第215話 遠い日の想い

「おいっちにー、おいっちにー」


「……うん……?」


 窓の外から聞こえてくる、サラの声で目を覚ます。

 カーテンを開けると、すでに夜は明けており、サラは一人で奇妙な体操をしていた。


「おはー」


「おはようございます、サラさん。体操ですか?」


「おー。お前もやるんだよー。健康にいいんだからなー」


「ははは、それもそうですね」


 ビンセントもさらに倣い、その奇妙な体操に混じる。


「オルス帝国ではなー、毎朝『ラジオ体操』ってのをやってるんだってー。ラジオの電波に音楽を流して、みんなで早起きして体操するんだとー」


「へぇ、そうなんですか。いつか、わが国でもやりたいものですね」


「そうだなー。おいっちにー、おいっちにー」


 早朝の風は冷たかったが、体操を終えると軽く汗ばむほどだった。


「俺、馬に餌をやってきます」


「おー、きをつけてなー」


 ◇ ◇ ◇


 立木に繋がれたエクスペンダブル号の近くには、なぜか競馬情報誌が落ちていた。

 最近活躍中の牝馬の写真が大きく載ったページが開かれている。


「何だこれ。誰か競馬やるのか? ……痛っ!」


 拾おうとすると噛み付かれてしまう。


「フンッ! フンッ!」


「あのな、昔と違って雑誌や新聞の紙には有害な成分が入ってるんだ。食べたら腹を壊すぞ」


「ケッ!」


 エクスペンダブル号は拗ねるような態度を取る。

 まさかとは思うが、雑誌を読んでいたわけではないだろう。


「あなたの馬?」


 振り返ると、そこに経っていたのは『捕虜』の一人、赤毛のレイラだ。


「まぁ、いちおう。近づかない方が良いですよ。気に入らない人を噛むし」


「平気よ」


「あっ、ちょっと……」


 このままではレイラが噛まれてしまう。

 しかし、意外にもエクスペンダブル号はレイラに頬ずりをした。

 レイラが撫でる手つきも手慣れたものだ。


「珍しいですね。コイツがこんなに大人しいなんて。もしかして会ったことあるんですか?」


 馬は、動物としては非常に記憶力が良いと言われている。

 ある農耕馬が軍に徴発された数年後、飼い主が徴兵されて戦地で再会し、馬のほうが覚えていた、という逸話がある。


「ううん。……もう……忘れたわ。朝ご飯、できてるから。じゃあね」


 レイラは、ビンセントの顔を見ずにきびすを返した。

 しかし、エクスペンダブル号はレイラの裾を噛んで止める。


「ブヒッ、ブヒッ」


 レイラとエクスペンダブル号はしばらくの間、無言で見つめ合っていた。


「…………ねぇ、ビンセントさん。少しだけ、少しだけ乗ってもいい? 逃げたりはしないから」


「どうぞ」


 蹄の音が高らかに響く。

 レイラはまるで、自分の身体の一部のようにエクスペンダブル号を乗りこなしていた。

 まさに人馬一体といった感じだ。

 普通と比べても特に厳しく人を選ぶ馬が、これほどまでに言うことを聞くのを見るのは初めてだった。

 敷地内を二週ほどして戻ってくると、レイラはビンセントに手綱を預ける。


「……ありがとう。でも、さすがにシュバルベはもう歳ね」


 シュバルベ。それは、エクスペンダブル号の元の名だ。

 この名前を知っている者は今では限られる。


「やっぱりご存じだったんですね」


「ええ」


 レイラは、遠い初恋の思い出を語って聞かせた。

 かつて憧れた騎士の愛馬。それがシュバルベだった。

 彼女が憧れていた騎士は、やはり潜水艦『サラ・アレクシア』のフット機関長の息子だったらしい。


「そうでしたか……」


「うん。これが、彼の見ていた景色だったのね」


 レイラは少し寂しそうな顔をしていた。

 彼はもう、二度と戻ってくることはない。

 誰もが『大陸戦争』で、大切なものを失っていたのだ。


「私も……前を向かなきゃ。いつまでも、引きずっていられないものね」


「ブヒッ!」


 レイラはエクスペンダブル号の頬を撫でると、しっかりとした足取りで、教会へ向けて歩き出した。


 ◇ ◇ ◇


 朝食を終えて何気なく外に出ると、自動車のエンジンが近づいてくる。

 田舎の静かな朝に、その音はよく響いた。

 黒塗りの高級車が近づき、教会の前で停まる。

 田舎町のフルメントムには、自動車はほとんど無い。関係者だろうか。


「やあ、おはよう。早起きだな」


 運転席のドアが開くと、運転席から出てきたのはネモト艦長だ。


「お、おはようございます。艦長が、なぜここに……?」


