第四章 エイプルの海、エイプルの大地

第165話 汚れっちまった悲しみに

 この光景はまるで、かつて世界を滅ぼしたという大洪水を彷彿させる。


 波。波。波。


 風。風。風。


 雨。雨。雨。


 大嵐だ。

 大自然の絶対的な暴力は、人の作り出した物など一瞬で海の藻屑に変えてしまう。


 時折見える何かの破片が流される様を見れば、波の動きがどれほどデタラメかがよくわかるだろう。

 しかし、そこに文明の力が生み出した産物は一切存在しない。

 いや、それどころかあらゆる生命体すらも存在できないだろう。

 魚すらも溺れる、荒れに荒れた海である。


 そんな中、小山のような波の谷間から泡が浮かび上がり、海面がせり上がった。

 姿を現したのは、暗いグレーの艦体にアンテナ線を張り巡らせた潜水艦。

『サラ・アレクシア』である。


 マストのハッチが開くと、狂気のごとき笑みを浮かべた艦長が顔を出した。


「見ろッ! 俺の言ったとおりだ! 両舷全速、サルモ海峡を一気に駆け抜けろッ!」


 防水のコートは一秒と持たずにずぶ濡れとなっているが、そんな事は全く気にならない。

 伝声管を伝って指示を受け取った乗組員たちが駆け回る。


「エンジンが焼き付いても構わんッ!! 舵中央、最大戦速っ!」


 荒波は甲板どころか、艦首にそびえ立つ防潜網カッターすらも見えなくさせている。

 艦底は荒れ狂う海面を乱暴に何度も何度も何度も叩く。

 浮上時排水量六百五十トンの鋼鉄の棺は、海と言うバーテンダーが握るシェイカーに他ならない。


 全力でうなりを上げるエンジンの音も、ここまでは届かなかった。


 ◆ ◆ ◆


『サラ・アレクシア』は定員に充ちておらず、乗組員は補充されたばかりの寄せ集めに近い。

 彼らは各所でバケツに顔を突っ込んでいた。

 彼らとて海軍の軍人だが、陸上勤務者や、入ったばかりの新兵が多かったのだ。


 正規のの乗組員たちは、さすがにそんな事はない。

 しかし、そんな彼らの姿を見て新兵時代の自分自身を思い起こしていたようだ。


 船乗りでも何でもない陸の男、ブルース・ビンセント陸軍一等兵には特に堪えた。

 手すりを握りしめる手に、思わず力が入る。


「だいじょうぶかー? 魔法で治してやろうかー?」


「…………」


 サラが背中を撫でてくれるが、ビンセントは無言でかぶりを振る。

 正直を言えば、今すぐにでも魔法を使ってもらいたい気持ちでいっぱいだ。

 たとえ治してもらったとしても、波は当分治まりそうにない。

 やがてまた同じ事になる上に、万が一のために回復魔法は残しておくべきだからだ。


「ま、無理すんなよー。またなー」


「…………」


 ビンセントは色々な感情のこもった視線で、サラの背中を見送る。

 なぜ、彼女はこの揺れで平気な顔をしているのだろうか。

 父親の形見、自分の名前を付けられた艦とはいえだ。

 まるでこの揺れを楽しんでいるようですらある。


「ま、いずれ慣れるさ」


「…………」


 三段ベッドの縁に手をかけながら話しかけてきたのは、ベン・ターナーだ。

 潜水艦の乗組員は、凪の時でも常に何かにつかまっている。

 習慣らしかった。


「どうよ、お前も海軍に入らないか?」


「…………!!」


 ビンセントは渾身の力で首を左右に振って拒絶の意思を示すが、その揺れがさらに不快な気分を倍加させた。


「うえぇぇええぇええぇ…………」


 ビンセントはついに、バケツの中に本当の気持ちをぶちまける。

 その濃厚な香りと、誰にも見せられない形状から目を逸らす。


「ハハハ、これだから陸のやつは。でも、吐いたら楽になっただろ?」


「…………」


 確かに、ベンの言う通り多少はマシになったと言える。

 つかまりながらどうにか立ち上がり、バケツを持って便所へ。

 これをひっくり返せば、ただでさえ地獄の艦内がさらに過酷な環境になってしまう。


「あ、危ねっ」


 ひときわ大きな揺れが襲って来た。

 手すりにつかまって、どうにか姿勢を維持。

 バケツの中身は無事であった。

 中身を便器にぶちまけると、揺れのタイミングを見計らって流す。


「……ふぅ」


 世界は、かりそめの平和を取り戻した。

