第二章 夜明け前の空

第197話 救国の英雄

 苔むした通路をマーガレットとカーターは進む。

 地下通路を照らすのは、懐中電灯の心細い灯りだけ。

 やけに高い湿気と、外に比べてもまだ低い気温が不安を掻き立てる。

 足音だけが反響し、不意にどちらが上かすら分からなくなりそうだった。

 円形の黄色い光は、やがて壁にぶち当たる。丁字路だ。


「さ~て、どっちに行くかねぇ?」


「とりあえず、左に行ってみようかしら? 雑誌の占いでそうなっていましたの」


「占いか? オレは得意だぞ! うんこ占いといってな、形と色、臭いで健康状態が丸わかりだ!」


「それは占いではなくてよ」


 科学的な根拠があるものを占いとは言わないだろう。

 分岐に小石で目印を置き、左へ進む。

 少し進んだところで、縁をリベットで補強された鉄製の扉に辿り着く。


「ここか! ぬううぅん……」


 カーターが顔を真っ赤にして扉を押すが、びくともしない。

 ドアノブを見ると、タイプライターのテンキーに似たボタンが埋め込まれていた。

 半透明のセルロイドのような――しかし、セルロイドではない――覆いが付いている。

 数字のキーには、中央大陸で使われる数字が張り付けられていた。

 特定の番号を入力するタイプの鍵かもしれない。


「お待ちなさいな、これ、下手に触ったら警報とか……」


「えーと、0721919……」


「ちょっと! 何やってますの!」


 マーガレットはカーターを押しのけようとするが、三倍近い体重を持つ筋肉の塊はビクともしない。

 なぜこの男はこうも思慮が足りないのだろうかと、マーガレットは内心頭を抱えた。


「何しやがる! オレ様のラッキーナンバーだぞ!? 邪魔すんな!」


 そんな事は心底どうでも良い。

 ブブー、という音が鳴り響いたかと思うと、驚くことにドアノブが喋った。


「番号ガ違イマス」


「喋った! 話せばわかるぞ、おい、開けろ!」


 カーターが乱暴にドアを叩くが、以後は何の反応も無い。

 どうやら人間の声ではないらしい。

 機械の声だとしたら、現在のエイプルの科学力では作ることはできないだろう。


「似たようなマジックアイテムを見た事があるけど……そういうのではなさそうですわね。魔力を感じませんもの」


「ジョージ王は魔法を使えなかったろ! そんなモノ使うわけ無ぇ」


「でしょうね。……おそらく、地球で作られたものかしら。分岐を戻って、もう一つの道へ……」


「大丈夫だ。『マスターキー』がある」


「えっ?」


 止める間もなく、カーターは肩に担いだ対魔ライフルをドアノブに押し当て、引き金を引いた。

 頭が割れそうな轟音が通路全体に響き、ドアノブが砕け散る。

 カーターはしてやったりといった具合である。


「開いたぜ」


「このおバカッ!! 見つかったらどうす……」


 ドアを開くと、古めかしいローブを着た総白髪の老人が腰を抜かしていた。


 ◇ ◇ ◇


「まったく……最近の若い者は、乱暴でいかん。のう、ウィンターソン君」


「おほほ、このバカには後できつく言っておきますわ、バレル学長。……動かないで!」


 マーガレットの銃口は、老人――王立学院のバレル学長に向けられている。

 彼こそが、エイプル王国最高の魔法学者であった。

 学長は癖なのか、胸まで伸びた顎髭を撫で付ける。


「ふぉふぉふぉ、抵抗はせんよ。通報もな。ワシはお前さんがたの敵ではない」


「どうかしら」


「信じたまえよ。老いたとはいえ、ワシがその気になれば、お前さんがた如きに遅れは取らん。そうじゃろう?」


「…………」


 確かにそうかもしれない。

 魔法学の専門家中の専門家、サム・バレル。

 わずかでも魔法に関する学問を修めた者であれば、国内外においてその名を知らぬ者は居ないだろう。

 千に及ぶ魔法論文を著したと言われており、現代のあらゆる魔法使いは彼の理論に影響を受けていると言っても過言ではない。


 彼の功績は魔法学だけではない。

 三十年前のクレイシク王国との戦争で、挙げた武勲は数知れず。

 半ば伝説と化した『救国の七英雄』の一人である。

 この呼び名を当事者たちは好まず、メンバーも諸説あるが、バレルの名は多くの場合外れることは無い。


「さて、お茶でも淹れるとしよう。少し休んでいくと良い。付いておいで」