「俺はもう、艦長の任を解かれた。海軍も除隊して、今はNot in Education, Employment or Training。つまりNEETだ」


「は?」


 意味が分からなかった。

 何かの専門的な役職だろうか。


「自己都合退官だよ。戦争は終わったからな。あとは、この国の若い者に任せる。俺はしょせん、外国人どころか異世界人だからな」


「…………」


 ネモトは続けた。


「艦のことは全て先任に任せてある。あと十日もすれば『サラ・アレクシア』も応急修理を終えて帰ってくるだろう」


 確かに、ネモトの言う事にも一理あるのだ。

 エイプル王国は、彼にお願いして戦ってもらっただけに過ぎない。

 NEETとやらになったネモトは、この町に何をしに来たのだろうか。


 後部座席のドアから出てきた女には、見覚えがあった。


「――ヤスコさん?」


 ヤスコは、ビンセントに気付くと笑顔で手を振ってきた。


「お久しぶり。元気だった? ……なぜ私たちがここに、って顔してるわね。……『ジョージ王の遺言』。知ってるでしょ?」


「内容をご存じなんですか?」


「……正確にはわからないわ。でも、何となく見当は付くの。譲二の考えそうな事……ね。廃坑には、私たちも同行するわ」


 ◇ ◇ ◇


「相棒、コイツを貸してやる。……持って行け」


 カーターが差し出したのは、ピカピカと光る高そうな腕時計だった。


「時計くらい持ってるぞ」


「ダメだダメだ、兵隊に支給される安物なんて! この高級時計を使え!」


「……まぁ、確かに。すぐ狂うんだよな、これ」


 ビンセントは毎朝時計を合わせるのが日課だった。

 イザベラたちと廃坑に閉じ込められたとき、彼女の高級時計との誤差は一日で三分にも及んだので、ちゃんとした時計はありがたい。


「だろ? これはな、オレが王都の時計屋に特別に作らせた逸品だッ!」


「さすが侯爵様。金あるねぇ」


 領地は無いが、軍では大佐だ。それなりの給料をもらっている事だろう。

 カーターは満足そうに頷く。


「注文したのは一年前だがな! その時のオレはただの平民で、ド貧乏だった……」


「なのに時計なんて注文したのか?」


「欲しかったんだから仕方が無いだろうッ! 昨日、やっと代金を払って受け取ってきたんだッ!」


 無茶苦茶だ。

 しかし、ありがたく借りておくことにする。

 太陽の無い地下世界では、時間の感覚は時計に頼るしか無い。


「…………あのさぁ」


「遠慮はいらんッ!」


「……この文字盤は無いだろ」


「オレが世界で一番尊敬するお方だッ!」


 時計の文字盤には、筋肉モリモリマッチョマンがパンツ一丁でポージングしている写真が組み込まれていた。

 カーターの部屋には、この人物がモデルを務めたポスターが貼られている。

 なお、写真に添えられたあおり文句は『筋肉は、愛。』である。

 こんな物を特注するなど、頭がどうかしているとしか思えなかった。


「いいか、必ず帰ってこい! 時計、返してもらうからな!」


「言われなくてもそうするよ。こんな時計付けて何かあったら、あらぬ誤解を受けちまう」


「誤解? 何のことだ」


 カーターは真顔だった。


「もういいよ、何でも……」


 話がかみ合わないので、やむを得ず時計を腕に巻く。

 当然だが、サイズはブカブカだった。


「私も行くわっ! 何かあったら危ないし!」


 イザベラがワガママを言うのを諫めるのは、やはりマーガレットだった。


「仕方が無いでしょ、定員オーバーですもの。それよりも、みんなをちゃんと出迎えるのも大事ですわ」


「やだーっ!」


 駄々をこねるイザベラに、サラがトコトコと歩み寄り、よしよしと頭を撫でる。


「まー、すぐもどるから心配するなー。帰ったら、ブルースと遊んでいいからさー」


「本当ですか、サラ様ッ! やったーっ! お墨付きが出たーっ!」


「メンコとかー、ベーゴマとかー、たのしいぞー。王都にもムーサにも、駄菓子屋はあるからなー」


「…………」


 釈然としない様子のイザベラに、マーガレットが余計な事を言う。


「おほほほほ、サラ様の言うとおりですわ。オ・ト・ナの遊びは、わたくしに任せておけばよろしくてよ」


「死ねくそビッチ!」


 プロレスを横目に、ネモト、ヤスコ、タニグチ、キャロライン、ビンセントがサラに同行する事になる。


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