第157話 回復の魔法

「ごめんなさぁい……エリックぅ。王女、逃がしちゃった……」


 電話越しにノーラの泣きそうな声が響く。

 この泣きそうな声も、半ば演技であろうことはさすがにエリックとて理解している。


「だから余計な真似をするなと言ったんだ」


 これはノーラの失態というよりも、現場指揮官の失態と言える。

 しかし、ノーラが出しゃばったことで結果的に現場の負担が増したことは確かだ。

 指揮官からの報告で、あと一歩だったという事は聞いている。

 ノーラが余計な事をしなければ、捕獲できた可能性はあった。


「ほんとう、ごめんなさぁい……」


「いいから早く帰ってこい」


「うん、そうするぅ」


 エリックは受話器を置いた。


「さて、どうしたものか」


 執務椅子の上で足を組んで考える。

 ノーラは危険だ。

 男と寝るのは大好きなくせに、女には本当に容赦がない。


 さすがにエリックの恋人たちに対して危害を加えることは無いが、メイドや他の使用人を拷問して楽しんでいるのだ。

 エイプル王国の司法は中世のそれであり、貴族が平民に対して何をしても咎められる事は無い。

 それでも異常だった。

 鞭やロウソクは言うに及ばず、様々な拷問器具をお抱えの鍛冶屋に作らせては饗宴を楽しんでいた。

 レバー一つで爪を剥がせる装置やアイアン・メイデンもあるという。

 話を聞くだけでも背筋が寒くなる。

 完全な異常者だ。


「…………」


 情報部から取り寄せたノーラ・ギボンの資料に目を通す。

 やはり、年齢詐称だ。

 幼くして病死した、妹の身分を乗っ取っているオバサンである。

 エリックは年増に興味が無かった。


「エリック様。いかがなさいますか?」


 メイドのマイラが恭しく礼をする。


「そうだな。あいつのせいで障害を負った女たちとその家族を集めて、彼女らに任せるとしようか」


「かしこまりました。サザーランド総理に伝えます」


「ああ、そうしてくれ。……マイラ、アレを」


 せっかく王になったというのに、いまいち上手く行かない事ばかりだ。

 こんな時は酒が良い。


「かしこまりました。お待ちください」


 マイラは部屋の隅に置かれた冷蔵庫の扉を開ける。

 地球では一家に一台だが、この世界ではごく一部の、新しい物好きな富裕層しか持っていない。

 氷を使わない電気冷蔵庫である。

 デザインはずいぶんと古めかしいもので、博物館でしか見たことのない丸みをおびた直方体に、クロムメッキされた取っ手が付いていた。

 しかし、こちらでは最新型である。


 一緒に冷やされていたグラスは、まだらに霜が浮いていた。

 まだまだ新しい技術なので、冷え方にもムラがあるのかもしれない。


「お注ぎしますね」


 マイラは栓を抜くと、ゆっくりと『ストラグル・ゼロ』を注いだ。

 エリックはカップに注がれた酒に口を付ける。


「しかし、エリック様ともあろうお方が、こんな安酒を……」


 この酒は平民の間で人気の、炭酸入りの安酒だ。

 合成甘味料をふんだんに使い、高めのアルコール度数と相まって酔いが早い。

 しかし、味や成分が地球でよく飲んでいた缶チューハイによく似ており、懐かしくなって時折飲むことがある。

 エリック・フィッツジェラルドは大貴族かもしれないが、その中身は平凡なサラリーマンだ。


「いいだろ、別に」


「身体に毒ですよ」


 マイラは不安げな瞳でエリックを見上げている。


「お前が気にすることじゃない」


 マイラは執務椅子の肘掛けに腰を降ろすと、エリックの頬をゆっくりと撫でた。


「そう……ですが。やはり、心配になってしまいます……」


 マイラはエリックの首に両手を回すと、耳元で囁いた。

 エリックはそのままマイラの腰に手を回す。


「いけないお方……」


「お前が悪い」


「うふっ」


 耳元にマイラの吐息を感じる。


 真昼間から飲む酒の独特の感覚も懐かしい。

 こんな時だけは、心が地球に還っていく。


 地球時代にこんな事が出来ていたらきっと、人生やり直したい、などとは思わなかったはずだ。

 マイラはエプロンと襟のリボンを外し、エリックのシャツのボタンに手を掛けてくる。


「エリック様……」


 右耳から聞こえるはずのマイラの声が、なぜか周囲を回転している。

 視界が回転をはじめ、暗くなっていく。


「……? ……なんだ……これ……は……」


 酔いやすい酒とはいえ、こんなに早く回るのはおかしい。

 視界が回転し、マイラの叫び声が頭の中に反響していく。


 そのまま全てが闇に閉ざされ、沈黙の世界が訪れた。


 ◇ ◇ ◇


「うう……?」


 エリックが目を開けると、そこにあったのはベッドの天蓋。

 身を起こすと、ベッドサイドのスツールに腰掛けていたのはジェフリーであった。

 ずいぶんと久しぶりに顔を見た気がする。


「やあ。お目覚めかな」


「俺は……いったい?」


 ジェフリーは顎で窓際を指す。


「彼女が助けてくれたのさ。感謝するんだね」


 出窓に腰掛けて外を眺めているのは、エミリーだった。

 エリックの方を決して見ようとはせず、こちらの事などまるでお構いなし、といった風情である。

 その表情からは、いかなる感情も伺えない。


「……勘違いしないで。あなたは裁きと罰を受けなければならないの」


「……まさか、回復魔法を?」


 エミリーは何も答えない。

 代わりにジェフリーが答えた。


「そうさ。僕もね、君に死なれると困るんだ。何にせよ良かったよ」


 ジェフリーは目を細めると、エリックに笑いかけた。


「…………」


 入口側の壁には、七人の女たち。

 レイラ、ドリー、メイ、エミー、マイラ、ローズ、ドリス。


「ねえ、エリック」


 ジェフリーは満面の笑みをエリックに向けてきた。

 しかし、その目は全く笑っていない。

 口許だけで笑っているような、酷く不気味な表情だった。

 つい先日会ったときは、男同士でありながら思わず胸が高鳴ってしまう笑顔だったはずなのに、妙である。


「君のグラスに毒を塗ったの、……誰だろうね?」


「…………」


「君も変なモノを飲むねぇ。でも、お酒に変なところは無かったよ。町で売っている普通のお酒さ。でも、見てよ」


 ジェフリーは金魚鉢にグラスを沈めると、数秒とたたずに金魚がもがき、浮き上がって動かなくなった。

 一瞬、素手で触るのはどうかと思ったが、この世界ではまだDNAはおろか指紋すら犯罪捜査に使われていない事を思い出す。


「君の執務室に入れるのは、八人の女たちと僕、それにサザーランド教授だけだよ」


 動機から行けばエミリーが最有力だが、エミリーはこの部屋から出ることもできない。


「サザーランドはどうした?」


 室内に姿は無い。


「さぁね……誰も見ていないそうだ。もちろん僕も見ていない」


 ジェフリーは不敵な笑みを浮かべた。

 底知れぬ不気味さを隠しきれていない。


「まあ、いい。俺はこうして生きているからな」


「国王に対する暗殺未遂だよ? いいのかい?」


「俺はそう簡単には死なないさ――」


 窓際に目をやる。


「なぁ? エミリー」


「…………」


 エミリーは何の表情も浮かべず、窓の外を眺め続けていた。


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