 マーガレットは少し迷ったが、小銃を学長に突き付けたまま後に続いた。

 カーターは興味深げに周囲を見渡すと、感嘆の声を漏らす。


「すげぇ本の量だな! 王立図書館、ってヤツか! 全世界を変えた科学文明の根源、ジョージ王の真の遺産! すげぇ!」


 さすがのカーターも驚いたようだ。

 そこに広がるのは本棚の森だった。

 どの棚も、天井までぎっしりと本やファイルが押し込められている。

 広さは見当もつかない。

 野球場よりも広い事は確かだ。おそらく、地上に露出している王城よりも広いだろう。

 しかも、この階だけではない。


 寒くも暑くもなく、空気が乾燥している。

 蔵書を保護するため、エイプル王国唯一の『エアコン』が常に室内を適温に保っているのだ。


「ここに入るのは、わたくしも初めてですわ」


 本棚から適当な本を取り出してみる。

 世界中のどこでも使われていない、未知の象形文字で記述されていた。

 学長が覗き込む。


「地球で書かれた技術書じゃ。魔法の無い地球では、科学がこの世界よりも一世紀は進んでおる。それは『コンピューター』と呼ばれる計算機の本じゃな。何度か見た事があるが、ほとんど魔法としか思えんかったわい。『プログラム』という命令で動くのじゃが、呪文の詠唱と共通点が多いぞい」


 この文字には見覚えがある。

 スティーブの婚約者、ヤスコの家にあった本に、似た文字が使われていた。

 あれもおそらく地球の文字だ。

 ケラー首相の話では、エイプルだけで少なくとも三百人との事だが、外国も含めれば見当もつかない。

 全世界では数千、あるいは数万の地球人が居ても、おかしくはなかった。


「……こんなにたくさん……一体、どれほどの地球人がこっちの世界に来ていますの?」


「さあ、見当もつかんのう。しかし、ある時期を境に地球人の転移は止んだようじゃ。少なくともエイプルではな」


 マーガレットはピン、ときた。ケラー首相の話を思い出す。


「転移・召喚魔法に使う、魔石の枯渇……?」


「さよう。立身出世、人生の一発逆転を狙ってこの世界を訪れた地球人は、帰る国の無い流浪の民と化したのじゃ。彼らの苦悩は計り知れんのう」


 タニグチと最後に交わした言葉を思い出す。

 彼は確かに帰りたがっていた。国を失うということが、どういった意味を持つのか。

 それを完全に理解するのは、当事者以外には難しいだろう。


 カーターが何かを見つけたようで、棚から本を一冊取り出す。


「国内の本もいっぱいあるぜ。これを見ろ、お前さんでも読めるぞ!」


「これは……?」


 学術論文らしい。

 タイトルは『プロテイン精製の効率化と高純度化に関する考察、およびボディビルへの臨床応用』とある。

 著者名を見ると、カーター・ボールドウィン。


「…………」


 マーガレットは棚にそっと戻す。


「おい! 何か言え!」


「はいはい、ご立派ですわ。とっとと行きますわよ」


「いいから読め! これでトレーニングの効率は何倍にも……!」


「また今度」


 心底どうでも良かったが、学長は歯の抜けた口で笑い出した。


「ふぉふぉふぉ、化学と錬金術は非常に近しい関係にあるのじゃ。読んで損は無いぞい」


「ジイさん、わかるのか!」


 カーターは興奮した様子で学長に詰め寄る。


「ワシは読んでおらんがの?」


「そうか……」


 学長の言葉は彼の期待に沿えなかったようだ。

 あからさまな落胆である。端的に言って忙しい男であった。

 学長は顎髭を撫で付ける。


「魔法も科学も、真理に至らんとする根は同じじゃ。しかし、魔法には限界がある」


「どういう意味ですの?」


「……機関銃、自動車、潜水艦に飛行機。ラジオにエアコン、そしてコンピューター。どれも魔法みたいなもんじゃが、魔法では実現できなかったものばかりじゃ。地球の魔法が廃れたのも頷けるわい。魔法は……」


 学長は言葉を切った。

 一瞬落胆に近い表情を見せたが、すぐに元の穏やかな表情に戻る。


「――魔法は個人の素質に依存するからのう。つまり、代わりが利かぬ。それが、魔法の限界じゃ」


 それは、学問としての魔法の敗北を意味ずる言葉だった。

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