第五章 オルス帝国
第174話 怒りの脱出
コツコツと響く足音に、カーターは目を開いた。
地下室には窓が無く、また時計も持っていないので現在の時刻はわからない。
「……よう。アンタもオレ様の筋肉を指でつつきたくなったのか? 悪いが、この牢屋はあらゆる魔法を阻害するんだ。こじ開けるのは無理だぜ」
「…………」
女は、無言で鍵を鉄格子の鍵穴に差し込み、扉を開いた。
「ふん、メシの差し入れといったところか。ちゃんとトレーニングの効率を考えているんだろうな?」
「どちらも違うわ」
うっとおしそうに、腰までの長い髪を払う女はドリス・ノーサム。
カスタネの夜会に参加していた他にも、汽車に乗ろうとするマイラを見送りに来た時にカーターとは会っている。
そして、エリックの情婦にしてマイオリス大幹部の一人。
正統政府が多額の賞金を懸けている謀反者、というのが世間の扱いだ。
「だったら何だ」
「お願いがあるの」
「いいだろう。だが、まずは規則正しい生活と適度な睡眠、そしてバランスの取れた食生活だ。トレーニング云々はそれからだな。器具は色々あるが、いきなり過大な負荷はかけずに……」
「助けて」
「……なんだ、弟子入りに来たんじゃないのか」
カーターはボロくて異臭のする毛布をかぶると、横になった。
身体を鍛えるのは健康にも美容にも良いというのに、残念な女である。
「ジェフリーを止めてほしいの。そのためにはエリックを何とかしなきゃ……」
「…………こんな事態を招いたのはアンタらの責任だ。バカめ」
今さらである。
「知っているの?」
「ジェフリーがタニグチとかいうヤツに、すげぇ爆弾作らせてるんだろ? ヤバさに、ようやっと気づいたようだな……」
ドリスは目を伏せた。
「そうよ……」
「エリックにでも頼んだらどうだ? オレよりも、よっぽど強いぜ」
「……そんな事をしたら、ジェフリーが殺されちゃう」
「あのな。オレはジェフリーに会ったことすらねぇんだよ。会ったこともねぇヤツがどうなろうと、知ったこっちゃねぇ。本人に言え、本人に」
カーターが知っているジェフリーとは、あくまでも『キャロラインと同じ顔の双子の弟らしい』という、それだけでしかない。
「言ったわ。でも、ダメだった。タニグチはジェフリーが死んだら、無条件に最終兵器を起動する手筈よ」
「知るかバカ」
本音を言えば断固として阻止したいが、カーターはこのドリスを信用していない。
何かの理由があって裏でコソコソしているのはわかるが、その理由が見えてこないのだ。
無条件に信用できる相手ではない。
「時間がないの。エミリーは、今ハンストをやっているわ」
―― ハンスト。ハンストとは何だろうか。
一瞬迷ったが、カーターはすぐに思い出した。
「ウソだな。あいつに銀行強盗なんてできるはずがねェ」
「は? 銀行強盗?」
「強盗が被ってるだろ。ハンスト」
ドリスは、なぜか酷く落胆した様子である。
◇ ◇ ◇
ドリスの説明によると、ハンストとはハンガー・ストライキのことで、断食によって抗議、抵抗の意思を示すものだという。
「それを早く言え! メシを食わなければ、人間は遠からず死ぬんだ! 知らなかったんじゃないだろうな!? ああ?」
「あなたが悪いの! 普通、有り得ないでしょ、そんな誤解!」
人をコケにするにもほどがあった。
なお、パンストは頭に被るものではなく、女性用の衣類であることをカーターはこの時初めて知った。
地球からもたらされた新繊維の賜物だったらしい。
「……水分は摂っているのか」
「……ええ。あとは、あなたが製薬会社に騙されて、小銭で製法を売り渡した栄養剤入りのプロテインを少し」
「なんだと……?」
確かにカーターは、かつて小遣い稼ぎに製薬会社にレシピを売ったことがある。
金貨をくれるというので喜んで売ったが、やはり騙されていたらしい。
侯爵の身分を取り戻した今、彼らの顔を見るのが楽しみである。
エミリーについては心配だが、あのプロテインを使っているのであれば、今すぐどうこうという事はない。
タンパク質だけでなく、人体に必要な栄養をバランス良く配合しているのだ。
あの会社が製法を守っていれば、の話だが。
しかし、あくまでも栄養補助食品であり、きちんとした食事を摂ってこそ意味がある。
急ぐのに越したことはない。
「――まあ、いい。ようは、エリックをぶっ飛ばしてジェフリーを縛り上げれば良いんだろ?」
「ええ。お願い」
カーターはのっそりと立ち上がる。
罠があるのであれば、罠を踏み抜いて引きちぎればよい。
落とし穴があれば、這い上がればよい。
「……金を貸せ。武器とワセリンを買う」
魔法でエリックに勝つことはできない。やはり、武器が必要だった。
ドリスは首をかしげる。
「え? ワセリン?」
「戦いには必要だ」
全身に塗ることで、筋肉の見栄えを良くする効果があるのだ。
エリックは強い。
カーターの鍛え上げた筋肉、その美しさを囮とし、隙を狙うという天才的な作戦であった。
隙の無い相手と戦うのは至難の業だが、隙が無いのであれば作ればよい。
しかし、万が一を考え、ドリスに話すのはやめておく。
「あなたには、あなたなりの考えがあるのね。いいわ、これで足りる?」
しばらく何ごとかと考えていたらしいドリスが差し出したのは、金貨が十枚。
「ま、何とかなるだろ」
ムーサに行けば、業者の心当たりがある。
あまり表沙汰にはできないが、金さえ払えば手に入らない物は無いという。
ビンセントが違法なポルノ本を仕入れていた実績があるが、カーター自身は行ったことは無かった。
「アンタは、どうする?」
向かいの牢屋に声を掛けた。
ロイは僅かな笑みを浮かべつつも、かぶりを振る。
「ここはな、私にとっては世界一安全な隠れ家なのだよ。エイプル王国、オルス帝国、連合国……だてに全世界から命を狙われてはいないさ。さて――」
ロイは姿勢を正した。
「クーデターの際、王城を襲撃した部隊の指揮官は、レイモンド大佐という男だ。やつとサザーランド、それにフィッツジェラルドを倒せば、内戦は終わることだろう。ボールドウィン侯爵、君になら不可能ではあるまい。そしてこの情報をもたらした私に、君はいつか感謝することだろう」
「オレに恩を売って、恩赦を狙っている訳か」
「ふふふ……その通り。サラ王女が帰国した暁には、私に待つのは自由の世界だ」
尊大な態度がじつに腹が立つのは間違いない。
「浅はかだなぁ? 一生入ってろや。オレぁ知らん」
「……い、いつまで軽口を叩いていられるか、その、見ものだな」
ロイはハンカチで額を拭くと、そのまま何も言わなかった。
そもそも、こんな裏切者を抱えていては、いつ背中から撃たれるかわかったものではない。
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