第二章 波止場の勇者たち
第143話 ブルース・ビンセントの休日 その一
翌朝。
ギシギシと床が軋む音で、ビンセントは目を覚ます。
「…………」
夢だ。悪夢だ。
そうに決まっている。
ビンセントが寝起きしている茶の間では、なぜか筋肉モリモリマッチョマンが腕立て伏せをしていた。
躍動する筋肉は朝日を浴び、汗が光っている。
もっと楽しい夢を見たい。
ビンセントは目を閉じ、再び眠ろうとした。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ……」
視界を閉ざすと、妙な声が余計に聴こえてくる。
勘弁して欲しかった。
二階では、キャロラインがレベッカの部屋で一緒に寝ているはずなのだ。
この身体が思ったように動けば、ドアの隙間から天国の景色を垣間見ることが出来たはずなのだ。
なぜこうも世の中上手くいかないのだろうか。
「ふんっ、ふんっ、ふんっ、ふんっ……」
今度は腹筋が始まった。
なぜだ。
なぜこうも、むさ苦しいのだ。
なぜこうも、暑苦しいのだ。
なぜこうも、服を着るのを嫌がるのだ。
「すまねぇな、相棒。起こしちまったか」
なぜ、目が合ってしまったのだ。
「悪いと思うなら、やめろ」
「ダメだ。日課なんだ」
言っても無駄だった。
カーターはトレーニングを続ける。
「なぜここにいる?」
「オレが王城を解放するからだ。集合場所は領主の館だが、オレはここの方が良い。作戦当日まで世話になるぜ」
「……そうか」
事情はわかった。
それでも、我慢ならないことがある。
「とりあえず服を着てくれ。頼むから」
カーターは眉をしかめる。
「まさか、お前までオレの肉体美をワイセツ物扱いするんじゃないだろうな? ああ?」
「その通りだ。ズボンを履け」
カーターはとても寂しそうな顔をした。
なるで恋人の肩に触れるような手つきで柱を撫でる。
「オレ、この家気に入ってるんだけどな。実家のような安心感? ってやつよ」
「出て行ってくれ」
◇ ◇ ◇
ビンセント薪店は、急に大所帯になった。
夫婦の部屋は、両親とサラ。
ビンセントの部屋は、イザベラとマーガレット。
レベッカの部屋は、レベッカとキャロライン。
物置はエクスペンダブル。
在庫を置いておく倉庫は、今夜カーターが泊まる。
ビンセントは茶の間で寝起きするので、しめて九人と一頭である。
朝食の時間である。
茶の間のテーブルだけでは足りないので、前日のうちに父が適当な板と在庫の薪でローテーブルを作った。
父は日曜大工が得意で、ビンセント家の家具の殆ど父が趣味で作ったものだ。
買うよりも安く付く、という事情もある。
食卓には母の自慢の料理が並んでいた。
パンとサラダ、スープに目玉焼き。ベーコンとソーセージも付く。
そして、なぜかステーキが一人一枚用意されていた。
カーターが来る途中で猪を仕留めたらしい。
……素手で。
「…………」
カーターはものすごく得意気な顔をしていた。
こちらが何か言うと思っているのだろう。
チラチラとビンセントに視線を送ってくる。
とても暑苦しい。
「なんか、賑やかで良いね。僕、こういうのちょっと憧れてたんだ」
朝食を頬張りながらも、キャロラインは楽しそうだった。
「でも、驚いたわね。一年も前からジェフリーと入れ替わっていたなんて。気付いてた?」
イザベラはマーガレットに話を振った。
「いいえ、全然。どおりでエリックとの絡みが妙に色っぽい訳ですわ。ノンケだったなんてね」
キャロラインはレベッカに、妙に艶っぽい視線を向けた。
「……さあ。……どうなのかな」
「……………………」
レベッカは頬を染めて俯いた。
最高だ。否応なしに元気にならざるをえない。
さすがに一線は越えていない……はずだ。
「はいあーん。口開けろよー」
サラがスプーンで『おかゆ』を突きつけてくる。
「しかし、サラさんはこれでも王女様なわけで……」
「これでもとはなんだー、これでもとはー」
おかゆとは、炊いた米を多めの水で煮込んだ病人食である。
サラが小さな頃、熱を出した時にジョージ王が自ら作ってくれたのだという。
落とし込んだ玉子と、クエン酸豊富な『梅干し』が乗っている。
「あの……魔法で治していただく訳には……」
サラはわざとらしく倒れ込んだ。
「うう~、魔力の集中ができないよ~」
あからさまな演技だが、サラはサラでビンセントが戦うことを嫌がっているのだろう。
気持ちはありがたかったが、万が一の時は困るし、母との約束もある。
息子として、母の気持ちと覚悟を汲んでやりたかった。
