第202話 夜明け前の空

 これは、夢だ。


 目の前には、塹壕の湿った土壁。

 砲弾や手榴弾の威力を殺すために、クランク状の曲がり角が多く作られている。

 そのため、見える範囲全てが土壁だ。


 見上げれば、錆び付いた有刺鉄線が走る狭い空。

 気持ちの良いほどに、雲一つ無く晴れ渡っていた。

 現実のリーチェでは、いつも鉛色の雲が立ちこめている。

 こんな優しい日差しは、ほとんど無い。


 だから、これは夢だ。


 そもそもリーチェの塹壕は、もうクレイシク王国の坑道爆破によって完全に吹き飛んでしまった。


「よう、元気か」


 弾薬箱に腰掛け、ビンセントを見て嬉しそうに手を振るこの男も、もうとっくにこの世にはいない。

 膝の上に乗っているのは、いつかのカストリ雑誌。

 イザベラの記事が載っている、あの雑誌。

 

「……まだ生きてるよ。俺はね」


 ビンセントは隣の弾薬箱に腰を下ろす。


「そりゃあ良い。苦しみも悲しみも、痛みも絶望すらも、生きていればこそだからな。俺にはもう、そんなものは無い。安らぎだけだ」


「……そうか。あのさ……」


 ビンセントの胸にモヤモヤとしたものが広がっていく。

 大切な仲間であったはずのこの男の名前を、今でも思い出せない。

 忘れてはいけないはずなのに、あるいは知っていなければならないはずなのに。


「ビンセント。お前、俺の名前を思い出せなくて、ずっと苦しんでいたろう?」


「!!」


 正直に頷くと男は、はにかんだように笑みを浮かべた。


「やっぱりか。仕方が無いやつだな。まぁ、一度しか名乗っていないから仕方が無いけどな」


「……すまん」


 謝るしかできない。

 しかし、男は笑顔でビンセントの肩に手を置く。


「謝るなよ。前を見ろ。答えは、未来にしか無いぜ」


 笑顔。ふいに、その男の名前が浮かんできた。


「カーチス……アンドリュー・ルイス・カーチス・ジュニア」


 男は深く頷いた。


「正解だ。戦友!」


 カーチスの姿は、煙のように消えていく。


「待ってくれ! カーチス!」


 思わず手を伸ばすが、手は空を切るばかり。胸から下は、鉛のように動かない。


「俺の分まで生きてくれ。俺たちのマドンナ、頼んだぜ!」


 入れ替わるようにして、もう一人の兵士が現れる。

 抜けた顔をして、小指で鼻くそをほじっていた。


「お前は休んでろよ。まだこっちに来るのは早いからなぁ」


「カークマン!」


 最後に会った日と同じように、カークマンは鼻毛が出ていた。

 しかし、それ以外はとても優しい笑顔をしている。


「お嬢様は今、不安でいっぱいだ。なんせ、実の弟と戦うことになるんだからな」


「…………そう……だったな」


 カークマンはビンセントの肩を乱暴に引き寄せると、ニヤニヤと笑った。


「それよりお前、お嬢様とチューしたろ?」


「あ、あれは……」


 意識を失っている間に人工呼吸をされたに過ぎない。


「言わんでもわーっとるわ。……力になってやってくれよな。俺にはもう、何もしてやれないが……お前はまだ、生きている」


 カークマンの姿は消え、続いて響くのは、大柄で筋肉質な中年男性の声。


「俺たちの姫様も、まだまだこれからなんだ。頼んだぜ」


「タリス軍曹!」


「死ぬことは許さんぞ。新しい武器の使い方、きちんと確認しておけよ」


「エリック・フィッツジェラルドに……勝てるでしょうか」


「勝てなければ、死ぬだけだ。何千、何万の戦死者の一人に、お前も加わることになる。だが、お姫様はそれを望まん。当然だな。勝て」


「……善処します」


「善処じゃだめだ。勝て。そして生き残れ!」


 タリスだけではない。ハットンが。

 エイリーが。マッキーが。何十人、いや何百、何千もの兵士たちが、現れては消えていく。


 ビンセントは泣いていた。

 男泣きに、泣いていた。


「待ってくれ! 俺も……俺も一緒に……!」

 

 しかし、身体は動かない。


 不意に飛んできた鉄拳が、ビンセントの身体を吹き飛ばす。

 夢ゆえか痛みは無いが、全身が泥まみれだ。


「うう……」


 顔をブーツで踏みつけられる。士官向けの高級品だ。


「立たんか!! このクズ野郎がッ!」


「トラバース隊長……?」


 サラたちと出会う前、リーチェでカーチスと一緒の部隊にいた頃の隊長だった。

 彼も、カーチスと一緒に戦車砲で吹き飛んでいる。

 トラバースはビンセントの髪を掴むと、無理矢理顔を上げさせた。


「何だァ? その顔はッ!! キサマごときに、泣くなんぞ許されると思っているのか!?」


 耳がキーンとする。


「わ、分かっています……」


 しかしトラバースの罵声は止まない。

 

