第五部 大人が思っている以上に子供は大人。子供が思っている以上に大人は子供。

第一章 ムーサの休日

第134話 穏やかな午後

 自室は二階だが、ビンセントは怪我のせいで階段を登ることができない。

 そのため、茶の間で寝起きしている。

 イザベラとマーガレットは、ビンセントのベッドの使用権を巡って喧嘩したようだ。

 なお、結果は知らされていない。

 どちらかが床で寝たはずだ。一緒に寝ているとなれば、少し嬉しい。

 サラは両親の部屋で寝た。二人には気に入られたようだ。


「…………」


 茶の間には穏やかな日差しが差し込む。

 包帯だらけのビンセントが寝ている横で、マーガレットは椅子にかけ、優雅に読書に耽っていた。

 傍らには紅茶の乗ったテーブル。良い匂いが漂う。

 穏やかな時が流れていた。


「眼鏡……掛けるんですね」


 マーガレットが読んでいた本から顔を上げた。


「読書の時だけですわ。普段は掛けませんの」


 そう言うと、紅茶に口を付ける。


 眼鏡も知的な印象を与える。直す仕草も上品だ。

 実際、マーガレットはインテリである。

 著作がいくつか出版されているのは知っているが、そこそこ売れていると聞いた時は度肝を抜かれたものだ。


 安物の茶葉も、安物のカップも、実際の価値より遥かに高級に見える。 

『深窓の令嬢』という言葉がぴったりだ。


「…………」


 読んでいる本の表紙が、男同士が半裸で抱き合うイラストでさえなければ。

 どう見ても完全に、関わってはいけない人である。


「ブルース。あなたの家に、こんな素敵な本があるとは思ってもみませんでしたわ」


「俺は知りません。関係ないです」


 レベッカの蔵書である。こんな本が大量にあるらしい。

 ビンセントは、もう数年は妹の部屋に入っていない。

 本棚を視界に入れないためだ。

 かつては、ほんの数冊だけだった。

 だから、エロ本を机の上にこれ見よがしに整頓、積み上げられた報復として、相手にも同じことが出来た。


 しかし、ビンセントが家を出てもうすぐ四年。

 たまに休暇で帰る度に、本は増えていった。

 今現在どのような状況になっているのか、まったくもって不明である。


 牛乳配達のアルバイトをして稼いだ金らしい。

 自分で稼いだ金とあれば、口を出しようがない。


 マーガレットは頬を染めて優しく微笑んだ。


「良い妹さんをお持ちね。わたくしの妹にしたいくらいですわ。おほほほほ」


 意味深でいたずらっぽい笑顔だった。

 本人の言葉を信じるなら、割りと露骨な好意の表れだ。

 しかし、本の表紙から思わず曲解してしまう。

 別ジャンルであることは重々承知しているのだが。


「百合もいけるんですか……」


「あら、そういう意味に取る事もできますわね」


 マーガレットはポン、と手を叩く。


「ずるいひとね」



 玄関ドアが開く音が響いた。レベッカが学校から帰ってくる時間だ。


「ただいま~。あれ? イザベラさんは?」


「配達だってさ」


 ビンセントが答えると、レベッカは溜息をついた。


「そっか……よっ、っと」


 レベッカはスカート姿である。

 しかし全くお構いなしに、床に寝ているビンセントの頭を跨いだ。

 そのまま棚に置いてあるキャンディに手をのばすと一つ口に放り込む。


「レベッカ、お前……!」


 パンツがかつての子供用ではなく、ちゃんとした女性向けのデザインに変わっていた。

 しかも無駄に気合が入っている。

 中身は大して変わらないのに、感慨深いものがあった。

 お兄ちゃん、お兄ちゃんと、いつもビンセントの後にチョロチョロとついて回る、ほんの小さな子供だと思っていたのに、四年の月日は短くはない。


「なぁに?」


「……いや、何でもない」


 レベッカは首をかしげた。


「まあ良いわ。お話は後でたっぷりできるものね」


「お前、イザベラさんと仲良いのな」


 イザベラが余計な入れ知恵をしたのかもしれない。

 そうだと思いたい。背伸びしたい年頃だ。

 ……もしも恋人を連れて来たら、一体どんな顔で会えば良いのだろうか。頭が痛かった。


「優しいし、美人だし、何より趣味が合うもの! 知識も豊富で、色々教わってるわ!  この間なんて、一緒に下着買いに行ったのよ! センス良いわ~、私もいつか、あんなふうになれたらなぁ」


