第170話 圧壊深度
床が傾き、滑り落ちそうになるのを手すりにつかまって堪える。
艦内の気圧の変化のためか、耳が痛い。
計器がたくさんあるので目が回るが、どうやら水深計だけはわかる。
針に合わせて先任が数字を読み上げた。
「
思わず唾を呑んだ。
すると、耳の不快感が消える。
「
「微速前進、針路そのまま」
「ヨーソロ」
全員が息を呑む。
「機関停止。やり過ごせ」
やがて、ピコーン、という音が響いた。
駆逐艦のアクティブ・ソナーだ。
何度も繰り返し響き、やがてその間隔も狭まっていく。
比例するかのように、ビンセントの心臓の鼓動も早まっていった。
「敵艦、爆雷投下!」
ソナー係が青い顔で叫ぶ。
ビンセントの喉はカラカラに乾いていたが、艦長はまだ不敵な笑みを隠してはいない。
「着弾と同時にベント開け。前下げ、後ろ上げ。さらに潜るぞ」
やがて轟音とともに艦全体が大きく揺れ、同時に『サラ・アレクシア』は更なる潜航を開始した。
水深計の針はどんどんと進み、やがて七〇を指す。
「安全深度、越えます!」
先任の声は震えていた。しかし艦長は動じない。
「まだ潜れ」
再び爆発。艦が大きく揺れる。
「!!」
天井から、壁から、床からも油の切れた重たい鉄扉を押すような音がする。
水圧という巨大なモンスターの雄たけびだ。
現在の深度は八十メートル。
八十五メートル、九十メートルと針が進むにしたがって、軋みは大きくなっていく。
「…………」
それは、とても小さな音だった。
無数の配管で構成され、ポンプやモーターがひしめく『サラ・アレクシア』の艦内において、一度も聞いたことのない音だ。
自分の歯の根が恐怖のあまり震えているのかと思ったが、そうではない。
近くの配管から、確かに聞こえる。
「うおっ!?」
配管のボルトが吹き飛び、鋼鉄の壁に穴を開けた。
まるで銃弾のような威力だ。当たればひとたまりもないだろう。
滝のように、止め処なく海水があふれ出してくる。
ビンセントは布を押し当てるが、まったく止まる気配が無い。
「上のバルブを閉めろ!」
「は、はいっ!」
艦長の指示で、震える手でバルブを閉めていく。どうやら水は止まったようだ。
全身が震えている。
水は氷のように冷たかったが、理由はそれだけではない。
もしも沈没すれば、この冷たい海水の中に放り出されるのだ。
水温はともかく、水圧で一瞬で全身が押し潰されてしまうだろう。
鋼鉄でできたこの艦すらも歪め、きしませる圧力だ。
艦長が不意に叫ぶ。
「魚雷発射管、注水! 発射準備!」
「しかし艦長!」
「いいからやれっ! 爆雷の着弾と同時に発射だ!」
「了解っ!」
不意に今までとは違う、まるで大地震のような大きな衝撃が襲ってくる。
キャロラインがサラを抱きしめて、衝撃から守ってくれていた。
先任が叫ぶ。
「着底! 着底! 深度百!」
水深計の針は、すでに目盛りを振り切っていた。
メーターのガラスにはヒビが入り、正確な数字かどうかはわからない。
「このままやり過ごす。損害を報告せよ」
息をつく間もなくスピーカーが鳴る。ベン・ターナーの声だ。
「電気室、浸水! 手が足りません、応援を!」
「ビンセント!」
「はっ!」
艦長の指示で艦体後部の電気室へ走る。
配電盤がやられれば、艦内のあらゆる電気が使えなくなってしまう。
そうなれば、浮上も不可能だ。
光の差さない、冷たい海の底で永遠に過ごすことになる。
「兵員室、浸水!」
「第三艦橋、大破!!」
「前部電池室、浸水!! 誰か手を貸せーっ!!」
蜂の巣をつついたような喧噪の中、機関室を超えて後部の電気室へ走る。
「ビンセント! もう一本持って来てくれ!」
浸水個所に突き立てた丸太にベンがしがみついている。
彼の視線の先に、もう一本丸太があった。
何に使うのか疑問に思っていたが、こういう時のために使うらしい。
「ここか!」
「そうだ、持ってろ!」
天井から滝のように湧き出る水を、布を丸太を押し付けて漏れ止めを試みる。
なかなか止まらないが、ベンが無数のバルブの中から一つを閉めると、どうやら浸水は止まったらしい。
