第133話 兵士の帰還
「…………」
ビンセントが目を開くと、目に入ったのは見慣れた天井だった。
自宅の茶の間である。
「おはよ」
「…………レベッカ?」
「うん。おかえり、お兄ちゃん」
妹が顔を覗き込んでいた。
穏やかな微笑み。しかし、見慣れた微笑み。
少し背が伸び、胸も大きくなったようだ。結構なことである。
「変な夢、見てた。軍隊に入って、王女様と旅するんだ。変な女騎士とか、筋肉男とか、縦ロールも一緒に。僕っ娘とか、鼻毛のやつとかも。最後に俺、すごい魔法使いと戦って……負けるんだ」
レベッカは眉間に皺を寄せる。何か機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。
「だ……」
「だ?」
「………………ダメだこりゃ!」
「おい……」
起き上がろうとすると、全身に激痛が走る。
思わずうめき声を上げた。
「無理しないで。そのままでいいから! おかーさーん! お兄ちゃん起きたーっ!」
痛みのお陰で意識がはっきりした。
夢じゃない。
「俺、なんで家に?」
「はいはい、あとあと! それ、全部現実ね! おかーさーんっ!」
パタパタと駆け寄る足音。
足音だけで誰かわかる。
「ブルースっ!!」
懐かしい母だ。
モニカはビンセントを抱きしめると、わあわあと泣き出した。
「おかえりなさい! おかえりなさい! よく生きて帰ってくれたわ! 私はもう、それだけでいいの!」
暖かくて、柔らかくて、良い匂いがした。何もかも、子供の頃と同じ。いや、少しだけ白髪が増えた。
傍らに立つ父、トニーも感極まって手の甲で目の周りを拭いていた。
もう片方の手で優しく母の肩を撫でている。
「そっか……帰ってきたんだ、俺……」
気がつけば、いつの間にかビンセントの目からも涙が流れた。
「ただいま……母さん、父さん……」
左手は動かないが、右手でどうにか母の肩を抱く。
見れば、包帯でぐるぐる巻きになっていた。
「?」
ドン、ドンと物置がやかましい。何の音だろうか。
「俺……どうやってここへ……?」
「わたくしが運んだのですわ」
目元をハンカチで拭いながら覗き込んだのは、妹のジャージを着た栗色の縦ロール。
「マーガレット……さん……?」
おぼろげだが、何となく覚えている。
マーガレットの背中にロープで固定され、馬に乗ったのだ。
「まったくもう……あんな無茶をして。心配させないでくださいまし。でも、最初に飛び込んだのがこの家とは驚きましたわ。おほほほ」
物置からはまだ音がしている。
「そろそろアイツを出してやったらどうなんだー、マーガレットー」
声のした方にどうにか首を向けると、サラがソファに掛けていた。
右足が包帯で巻かれており、痛々しい。
「サラさん……すいません、そんな目に遭わせて……」
「いいんだよー、おまえはよくやったよー」
物置の音が止んだ。
足音が近付くと、茶の間の窓が勢い良く開く。
「ブルースっ! おかえりなさいっ!」
「え?」
窓から入り込んできたのは、イザベラだった。
エプロンを掛けているが、下腹が大きく膨らんでいる。
イザベラは頬を染めた。
「うふふ……あなたの子よ。もうすぐ産まれるの」
「ええっ?」
全く覚えがない。時間的にも辻褄が合わない。
「ふんぬッ!!」
マーガレットがスリッパで思い切りイザベラの頭を叩くと、エプロンの下からバレーボールが落ちた。
「何するのよ! このまま責任を取らせる形で役場に行こうと思ってたのに!」
「バカですの!? せっかくの家族の再会に水を差して!」
「私も家族だもんっ! ねー? お義母さま?」
母は苦笑いしながら目を伏せた。
何となく想像がついた。イザベラは平民に対して遠慮を全くしない。
両親もお貴族様には逆らえないのだろう。
しかし、イザベラはなぜこの家に居るのだろうか。
それは、あっさりと判明する。
◇ ◇ ◇
「ふん、ふふ~ん」
イザベラが洗濯物を干しながら、鼻歌を歌っていた。
とても上機嫌だった。
「あとは回復魔法さえかけてもらえば、マーガレットの事などどうでも良いわね」
「口に出ていますわよ」
傍らではマーガレットが口を尖らせる。
「おっと、まだいたのね」
「いたのね、は失礼ですわね。主婦の真似事なんて、笑わせますわ。汚れがまるで落ちていないじゃありませんの。……わたくしのだけ」
