第186話 オルスの兄妹
ネモト艦長とウィンドミルが、そんな二人を笑顔で遠巻きに見守っている。
「ご心配おかけしました」
「艦から報告を受けた時は驚いたぞ。よく生きていたな」
「サラ様のお喜びようと言ったら、なかったですよ」
彼らはソファに掛けていたが、重厚な大理石のソファテーブルの上には酒とツマミ、タバコと灰皿、漫画雑誌とカストリ雑誌、およびトランプやチェスが散乱していた。
サラが使っていたであろう別のテーブルには、大量のお菓子とジュース、少女雑誌。
革張りの椅子にはクッションに使っていたのか、大きな猫のヌイグルミ。
部屋の片隅には、場違いな木箱が置かれている。
暖炉の前に目をやると、広がっているのはスゴロクの盤。傍らには皿が置かれ、鉄の串に突き刺さった大きなマシュマロが甘い匂いを放っていた。
棚に置かれたラジオから流れるのは、軽快なジャズ。
「…………」
ずいぶんとお楽しみだったらしい。
色々言いたいことは無いではないが、それよりも、大事な事がある。
「じつは……」
ビンセントが口を開きかけたところで、ノックの音が響いた。
事務方の女性職員が顔を出す。
「サラ殿下。ケラー首相からお電話です」
「えー? せっかくブルースが帰ってきたのになー」
サラはビンセントの脚にしがみ付いた。
職員は少し困ったような表情で続ける。
「その、急ぎの用だそうで……あ、そうだ、美味しいクッキーをご近所さんに戴いたんです。事務所にございますよ。電話の後でいかがですか?」
「仕方ないなー、今行くよー」
サラは唇を尖らせつつも、職員に付いてトコトコと出ていく。
ビンセントは続けた。
サラが居ないのであれば、むしろ好都合だ。巻き込んで万が一の事があれば、全てが無駄になってしまう。
「サザーランドの居所がわかりました」
その一言で緩んだ雰囲気はピタリと消え、張り詰めた空気に一瞬で変わった。
艦長が、ウィンドミルが息を呑む。
「――帝都のバー『バルサベ』に、今夜零時。暴走族のボスがエミー・マキオンから聞いた、との事です」
「おい、そんないきなり!」
艦長は目を見開くと声を荒げたが、少しずつトーンダウンしていく。
やがて腕組みし、眉間に皺を寄せる。
「――いや、的確な判断だ。よく教えてくれた。……ぜひ確保したいところだが……今からでは、『サラ・アレクシア』で陸戦隊を編成しても、間に合わんな」
帝都のエリア・マンゴの一角に、そのバーはある。
時計に目をやると、午後十時を少し回った所だった。
乗組員は全てポート・オルスに居る。
現実的には難しいだろう。時間があまりにも足りなかった。
「それ以前に、オルスで軍を動かすためには政府と軍の了承が必要です。正規の手続きを経ていては、間に合いません」
ウィンドミルにもどうにもならないという。
「オルス帝国の協力は得られませんか? 警察とか、軍隊とか」
ウィンドミルは力なくかぶりを振る。
「サザーランドは、オルス帝国においてはなんら罪を犯してはいないのです。困難かと。それに何より……これは、エイプルの国内問題です。帝国の力を借りてしまえば、見返りに何を要求されるか分かりません。最悪の場合、帝国への併合を要求してくるかも……」
さすがに、それは受け入れられない。
「せめて、自動車でもあれば俺が……」
「……ありません。ここで使っていた車は公用車ではなく、大使の私物だったのです。オルス帝国の参戦に伴い、処分されました。タクシーもダメです。ガソリン不足で午後十時以降の営業は禁止されていますので」
八方塞がりと言えた。
「…………?」
何やらガヤガヤと、外が騒がしい。
「んもう、お兄ちゃんのバカ!」
「仕方がねぇだろ! アイツ気に喰わねぇんだ! 人の妹をイヤラシイ目で見られたら、普通ぶっ飛ばすだろ!」
「お前はもうちょっと我慢というものを覚えろ、バカタレ!」