 狭い便所の壁に身をゆだね、バケツを軽くすすいでおく。

 こういった作業のために、海水はいくらでも使えるのだ。


「…………」


 胃が空になれば、多少は余裕ができる。

 いずれにせよ逃げ場はないのだ。

 ベッドで横になるべく、トイレのドアを開いた。


「あれ、キャロラ……いえ、ジェフリーさん。どうしたんです……」


「…………」


 キャロラインは真っ青な顔で、目には涙が今にもこぼれそうだった。

 聞くまでもない。

 場所を替わるべくビンセントは外に出ようとするが、その時不意に大きな揺れが襲ってきた。


「おっと!」


「きゃっ……!!」


 他につかまる所が目につかなかったのか、キャロラインはビンセントに抱き着いた。

 揺れはまだ収まらない。


「す、すぐに出ますから」


 キャロラインはビンセントを潤んだ瞳で見つめてきた。

 その華奢な手は、ビンセントのシャツの胸元をきつく握る。

 やがて、その目尻から一筋の雫が流れた。


「あっ、ああぁ……ヤダっ、だ、ダメっ……も、もう……出ちゃうよぉ……あっ……あっ……あぁっ――」


 ◇ ◇ ◇


「――ごめん」


 キャロラインは目を伏せた。


「いえ……気にしないでください」


「……ごめん……ごめん……」


「…………」


 ビンセントの胸で、キャロラインはさめざめと泣きだした。

 泣きたいのはビンセントとて同じである。


「ぐすっ……こんなつもりじゃ……なかったんだ。僕は君に、取り返しのつかない事を……」


 確かにシャツはキャロラインの言う通りだが、幸いにしてズボンは無事だ。

 シャツの一つや二つ、艦内にも予備品があるだろう。

 サラに頼めば融通してもらえるはずだ。

 そんなことより、早く着替えたいとしか思わなかった。


「その、忘れましょう、今日の事は」


「忘れる?」


「その、俺たち、……何もなかったんです! その方がお互いに……」


 キャロラインはかぶりを振ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔のままビンセントを見上げた。


「どうしても我慢できなかったんだ。すぐにでも出したくて……僕は……君を汚してしまったね……」


「もう……いいですから、ね?」


 後悔が無いではない。

 もしもあと三分、いや一分タイミングがずれていれば、こんな悲劇は起こらなかったはずだ。


 ◆ ◆ ◆


「…………!?」


 トイレのドアの前で、ベン・ターナーは冷や汗を流していた。

 思わずその場にいた機関長と目を見合わせる。


「あの、機関長……」


「あ、後でな。すぐに戻ると言っちまったし」


 機関長は足早に引き返していく。

 その際残した言葉が、どことなく引っかかった。


「かわいそうになぁ……せめて、どちらかが女の子だったらなぁ……」


 機関長はそう言ったが、そういう問題ではない気もする。

 やはり、ビンセントはロッドフォードに無理矢理手籠めにされていたのだ。

 狭い艦内では自重してほしかったのだが、どうしても我慢できなかったらしい。


「…………」


 とはいえ、ここで顔を合わせてる訳には行かなかった。

 どんな言葉を掛けていいかわからない。

 ベンは足早に寝室へ向かい、自分のベッドに潜り込む。


 やがて、スピーカーが鳴った。


「艦長のネモトだ。本艦は、無事サルモ海峡を通過。潜航し、ポート・オルスに針路を取る。各員、損害があれば報告せよ」


 どうやら難所を抜けたらしい。

 潜航すれば、揺れも多少は和らぐのだ。その代わりスピードは落ちる。


「…………」


 通路に足音が響く。ビンセントは新しいシャツを着ていた。


「おい……」


「うん? どうした」


 思わず声を掛けてみたものの、続く言葉が思いつかない。

 何を言っても傷つけてしまいそうだ。

 ベンは私物の入ったズタ袋から軟膏を取り出し、ビンセントに渡す。


「やる」


「え? ……ああ、ありがとう……?」


 痔によく効くと評判の軟膏である。

 ベンに出来ることは、このくらいであった。



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