マーガレットは干された洗濯物をしげしげと見つめる。
「不満なら自分でやれば? あなたこそ姑の真似事など、笑わせるわ。私の本物の姑は、とーっても慈悲深いお方よ。あなたと違ってね」
「平民のモニカさんが貴族のあなたに、そんな事言えるとでも? そもそも、肝心のブルースの頭越しなんて迷惑じゃありませんこと? 彼、あなたがいることを知りませんでしたわ」
イザベラはふふん、と鼻で笑い、腕組みをしてマーガレットを見下ろした。
「私がこの『ビンセント薪店』にいるのは、サラ様の、王女殿下の下令のため。いわば、政略結婚! エイプル王国の貴族である私は逆らえないわね! 私の意思など無関係なのよ。そうよ! 私の意思ではどうにもならないの! うっひっひ!」
「その笑い、やめていただけます?……キモいですわ」
「黙りなさい。あなたは早く同窓会に行って、結婚した同級生が旦那の愚痴や子供のおマセぶりを喋っている側で気まずい思いをするといいわ。そして明日仕事だから、と嘘を付いて二次会に行かずに、一人で嫌味ったらしい気取った雰囲気のバーで、溜息をつきながら名前を捻り過ぎてもはや意味不明なカクテルを飲むの。『乙女の憂鬱と羨望』みたいなやつ。どうせ中身は安酒とジュースだし。バーテンに愚痴るも適当に流され、やめろというのを聞かずに深酒が過ぎ、しまいにはゲロを吐いて追い出されるのがお似合いね」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ! 昨日から何ですの!? 怒りますわよ!」
「ふんだ。ちょっとモテるからって、いい気になるからそうなるの」
イザベラは籠を持ち上げる。
構っている暇はない、とでも言いたげだ。
「まだなっていませんわ! 人の未来を勝手に決めないでいただけます!?」
「はいはい、希望を捨てなきゃ可能性はあるわね、さ、仕事仕事~」
マーガレットは拳をきつく握りしめ、唇を噛んだ。
「――だったくせに」
イザベラの足が止まった。
「今……何と言ったの?」
「つい去年までおデブちゃんだったくせに! この百キロ女! 去年の写真をブルースに見せたら、彼はどう思うかしらね! オホホホホホホホホホホホ!!!!」
イザベラは唇を噛みしめる。
「百キロじゃないわ、百十六キロよ! バカにしないで! でもそれがどうしたというの!? 過去は過去! それに、かつての私は……『動けるデブ』だったのを忘れたかしらッ! 試してみる!?」
取っ組み合いが始まった。
サラは窓枠に肘をつき、組んだ手に顎を乗せては、そんな二人を見ていた。
「仲良いなー。でも、さすがにイザベラは言い過ぎだと思うなー」
そのまま室内のビンセントに向き直る。
「それだけ、遠慮の要らない間柄ということでしょう。しかし、百十六キロですか……大したものですね」
「お前はおっぱいがあればどうでも良いんだろー?」
「その言い方は語弊がありますが……」
サラの捻挫は腫れも引きはじめ、経過は順調である。
しかし、魔法を使えるほどには回復していないようだ。
「ブルース、すまんなー。まだ、魔力がその、なー」
「いいえ、生きているだけで儲けものですよ。なんせ、相手はエリック・フィッツジェラルドでしたから。その、ご迷惑をおかけしました。すいません」
サラは笑顔でかぶりを振った。
泥だらけになったマーガレットが茶の間に入ってくる。
「写真で思い出しましたわ。はい、これ」
「これは……」
サラも一緒になって覗き込んだ。
カスタネの保養所で、みんなで撮った写真である。
イザベラが。サラが。マーガレットが。カーターが。キャロラインが。
みんな笑顔だ。
そして、少しぎこちないがビンセント自身も。
「ふふ……」
思わず笑みが溢れる。
夕暮れ、町を見下ろす丘で。
あの日欲しかったもの。
どうやらその多くを、すでに手に入れていたのだ。
「ありがとうございます、マーガレットさん。この写真、一生大切にしますね」
マーガレットも嬉しそうに微笑みを返してきた。
長い長い旅は終わった。
だが、サラを王都に送り返すための、本当の戦いはこれからだ。
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