第155話 急速潜航
「うん、やっぱりご飯だなー。おいしー」
サラが頬をリスのように膨らませながら、ご飯をほおばっている。
シチューと交互に食べるのが通なのだ、という。
「殿下、口の周りがベタベタですよ」
キャロラインがティッシュで拭き取る。
厨房の隣にある食堂も当然のように狭い。
一般家庭のトイレ並みの広さである。
本来食堂は士官専用であり、兵員は寝室で食べるのだが、特例としてビンセントは使用を許された。
サラが一緒に食べたいと言ったからだ。
その点だけはありがたい。
「しかし……すごい船ですね」
食堂は言うに及ばず、通路にはぎっしりとバナナやソーセージがぶら下がり、ベッドはジャガイモや米に占領されていた。
生鮮食品が切れると、食事は缶詰などの保存食がメインになるという。
「すごいんだぞー。お父様がわたしにくれたんだー」
ベッドも全員分は無く、交代で使うため常に誰かの体温が残っている。
正直を言えば気持ち悪い。
それでもサラとキャロラインだけは専用のベッドを与えられていたが、ビンセントはそうも行かない。
どこまで行っても平民は平民なのだ。
「魚雷を抱き枕にするというのも、不安があります」
「おー、カワイイ女の子のイラストでも描いておけばー?」
そういう問題ではない。
魚雷は八百キロもあるらしい。
そうそう無いだろうが、もしも外れれば怪我では済まない。
突如、天井付近に取り付けられたスピーカーが鳴った。
「連合国駆逐艦接近! 急速潜航、急げ!」
ビンセントは立ち上がると、艦首へ向けて走り出す。
手すきの者は例外なくそうしていた。
「オラァ! 走れ走れ走れェッ!」
掌砲長が兵士たちの尻を次々と棒で叩く。
ビンセントも免れることはできない。
なぜか棒には『精神注入棒』と書かれていた。
発令所を、無線室を、士官寝台を、トイレを横目に兵員寝室、兼魚雷発射管室へ。、
艦首付近にある兵員寝室は既に人でいっぱいだ。
船体が傾き、潜航が始まった。
掌砲長が水密扉を閉める。
「水密閉鎖、ヨシ!」
手近な人に聞いてみる。
「あの、前から思ってたんですけど、なぜこんな事を?」
男は両手を上げると、かぶりを振りながら溜息をついた。
「これだから陸のやつは。少しでも艦首に重心を移して、沈みやすくするんだよ」
「意味あるんですか?」
「ある。この船の排水量は八百七十三トン。平均体重が六十キロとすれば、二十人集まれば千二百キロ。つまり一・二トン。重心は確実に変わるね」
「へぇ……?」
八百七十三分の一・二でどれほど変わるのかはわからないが、根拠があるのであれば仕方がない。
「…………」
全員が一言も話さない。
水は空気よりもよく音を伝える。
僅かな音も、敵のソナーに引っかかれば攻撃を受けてしまう。
ピコーン、という音が響く。
隣の男が小声で親切に教えてくれた。
「駆逐艦のアクティブ・ソナーだ。音を鳴らして反響定位で目標の位置を探すのさ。イルカだって同じことをやるぜ」
ハイテクかと思えば、動物の真似であった。
「へぇ……? 魔法ですか」
「な訳ねぇだろ。マイクとスピーカーだ。無論この『サラ・アレクシア』にも同じものがあるが、使うとこちらの位置がバレるから、攻撃の直前にしか使わないぜ」
「つまり……」
「狙われてる」
アクティブ・ソナーは何度も響く。
そのたびに、不安は掻き立てられていく。
不意に壁面のスピーカーから先任の声が響いた。
「敵艦、爆雷投下! 総員、衝撃に備えよ!」
男は苦笑いを浮かべ、天井に視線を向ける。
「今更どうしようもねぇけどよ! 掴まりな!」
程なくして爆発音が響き、艦体が大きく動揺する。
二度、三度、四度と続いた。
そのたびに何度も大きく艦が揺れる。
生きた心地がしない。
壁も天井も床も、その先にあるのは高圧の深海。
人体などあっと言う間に押し潰されてしまう。逃げ場はない。