船が港につくのは明日なので、それまでに折を見て頼むしか無い。
◇ ◇ ◇
朝食後。
ビンセントが立ち上がろうとすると、イザベラに肩を押さえられる。
「ブルースは休んでて! 私が全部やっちゃうんだから!」
「しかしですね」
「いいから、いいから!!」
やる気満々だ。
イザベラは鋭い視線をマーガレットに向けた。
「マーガレット、ブルースに余計な事をしたら消し炭にするからね」
「あのねぇ、あなたこそトニーさんとモニカさんに余計な仕事を増やさないことですわ」
朝食を終えると、両親とイザベラは仕事に、レベッカは学校に、それぞれ出ていった。
なお、カーターは腹ごなしにランニングだ。
「さ、わたくしも洗い物くらいはしてきますわ」
「すみません、俺が動ければ良いんですが」
ビンセントの手は包帯が巻かれており、水仕事は医者に止められている。
「おほほほ、平民なのだから仕方なくてよ。任せなさいな」
「ご迷惑をおかけします」
マーガレットは厨房に向かっていった。
貴族に皿洗いをさせるなど、あからさまにおかしいが仕方がない。
王女の下にあっては、平等に臣民である。
程なくしてトイレのドアが開き、キャロラインが戻ってくる。
当然、キャロラインといえどもうんこをするのだ。
信じたくなかった、悲しい現実である。
とはいえ、きっとフローラルな香りがするのだ。そうに決まっている。
「あれ? マーガレットは?」
「洗い物をしてくれるそうです」
「えっ? ……マズいよ、そりゃあ」
キャロラインが厨房のドアを開けると、同時に食器の割れる音が響いた。
「あ~あ~あ。いいよいいよ、僕がやるから。マーガレットは休んでて」
「な、何ですの! 皿洗いくらい、できますわ!」
「いや、できてないでしょ。いいかい、これはまず脂分を新聞紙かボロ布で――」
結局、キャロラインがほとんどやったようだ。
あまりの綺麗さに、母が驚くほどであった。
◇ ◇ ◇
庭。
カーターは物干し竿に桶を二つ吊るすと、膝を掛けて逆さ吊りになっていた。
どこから持ってきたのか両手にショットグラスを持ち、地面に置かれた別の桶からそれで水を汲み、竿に吊るした桶に水を移すというトレーニングである。
「邪魔なんだけど」
イザベラが洗濯かごを抱えていたが、カーターは動じない。
「大丈夫っす! すぐ終わるんで!」
「そういう問題じゃないから。暇なら薪割りしてきてよ」
イザベラが竿の片方を持ち上げ、地面に下ろす。するとカーターと桶もズルズルと落ちてきた。
カーターの体重は百キロ以上あるはずだ。
イザベラは、かつての動けるデブから現在の姿になっても、筋力はそのままらしい。
そのままイザベラは洗濯物を干しはじめた。
「ちっ。わかってまさぁ」
カーターは不満そうな顔で、その場を後にした。
◇ ◇ ◇
サラが猫を抱えて入ってくる。
興奮しているようで、顔が赤い。
近所を縄張りにする白い野良猫で、よくレベッカが餌をやっているらしい。
名前は『ネコ』。
何かが違う気がするが、他の名前で読んでも来ないので仕方がない。
「すごいなー! 猫って、こんなに伸びるんだー!?」
「伸びませんよ……」
普段、正しい意味で猫背なだけだ。猫の胴体は思っている以上に長い。
サラは猫を持ち上げると、きんたまをしげしげと見つめていた。
猫は両手を前に伸ばし、されるがままになっている。
「なんかなー、倉庫でカーターが薪割ってたぞー。チョップでなー!」
「……でしょうねぇ」
「あいつに道具を使う頭なんて、無いからなー!」
さすがにそれは言いすぎな気もするが、その光景はありありと目に浮かぶ。
筋肉で何もかも解決すると思い込んでいるのだ。
頭がおかしい。
「でもね、サラさん。カーターは、……学士様ですよ」
カーターは、プロテインの精製に関する論文を著していた。
全ては美しい筋肉のために。頭が本気でおかしい。
「そういえばそうだったなー」
こんな平和な日を過ごしたのは、いつ以来だろうか。
もう、はるか遠い日々だと思う。
サラはまだ猫と戯れている。
ビンセントが出征した頃、レベッカはこのくらいの年頃だった。
しばらく見ないうちに、ずいぶんと大きくなったものだ。
しかし、背が伸びても兄妹の関係は、以前と何ら変わることはない。
「…………」
明日の晩には、オルス帝国に向かう船に乗る。
何気ない日常の風景に見えるが、かつては夢に見た世界だ。
時計を見ると、まだ午前中。
休みらしい休みは、今日で最後と言って良いだろう。
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