「痛ってーな! 何すんだ、バカ親父!」
すぐにドアが開いた。トムソン一家が戻ってきたのだ。
例によってジョセフが何やら揉め事を起こしたらしい。
高級店での食事は叶わなかったようだ。
ビンセントとウィンドミルは顔を見合わせると、同時に声を上げた。
「車!!」
シャーロットが首を傾げた。
「どうしたの? ブルースさん」
「じつは……」
事情を説明し、自動車を出せないかと交渉する。
トムソンは難しい顔で腕組みをした。
「うーん、困ったな。報奨金の上積みは魅力だけど……なぁ」
「お父さん、もうお酒飲んじゃったし……オルス帝国ではね、飲酒運転は終身刑なの。無免許運転は無期懲役よ」
「ええっ!?」
思わず声を上げてしまう。
飲酒運転で終身刑とは、あまりにも厳罰が過ぎる。
なんでも、過去に悲惨な交通事故が多発したことから段階的に厳罰化が進み、ついには行きつく所まで行ってしまったのだという。
なお、エイプルでは飲酒運転は日常茶飯事と言ってもよい。
タクシーやトラックの運転手も、酒を飲みながら運転するのが半ば常識である。
度胸を付けるためだという。
罰金も軽く、銀貨一枚程度だ。取り締まるべき衛兵も酒を飲みながら取り締まっている。
なお、ネモト艦長にははエイプル王国の免許があるが、オルス帝国で運転するには国際運転免許証への書き換えが必要であり、手続きに一週間掛かるらしい。
当然、その間は無免許扱いだ。
艦長が小声で話しかける。
「賄賂の相場って、どのくらいだね?」
「ダメよ!」
シャーロットはとんでもない、といった様子だ。
エイプルでは、殺人などを除いて殆どの違法行為が金で揉み消せる。衛兵たちの貴重な収入源であり、司令部も黙認しているのが現状だ。
もちろん、金の無い者は容赦なく逮捕される。
労働者階級の平民には、事実上不可能と言っても良い。
「――警察官への贈賄は、禁固五年なの!!」
「そんなにか!?」
驚く艦長を見て、シャーロットは呆れたように溜息をつく。
やがて顔はどんどん青ざめ、小刻みに震えだし、俯いて自分の両肩を抱きしめた。
まるで産まれたての小鹿のような震えっぷりである。
「わわわ私がその……う、運転するしか……!」
「ちょい待てや!」
ジョセフはツルツルの頭に、何本もの青筋を立ててテーブルを叩いた。
人間の頭にはこのように血管が走っているのか、と勉強になる。
「――お前らなぁ、なに妹を危険に巻き込もうとしてやがるんだ! お前らエイプル人が情けねぇから、こんな事になってるんだろうがッ!!」
「そりゃ、そうなんだが……」
ジョセフはものすごい剣幕である。
しかし、彼の言っていることは全て正しい。反論のしようがなかった。
確かに、シャーロットに頼むのは気が引ける。
あれだけ怖い思いをさせてしまったのだ。
何か他の手を考えるしかないだろう。そう思った時だ。
ジョセフは片足をドン、と勢いよく椅子に立てると、ビンセントに立てた中指を突き出した。
「……俺が行ってやらあ! シャーロット、ちょっと優しくされたからってポッ、とかキュンッ、とかあり得ねーぞ! もっと男を見る目を磨け! 特に! このビンセントは最悪だぞ!! コイツだけは、この俺が絶対に許さん!」
「そ、そういうのじゃないから! その、私はただ……」
シャーロットは手を振りながらも少し顔を赤らめた。
しかし、ジョセフの言う事もわかる。
なんだかんだ言って、シャーロットのお兄ちゃんで居たいのだ。
ビンセントは妹のレベッカを思い出した。元気にしているだろうか。
「ただ、なんだ!? チビった時にハンカチ借りたくらいで何言ってやがる!」
「んもおーーーーっ!! お兄ちゃんのバカーッ!!」
真っ赤な顔で頭を抱えるシャーロットを残し、一行は出発する。
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