「レベッカ! お前はお前のままで良いんだ」


 レベッカが真似をして、うんこちんこ連呼しては困る。

 いや、それどころか色々な意味で真似されると困る。


「マーガレットさんも詳しいのよ! ん~、同好の士って良いわね!」


「レベッカさん。あなたのおすすめ、とっても素晴らしいですわ。次の巻をお借りしても、よろしくて?」


 本を閉じ、マーガレットが立ち上がる。


「うん! 部屋から勝手に持ってって! マーガレットさんなら、大歓迎!」


 マーガレットは頬に手を当て、溜息をついた。


「マーガレットさん、だなんて。他人行儀ですわ。お姉さま、と呼んでもよろしくてよ」


「お姉さま! 大好き!」


 レベッカとマーガレットは花のような笑顔で抱き合うと、手を握りあった。

 指を絡める妙に親密な握り方だ。

 やがて、名残惜しそうにマーガレットは階段を登っていった。


 ビンセントは、空いた口が塞がらなかった。そういう意味じゃないなら、どういう意味なのだろう。

 本当にわからない。完全に理解を越えている。



 ◆ ◆ ◆


 数時間後。


 マーガレットは店の外に出た。

 店にいると、すぐにイザベラと喧嘩になるのだ。


「なんですの、あの女。調子に乗りすぎですわ」


 実際には憎み合っている訳ではないのだが、さも勝ち誇ったような態度に腹が立った。

 とはいえ、まだ終わった訳ではない。

 レベッカは自分にも懐いているのだ。


 妹を味方に付ければ、逆転の目はじゅうぶんにある。

 とはいえイザベラは勅命を盾に、既にモニカとトニーを籠絡している。旗色は悪い。


「……そういえば、入ったことはありませんでしたわね」


 ビンセント薪店の向かいには、落ち着いた雰囲気のバーがある。

 立て看板には『琥珀亭』の文字。

 喉も乾いた所だ。マーガレットは扉を引いて店内に入った。


「……素敵。わたくしの趣味にピッタリですわ」


 王都でもなかなかお目にかかれない、白と黒を基調とした内装の店内は人影もまばらで、蓄音機からは静かな音楽が流れている。

 カウンターに掛けると、バーテンがメニューを渡してきた。


「カクテルは何がおすすめですの?」


「そうですね……こちらの『乙女の憂鬱と羨望』などいかがでしょう」


「……どこかで聞いたような名前ですわ」


「当店オリジナルで、よそには無いはずなんですが……?」


「まあよろしくてよ。そちらを」


 バーテンがシャカシャカとシェイカーを振る。


「どうぞ」


 マーガレットはグラスに口をつける。

 口当たりの良い飲みくちと裏腹に、アルコール分は高いようだ。


「美味しいわ。もう一杯頂けるかしら?」


 ◆ ◆ ◆


「……で、あの子ったら酷いんれすわ。まるれ人を負け犬みたいに……」


 バーテンは困った。

 この辺りでは見ない顔だが、面倒くさい客であることは間違いない。


「もう、およしになったほうが」


「いいえ、わらくしこれでもお酒は強いんれすのよ、酔っれなろいませんわ、酔っれなろ……」


 そのままカウンターに突っ伏すと、イビキを立て始めた。

 バーテンは溜息を付いた。

 最近、妙な客が増えて困っていたのだ。



 ドアベルがチリン、と音を立て、エプロン姿の女が現れる。薪の配達だ。


「店主、薪よ。ここに置くわね」


「は、はい……その、悪いんですが、そろそろウチもガスを入れようかと……」


 プロパンガスや都市ガスの普及が、近年急激に進んでいた。

 昔ながらのかまどや暖炉に薪をくべるよりも、はるかに扱いが簡単で、火力の調整も自在。普及は当然といえる。

 しかし。


「ダメよ。薪を使いなさい」


 バーテンは震え上がった。

 普段はとても愉快で良い人だが、仕事となれば別らしい。

 貴族に目を付けられでもしたら、ろくな目に遭わない。


「ま、薪には薪の良さがありますからね! その、ガスに押され気味ですが、やはり暖炉に焚べた薪の暖かさは良いものですよ。これからもお願いします」


「ありがとう。さすがね。……ところで」


 薪屋の自称嫁はカウンターに寝ている客を指差した。


「なぜマーガレットがここにいるの?」


「お知り合いですか。なら、連れて行ってください。他のお客様の御迷惑ですので」


「まったくもう、仕方ない子! 私が居ないとすぐこれよ。……酒代はうちにツケて」


 リヤカーに酔いつぶれた女を乗せ、薪屋は店を後にする。


 バーテンがカウンターに戻ると、身なりの良い男がボックス席で手を上げていた。

 ソフト帽を目深に被り顔は見えないが、ここ数日よく来る客だ。

 なぜか一日中、窓際のボックスで外を眺めているのだ。


「今の女は知り合いか?」


「ええ、薪の配達に来てくれます」


 男は腕を組むと溜息をつく。


「客に対する態度が、まるでなっていないな」


「仕方がありませんよ。どこかのお貴族様が気が変になって、向かいの薪屋の嫁だと思い込んでいるそうで」


「……らしいな」


「お可哀そうでなりませんが、器量は良いし力持ちだし、近所の子供やお年寄りからも評判は良いですよ」


「ほう。例えば?」


「小学生相手にトランプで負けて泣いたとか、草野球に乱入して十三点差を覆したとか聞いてます。老人相手にチェスをして、熱中のあまり配達をすっぽかしたとか……」


「…………」


「ビンセント薪店さんは息子さんが兵隊に取られて、お父さんはぎっくり腰の発作が頻繁に出るそうですから、助かっているのでは?」


「そうか……なるほどな」


 もう一杯ウィスキーを頼まれ、バーテンはそっとテーブルにグラスを置いた。

 男はウィスキーを煽る。


「これからも贔屓にさせてもらいたい」


 テーブルの上に置かれたのは、金貨だった。


「お客さん、細かいのありませんか? 金貨じゃお釣りが……」


「構わん。釣りは取っておけ。ただし、私のことは一切他言無用だ。いいな?」


 妙な凄みがあった。

 この男、間違いなくただ者ではない。

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