「敵艦、爆雷投下! 総員、衝撃に備えよ!」
スピーカーからの声に青くなるが、丸太から手を放す訳にはいかない。
やがて、立っていられないほどの衝撃が襲って来た。
「こりゃ、ヤバいかもな……」
ベンの顔は真っ青だ。
ここは日頃の仕返しをする所だろう。
「やれやれ、すぐに諦めやがる。これだから海のやつは」
ビンセントの皮肉にベンは一瞬目を丸くすると、ニヤリと笑い返してきた。
「お前は現状を把握できてねぇんだよ、これだから陸のやつは!」
「お互い様さ。未来なんて、誰にもわからない」
やがて、先ほどよりは小さめの爆発音が響いた。
「……魚雷を発射して、圧壊を装うつもりだ。うまく騙されてくれるといいけどな!」
「そうなのか?」
「水は空気よりもよく音を伝えるからな。敵も味方も、音を聞いて全てを判断するしかない。騙しあいさ!」
大きな漏れは止まったが、今でもチョロチョロと水が流れ続けている。
足首ほどの水深が、気が付けば膝下まで来ていた。
氷のように冷たく、爪先の感覚はもう無い。
機関室から機関長が顔を出した。
「よし、バケツ持ってこい! 配電盤とバッテリーだけは何があっても守るぞ!」
◇ ◇ ◇
ありったけの人手を動員し、バケツリレーで水を汲みだす。
その中には、サラとキャロラインまでもが含まれていた。
必死の努力の甲斐もあってか、小一時間もすれば排水作業は目途がついた。
しかし、浸水が完全に止まることはない。
ほんの少しずつではあるが、水かさは増え続けている。
とはいえ、今すぐどうこうという事はないだろう。
ホッと胸を撫でおろした様子の機関員に、ビンセントは見覚えがあった。
「あの……ウィンドミルさん……?」
「な、何ですかな! わ、私はジョン・スミスといって……」
「なぜここに?」
ウィンドミルは周囲を見渡すと、ビンセントに耳打ちする。
「私が監察官であることがばれると、問題があるのです。なぜなら……艦長は、地球人ですので」
「…………」
「地球人の持つ知識と技術は、各国が争奪戦を繰り広げており……」
「知ってます」
「えっ」
「聞きましたよ、本人から。艦内の人は、皆知っているようですが」
ウィンドミルは、拍子抜けしたような顔でズルズルと座り込んだ。
そのまま頭を抱え込む。
「わ……私はいったい、何のために……身分を隠し、影から見守り続けていたのに……」
「まぁ、お疲れ様です。ラムネ飲みます?」
ラムネは炭酸飲料の一種ではあるが、溶け込んだ炭酸ガスの圧力でビー玉を押し上げ、栓をしている。
大きな軍艦では、火災消火用の設備を利用して艦内で作ることが出来るというが、『サラ・アレクシア』には無い。
なお、瓶があればクエン酸と重曹で作ることも出来るという。
ビンセントも隣に腰を降ろし、一息ついた。
ウィンドミルは呟くように続けた。
「……最悪の場合は、艦長とロッドフォード様も交渉材料に使う予定になっています」
「二人は、その事を?」
「承知の上です。申し訳ないとは思いますが……」
「罪を犯した我々地球人には、当然の報いだ。これは、罰だよ」
顔を上げると、艦長本人が立っていた。
後ろには、サラとキャロラインも立っている。
艦長は壁によしかかると、パイプに火を付けた。
普通のライターかと思ったが、ガラスとは違う透明な物質で作られており、ボタンを押すだけで火打石も無いのに火が付いた。
「これか? 百円ライターだよ。円は地球の、私の生まれた国の通貨だ。こっちで言えば、おおよそ銅貨一枚分といったところかな。外装はプラスチックだが、いずれこちらでも一般化するだろう」
「へぇ……」
香ばしい香りがあたりに漂った。
ライターは高級品で、エイプルで買えば銀貨の二十枚や三十枚では済まないだろう。
それをそんな値段で作れるとは、地球とは恐ろしい所だ。
「ま、当分動けん。暇つぶしに、年寄りの昔話でも聞いてくれ」
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