われていますね。おそらく、王が伝えたのでしょう」
「あら、そうなの。せっかく異世界の人が来たのに、こっちの世界を見てあまり驚かないから、すこし拍子抜けしてたのよね」
「じゅうぶんに驚いています」
「あら、そう?」
◇ ◇ ◇
一美の家からほど近い路上へ、一行は来ていた。
ネモトは、ポケットから取り出した数枚の銀貨を慈しむように見つめている。
少し黄ばんだその銀貨を、ビンセントは初めて見るものだ。
エイプルはおろか、世界中で使われるあらゆるコインとも違う。
側面に斜めに入ったギザギザは一見単純だが、これはかなり高度な加工技術が必要である。
「これは、五百円玉……地球の通貨だ。価値はおおよそ銅貨五枚、ってところかな。インフレが進んでいればわからないがね。私もヤスコもタニグチも、最後までこれを捨てることが出来なかった」
タニグチも、似たような銀貨を数枚持っていた。
ヤスコが持っている紙は、噂に聞く『紙幣』らしい。
オルス帝国など、一部の先進国で試験的に導入されている紙のお金だ。
一美に似た服装をした男性の肖像画が描かれてる。
これで、おおよそエイプル銀貨十枚分の価値だという。
陽にかざすと、中央の円に男性の顔が浮かび上がった。
高度な偽造防止技術が駆使されているらしい。
「本当に、もう行くんですか?」
ネモトは寂しそうに頷く。
「ああ。もう、どこにも俺の居場所なんて無いのかもしれない。しかし、それでもこの国は、故郷なんだ」
「酷いところだと聞いています。人間を使い捨て同然の消耗品としか見なさず、誰もが俯いて過ごしている、と……」
「だからこそ、ですよ」
代わりに返事をしたのは、タニグチだ。
「――そんな世界だからこそ、より良い未来を目指して頑張れるんです。異世界の経験を活かして、きっと誰もが笑って過ごせる世界にしてみせますよ」
ビンセントは思わず頷く。
しかし、サラは人差し指でタニグチの頬をグリグリした。
「いいハナシにしようとしてー。おまえのやったこと、無くなったわけじゃないからなー」
「そこはほら、寛大なご処置を、ね?」
「しかたないやつだなー」
そう言いつつも、サラはそれ以上追求する気は無いようだった。
エリックによって『原子爆弾』は解体され、結果的には、あくまでも結果的には、タニグチは何もしていないとも言える。
「バスが来たわ」
ヤスコが指さす先からは、まるで空想科学小説の挿絵に出てくるような、そんなバスが走ってきた。
ここはどうやら農村のようだが、道路は全てアスファルトで舗装され、白線も鮮やかだった。
時刻表に書かれている数字は読めないが、一日に二往復しかないらしい。
車掌がドアを開けずとも、自動的にドアが開く。
運転手以外の業務は、全て機械化されているようだった。
乗客は数名。
こちらに興味を示さず、手元にある小さな光る板を覗き込んでいる。
スマートフォンは、やはり誰もが持っている物らしい。
「ご武運を!」
ビンセントは踵を鳴らし、三人を敬礼で見送る。
バスはクラクションを鳴らすと、一体何を燃料にしているのかわからないほどに、きれいな排気ガスを残して走り出した。
「元気でなー」
サラが手を振ると、三人も笑顔で振り返す。
見えなくなるまでいつまでも、彼らは窓越しに手を振り続けていた。
彼らを待ち受ける運命は、一体いかなるものであろうか。
一度逃げ出した世界だ。決して楽な道ではないだろう。
しかし、それでも彼らは帰還を望み、そして帰ってきた。
ビンセントには、彼らの幸運を祈るしかできない。
◆ ◆ ◆
滞りなくバスは進む。
バスの中にまでエアコンが効いているのは、地球ならではだ。
看板や標識の文字も、懐かしいものばかり。
徐々に家が増え始め、高層ビルも遠くに見え始めた。
それにつれて、交通量も多くなってくる。
「……いいんですか?」
揺れる車内で、『
「……何が?」
「向こうを出るとき言ってましたよね。現実を見なきゃ、って。……あなたにとって、現実って何でしょうね?」
康子は谷口を見ないまま答える。
「剣と魔法のファンタジー世界で、若くてイケメンの貴族のお坊ちゃんと恋に落ちる……そんな現実、ある訳無いじゃない……」
「まぁ、普通そうです。向こうでの事は、夢だったんだ、と思うのが普通でしょう。でも、我々は違う。私はね、向こうでも結局最後までちんこ未使用でしたよ。それだったらこちらの方がまだマシだ。……いや、どうでも良い話ですね。とにかく! ……あなたは、選ぶ事が出来る。どちらの世界で生きていくのかを、ね」
「…………」
「時間はまだあります。今夜一晩、よく考えてください。あなたにとって、何が一番幸せなのか、……ね」
康子は苦悶の表情で、額に手を置いた。
車内アナウンスの合成音声が響く。
「ご乗車、お疲れ様でした。次は終点…………」
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