「みんな必死に戦っているのに! 情けない顔をするな! それでもキサマ、誇り高き王国兵士か!!」


「みんな……?」


「見ろッ!」


 トラバースが無理矢理ビンセントの首を横に回すと、カーターが、マーガレットが、イザベラが、必死の形相で駆け回っていた。

 いや、それだけではない。

 老人、若者。怪我人。女性に子供まで。

 大勢の平民たちが、手に武器を、武器の無い者は工具や棒きれを手に立ち上がろうとしていた。


「キサマごときクズ野郎が、我々英霊と肩を並べようなど百年早いッ! せいぜい情けなく生きて、泥をすすり、地べたを這いずり回って戦え!! キサマには、それがお似合いだ!」


 ◇ ◇ ◇


 目を覚ますと、そこは薄暗い飛行機の機内だった。


「おはよ」


「お、おはようございます」


 隣に座るキャロラインに、寝顔を見られていたらしい。


「うなされてたみたいだけど。大丈夫?」


 キャロラインの少し冷たい手が額に当たったかと思うと、自分の額を押しつけてきた。

 目の前数十ミリのところに、キャロラインの心配そうな顔がある。


「だ、大丈夫ですよ!」


「そう? なら、いいけど」


 キャロラインは正面に向き直るが、顔には疲労が色濃く浮かんでいた。

 どうやら眠れなかったらしい。


「少し、休んだ方が」


「うん……」


 この飛行機は円筒形の胴体をしているが、その内側に壁に沿って路面電車のように座席が設置されている。

 座面には無数のパンチ穴が開けられ、少しでも軽量化しようという工夫の跡が見て取れた。

 対面の座席では、ネモト艦長とウィンドミルがいびきを立てている。


 決して広くない、薄暗い機内は止め処なく振動が続く。

 どことなくソワソワしてしまう。

 足元に地面が無い、というのは、初めての経験だった。


 この『サラ・アレクシアⅢ』と名付けられた飛行機は、今や大地をはるか離れ、雲の上に浮いている。


 操縦桿を握るのは、あのジョセフだ。

 搭乗前は一抹の不安を感じたものの、常に発生している振動を除けば滑らかなもの。

 水上の船と違って、乗り物酔いの心配は無さそうだ。


「どうなんだー? 使い方は覚えたのかー?」


「はぁ」


 機体前方からトコトコと歩いてくる、小さな影はサラだ。

 後ろにはジョセフもいる。副操縦士と交代したらしい。


「にしし。わたしはなー、じつは『それ』楽しみなんだよー」


 ビンセントは足元にある『それ』に目を落とすが、暗くて細かい所はよく見えない。

 一抹の不安が胸に広がっていく。

 しかし、ここまで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。

 ビンセントが言いあぐねていると、サラは顔を覗き込んでくる。


「――どうしたー? キンチョウしてるのかー? 誰にでも初めてはあるんだぞー」


「それは……そうですけど」


 ちんこは未使用である。

 しかし、そういう意味ではないだろう。


「まぁまぁ、コイツをやるぜ! ありがたく思え」


 ジョセフがニヤニヤしながら差し出した瓶と栓抜きを、ビンセントは素直に受け取る。

 よく冷えていた。

 オルス帝国でよく飲まれている、カラメルで色を付けたサイダーだ。

『コーラ』というらしい。


「ありがたく頂くよ。喉、渇いてたんだ」


「おい、やめろー」


 サラが止めるのは、ほんの一瞬遅かった。

 瓶の中身が吹き出し、機内に甘い匂いが漂う。全身がベトベトになっていた。


「ギャハハハッ! 高度が上がって気圧が下がれば、こうなる事くらいわかるだろうっ! バァーーーーカ!!」


「こ、この野郎……」


 ビンセントは拳を握りしめるが、ジョセフは急に真顔になった。


「飛行千時間のベテランパイロットが、単座戦闘機で同じことをやった。そいつはその後、敵機の防御砲火を浴びて目に重傷を負ったんだ。運良く生還したものの、パイロットとしては再起不能だ」


「なに?」


「空に上がるとどうしても判断力が落ちる。三割頭ってところだ。試しに小学校の算数ドリルやってみろよ。全然できないぜ」


 身をもって空の心得を教えてくれたらしい。

 おかげで非常によく分かった。

 それにしても、他にやり方がありそうなものだ。


「……いつも以上に気を付けろ、ってか」


「そういう事だ」


「……了解だ、機長」


 窓の外へ目をやる。

 星空と雲の海は、どこまでも果てしなく続いていた。

 東の空はが蒼さを取り戻しつつあり、ほんの僅かな赤みが差していた。

 地上で雨が降ろうが雪が降ろうが、雲の上の世界には関係が無い。


 ……雲の上に、天国は無かった。チキューへ行く道も、もちろん無い。


 不意に伝声管から、見張り員の声が響いた。


「所属不明機発見! 方位、一二〇」


 ジョセフはいかにも意地悪な表情で、ビンセントに向き直る。


「やれやれ、もうすぐエイプルの領空だってのに。こんな所で出てくるとは、ピネプル共和国の空母艦載機ってところかな」


「空母……」


 空母とは、甲板を滑走路にして飛行機を積む、軍艦の一種だという。

 運用に莫大な費用がかかるらしく、保有しているのは同盟国の盟主オルス帝国と、連合国の盟主ピネプル共和国のみらしい。


「ま、予断は禁物。油断大敵だ。ビンセント、機銃で迎撃しろ。機長命令だぞ、機長命令!」


「了解」


 ジョセフはビンセントに命令できるのが、心の底から楽しそうであった。

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