第156話 ビンセント薪店
ヨークが目を開くと、そこにあったのはカーターの無意味に爽やかな笑顔だった。
「ハッハッハ、お寝坊さんなやつだ!」
「ここは……? その、俺はいったい……?」
周囲を見渡すと、岩が転がる磯だ。
陽は既に没しており、残照が空を青く染めていた。
漁船が一隻陸揚げされているが、人の姿は無い。
船体には『第二十ムーサ号』と書かれていた。
「ここは北ムーサの海岸みてぇだな! アンタを引き揚げたら、なんか息してねぇから焦ったぜ!」
「そ、そうでしたか」
胸に黒雲が広がっていくような感触。
嫌な予感がする。
「仕方ねぇからよ、オレが人工呼きゅ――」
「殿下は!? 『サラ・アレクシア』はどうなりましたかっ!!」
聞きたくなかった。
事実を認めたくはなかった。
話を逸らすしかなかった。
「無事出航していったぜ! 潜水艦だったんだな! 初めて見たぜ!」
カーターは親指を立てる。
ヨークはカーターが単純な人でよかった、と安堵した。
「それはそうと……これから、どうします?」
「決まってるだろっ! エリック・フィッツジェラルドの尻にフイゴを突っ込んで、ボンッ! だ。2B弾のほうがいいかな? 」
2B弾とは、マッチ箱の横でこすると着火するオモチャの火薬だ。
戦争の激化に伴って、今では製造中止になっている。
「どうやって……ですか」
カーターの顔から表情が消え、腕組みをした。
「そうだな……やはり、オレだけでは無理だろうな。みんな死んじまったし」
てっきり、身体を鍛えれば良い! と言い出すと思っていたので、意外であった。
「身体を鍛えれば良い、とでも言うと思ったか?」
「えっ?」
「バァカ! 力だけで何でも解決する訳ねぇだろっ! 脳まで筋肉か、アンタは!」
「うわぁ……」
これほどまでに酷い侮辱を受けたのは、生涯を通して初であった。
カーターは立ち上がると尻に付いた埃を掃う。
「まっ、ちょっと考えたくらいで解決するなら、すでに誰かが答え出してるぜ! とりあえずメシだ、メシ!」
◆ ◆ ◆
「良かった……! どうやら家は無事ね!」
しかし、何やら違和感があった。
根拠は無い。虫の知らせ、といったものだろうか。
イザベラはマーガレットと目配せすると、ドアの隙間から店の中を覗き込む。
「…………?」
店内では、なぜか衛兵が腕組みをして椅子に腰かけていた。
非常に機嫌が悪そうだが、その顔は見たことがある。
毎日この辺りを巡回している男だった。
意を決してイザベラはドアを開く。
「んん~っ!!」
入ってすぐの事務所では、なぜか兄のスティーブが猿轡をかまされ、縛り上げられていた。
…………全裸で。
「???」
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
イザベラとマーガレットに気付いた衛兵は、立ち上がって敬礼する。
「おう、お帰りなさい。いやね? 店内に入り込んだ不審者が居ると、この家の娘が駆けこんできましてな」
「んんん~っ!!」
「倉庫で全裸になっている所を取り押さえましてな。傍には奥さんの下着が落ちており、邪な目的で忍び込んだことは間違いありません。ふてぇ野郎だ」
「んんんん~~っ!!!」
「尋問してみれば、自分は貴族だ、とかぬかしやがる! どこの世界に全裸で平民の家に忍び込む貴族が居るってんだよ! オラ立てや!」
「んんんんん~~~~っっ!!」
イザベラもマーガレットも、完全に言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
衛兵は帰って行ったが、その顔は今にも吹き出しそうになるのを堪えているのがありありとわかった。
事務所ではレベッカが俯いて小さくなっていた。
「ごめんなさい、あたしがキヌクイムシを……」
「ううん、違うの。悪いのはお兄様よ。誰がどう見てもお兄様に全ての責任があるわ。さて――」
イザベラはスティーブの猿轡を外した。
「言い訳があるなら聞くわ、お兄様?」
「違う! 私は望んで全裸になっていた訳ではないっ! なんなんだ、あの触手はっ!?」
「知らないわ」
「服を全部溶かし、魔法も全部かき消したぞ!」
「あらそう。それで?」
「私はお前が心配だっただけなんだ! この店は年々売り上げが落ちている!」
「関係ないでしょ」
「ましてや今回の砲撃だ! 領主の館が吹き飛んだぞ!」
「知ってるわ。居たもの」
「なんだと……!?」
スティーブは青くなった。
慰問会の参加は任意であり、作戦中ではない。そのため、敵前逃亡には当たらない。
他に用事があれば参加しないという選択肢も当然あった。
平民の兵士はヨーク少尉の部下が若干名参加したくらいで、残る多くの者は市内に分散して集合の時を待っていたのだ。
ヨーク分隊にとってはそれが不幸であり、多くの兵士にとっては幸運であった。
それは、もうどうしようもないことだ。誰が悪い訳でもない。
イザベラは畳みかける。
百歩譲っても許せない事があった。
「お気持ちは嬉しいわ、お兄様。でもね、このパンツは言い訳できないわね」
イザベラの手にはモニカのパンツ。