「…………」
再び、身体が傾く感覚。
さらに深く潜るようだ。
気圧の変化か、耳が痛くなる。
「!?」
ギイィ、と嫌な音を立てて艦体がきしむ。
天井から、床から、壁から。
これから人を喰わんとする巨人の歯ぎしりのような、とてもとても嫌な音だ。
「だ、大丈夫なんですか!?」
「静かにしろ。大丈夫だ、まだ……な」
そのまま、息を潜めてひたすら待つ。
三十分。一時間。
「敵艦、海域を離脱の模様。各員、損害状況を報告せよ」
スピーカーから艦長の声が鳴ると、ビンセントはホッと胸を撫でおろす。
「ま、これが船乗りってやつよ。慣れればどうってことはねぇ。……ベン・ターナー一等水兵だ。よろしくな」
ベン・ターナーと名乗った水兵は右手を差し出す。
ビンセントはしっかりとその手を握った。
「ビンセント陸軍一等兵だ。よろしく」
一等水兵は海軍の階級だが、陸軍の一等兵と同じのはずだ。
◇ ◇ ◇
食堂に戻ると、ビンセントは食べかけだったシチューにスプーンを漬ける。
「うん、美味いな」
普段は食事中に独り言などあり得ないのだが、つい口に出てしまう。
空腹は最大の調味料と言うが、それを差し置いても美味いのだ。
瞬く間に皿は空になる。
「あっ……」
声がして振り返ると、キャロラインだ。
「それ、僕の……」
「えっ? すいません、ついうっかり。お返しします」
ビンセントは謝ったが、なぜかキャロラインは怒るでもなく頬を赤らめた。
「う、ううん。僕はお腹いっぱいだよ。下げるつもりだったんだ」
ならば、問題は無いはずだ。
次の一口を掬い、口に運ぶ。
「設備も食材も限られているのに、すごいですね」
「大したことないよ。その、置いておく方が悪い、って、君のを食べちゃった人が居たんだよ。止めたんだけど……ごめん」
彼女はなぜか視線を合わせようとしないが、頻繁に視線がこちらに向かう。
「あの、何か」
「いや、なんでもないよ」
キャロラインはそのまま厨房へと入っていく。
「?」
入れ替わるようにしてサラが食堂に入ってきた。
「ブルースー、浮上するってさー。甲板行こうよー、甲板ー」
久々に外の空気を吸えるのであれば、願ったりだ。
梯子を上り、円形のハッチを開いて甲板へ出る。
「…………ふぅ」
潮風が心地よい。
視界全てを埋め尽くすのは、空と海の青。
それ以外には、何もない。
修理の担当者が忙しそうに駆け回るのが落ち着かないが、それを除けば世界は平和そのもの、とすら錯覚してしまう。
「暗ーい海の底からなー、こう、ザッパーン! って浮き上がるときの感覚が良いんだよなー」
「なるほど……?」
ビンセントは、潜水艦どころか船に乗ることすらほとんど初であった。
さらに言えば、港町に生まれながらもカナヅチである。
旧型の船は薪を燃料にするエンジンも多かったが、現在ではほとんどが重油を燃料にしている。
納品に行くこともあまりなかったが、それでも時折積み荷として薪を届けに港に行くことがあった。
漁船や港湾労働者は荒っぽい者が多く、あまり相性が良くなかったのだ。
「おー、あれ見ろよー!」
サラの指差す方を見ると、海面を何かが跳ねている。
「あれはイルカといってなー! 魚に似てるけど、わたしらと同じ哺乳類なんだぞー! 賢くて、超音波で歌ったりお話ししたりするんだー!」
「へえ、そうなんですか! 初めて見ましたよ!」
さすがにイルカが哺乳類であることは知っているが、初めて見たのは事実だ。
イルカは、まるで踊るように『サラ・アレクシア』としばらくの間併走し、やがて消えて行った。
「イルカですら仲良くお話できるのになー」
「えっ」
「……なんでもないよー」
海風がサラの黒髪を波のように揺らしていた。
海の上は、平和そのものだ。
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