衛兵が駆け付けた時、スティーブの近くに落ちていたものだ。
「ち、違うっ! 誤解なんだっ!」
「なにが誤解よ」
「お、落ちていたので拾って届けようと……! そうだ、それに全裸で何が悪い! 誰しも産まれてきた時は全裸なのだ!」
スティーブは目が泳ぎ、額には汗が浮かんでいた。
イザベラは立ち上がる。
「衛兵を呼び戻すわ」
「ま、待てっ! 私はこの家の者を避難させるために来たのだ!」
思わず足が止まる。スティーブは続けた。
「領主の館が吹き飛び、先に集まっていた指揮官の殆どが戦死した! エイプル軍のムーサでの組織的な戦闘は、もう不可能だ!」
「…………」
スティーブはイザベラを見上げると、穏やかな視線を向けてきた。
「ムーサが神聖エイプルの手に落ちれば、この家の者は反革命分子として粛清される。お前にそれが耐えられるか?」
「!!」
「お前が巻き込んだ一家だ。面倒を見る義務があるぞ」
イザベラは黙ったままのレベッカに視線を移す。
その表情は、不安げで動揺を隠しきれていなかった。
「……避難させるって、どこへ?」
「ええと……その、どこか安全な場所」
「だからどこだと聞いているのです、お兄様」
「そ、そうだ! ヤスコの家か、フルメントムの教会なんかどうだ! なんなら、うちの領地でもいいぞ?」
言っていることは正しい。
しかし、それは明らかに今思いついた事だった。
パンツの件については、何の説明にもなっていない。
◇ ◇ ◇
茶の間では、マーガレットが優雅に紅茶など嗜んでいた。
「ふぅん。そうでしたの。『お義父様』と『お義母様』はどうなさいます?」
イザベラがマーガレットにキャメルクラッチをかけるのを、トニーとモニカは苦笑いしながら見守っていた。
「決まっとるだろ、母さんや」
「ええ、あなた」
二人は目配せすると、互いに頷きあう。
「ワシらは、ここに残ります」
イザベラは目を丸くする。
「ですが! 神聖エイプルがいつ刺客を放ってくるか!」
命が惜しくない訳ではないだろう。
「まだまだ、薪を必要とするご家庭は多いですからな……」
トニー僅かに笑みをこぼすと、作業服の袖を捲り上げた。
モニカが慈しむようにその肩を抱く。
「そうですわ、あなた。それに、疲れて傷ついたあの子が帰ってくる場所は、私たちが守りませんと。いくつになっても、あの子が私たちの息子であることは変わりませんものね……」
「ああ、まったくだ。イザベラさん、ブルースに国を守る義務があるのなら、ワシらにだってあいつの帰る場所を守る義務があるのですよ。ただ――」
トニーはレベッカに視線を向ける。
「娘だけは、どうにか安全な場所に避難させてやれんでしょうか」
レベッカがトニーに駆け寄ると、腕にしがみつく。
「嫌よ! お父さんとお母さんと一緒にいるわ! 家族じゃない、あたしたち!」
「ワシはな……お前にだけは、何としても生き残って欲しいのだよ。そう長くはかかるまい。殿下がお戻りになれば、また一緒に暮らせる日が来る……」
「嫌っ! 嫌よっ!」
押し問答は続いた。
どちらにも言い分があり、譲ることのできない問題だった。
しかし、イザベラとマーガレットだけでは、正直を言えば守り切る自信は無い。
その時だ。
茶の間の隅に置かれた木箱から、ベルの音が鳴る。
電話であった。
慣れない電話に慌てふためくトニーとモニカを横目に、マーガレットが受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。ビンセント薪店、マーガレット・ウィンターソンでございます。……なんだ、あなたですの……はぁ!? ふざけないで! 切りますわ! ……えっ? よくもまあ、ぬけぬけと……。はいはい、わかりましたわ、行けばいいんでしょ、行けば!」
叩きつけるように受話器を置くと、ドスドスとマーガレットは出ていく。
「あのバカ! ちょっと出かけますわ!」
イザベラからその表情は見えなかったが、トニーとモニカからは見える位置であり、二人は震えながら真っ青な顔で抱き合っていた。
「……ま、いいか。今日はもう遅いし、とりあえず片付けましょ」
イザベラは調味料の棚から酢を取り出した。
この邪悪な触手モンスターを溶解させなければ、おちおち夜も眠れない。
そう、これは宿命の対決なのだ。
今着ている服は平民向けの綿と化繊の混紡で、溶解液にも耐えるだろう。
「覚悟しろ、モンスター!」
カスタネ到着の前日、野営した森での出来事は今でも目蓋にくっきりと焼き付いている。
今こそ復讐を遂げる時だ。
心地よい断末魔の悲鳴が楽しみである。
しかし、スティーブが肩を掴んで止めてきた。
「待てっ! キヌクイムシを養殖できれば、この店の売り上げを飛躍的に伸ばせるぞ!」
「…………」
「化粧品の材料として高値で取引されているんだ! 知らんのか!」
イザベラはタンスを指差した。
「ねえ、お兄様。……ちんこブラブラさせてないで服を着てください。そこに、作業服畳んで入れてるから」
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