第131話 鏡の中の自分 その一
ムーサの町から王都へ向かうタクシーの車内で、エリックは図らずも己の過去を振り返っていた。
「………………ちっ」
思わず舌打ちした。
ビンセントを見ると、どうしても思い出してしまう。
以前よく見せていた、死んだサバのような目。
まるでかつての自分自身だ。
彼は下げたくないであろう頭を下げた。嫌々土下座しているのが丸わかりだった。
それが、過去の自分に重なる。
そのため、ついカッとなってしまったのだ。
忌々しい遠い過去。もう、無関係なことだ。
運転手が不安そうな顔をバックミラーごしに向けてくる。
「どうしました? お客さん」
「何でもない。いいから運転しろ!」
思わず声が荒くなる。
運転席の背もたれを蹴ると、運転手は小さくなった。
「し、失礼しました」
「…………」
◇ ◇ ◇
この世には神も仏もない。栄えるのは、いつだって悪だ。
そんな簡単なことに気がつくのに、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。
『お前、いい加減にしろよ! お前一人のミスで全員が迷惑するんだからな!! やる気ないなら辞めろッ!!』
ブラック企業に務める社畜。
パワハラ上司に毎日のようにいびられ、過大なノルマは常に『その男』を追い込んでいた。
下げたくない頭を下げ、心にもない謝罪の言葉を紡ぐ日々。
『すいません……以後、気を付けます』
明らかに人が足りないにも関わらず、人員の補充は見込めず、給料も上がらない。
時に一日六時間にも及ぶサービス残業は、当然無賃金。
休日も出勤しなければならない。やっぱり無賃金。
奴隷以下の待遇だった。
独身で恋人もできず、たまに風の噂で聞く同級生たちは、とっくに結婚して子供を育てている。
ある者はマイホームを建て、ある者は起業して社長になった。
しかし、自分には何もない。
彼女いない歴=年齢、立派な高齢童貞である。魔法は当然使えない。
焦りはあった。後悔もあった。
しかし、今さらどうしようもないのだ。
『いや、いいです』
『まだ何も――』
『もう充電無いんで』
独身でフリーの女など、手の届くところにはいなかった。
連絡先を聞けば、彼女らの携帯は常に都合よく電池が切れている。
自分の番号も覚えていないそうだ。
しかし、数分後には男に迎えを頼む電話を掛けている。
何をやっても上手くいかない。
『なんだ、お前も草食系ってやつか! 俺らの時は――』
バブル時代を謳歌したらしい先輩は、事あるごとに昔の豊かだった時代の自慢話を長々と続ける。
正直、うんざりしていた。
物心ついた頃から氷河期と呼ばれる時代で、仕事は無いのが当たり前。
クルマも高級時計も、夢のまた夢だ。
そもそも、最初から興味がない。
ある日のこと。
『お、俺は……いったい何を……』
気がつけば、満員電車でいつの間にか女子高生のスカートに手が伸びそうになっていた。
そんなつもりは無かった。無意識だった。
震える両手に渾身の力を込め、吊り革を握る。
あやうく押しとどめたが、同僚が無実の罪で痴漢に仕立て上げられ、解雇された事を思い出した。
あながち、本当に無実だったかどうかもわからない。
彼の先例がなければ、自分がそうなっていたかもしれないのだ。
『うう……疲れた』
ドブ臭いスラムのような一角、築六十年のオンボロアパートの一室が、自分の世界。
安い缶チューハイと、毎週楽しみにしている深夜アニメだけが癒やしだった。
しかし、それらもやがて飽きが来る。
年々飲酒量が増えていく。
ついにはストレスから不眠となり、睡眠薬に頼る日々。
コンビニ弁当とインスタントラーメンに頼り切った食生活は乱れに乱れ、たった一年で体重は三割増えた。
鏡を覗けば、そこには疲れ切った顔。
目の下には深いクマが刻まれ、目やにと無精髭は不潔極まりない。
スーパーで売れ残ったサバのような。そんな目だった。
『……まるで幽霊だ……どこにも俺の居場所なんて……』
鏡から目をそらすようにシャワーを浴び、床につく。
灯りを消すと、部屋の片隅に積み上げられたゴミ袋からカサカサ、と音がする。
食べ残しにたかるゴキブリだった。
『う、うわあああああぁっ!!』
紐を乱暴に引いて灯りをつけ、丸めた新聞紙でゴキブリを追い回す。
『クソッ、クソッ、クソッ!!』
ゴキブリが上司の顔に見えた。
渾身の力で新聞紙を振り下ろすが、ゴキブリは流しの隙間へと逃げていった。
『チクショウ……チクショウ……!』
異変に気付いたのは、翌朝のことだった。
『…………ッ!』
身体が、動かない。
視界に映る天井が歪んでいる。
自分が泣いているのに気がつくのに、かなりの時間を要した。
『誰か、助けて……』
枕元の携帯が鳴った。
アラームの鳴る時間には、まだ早い。
言うことを聞かない腕をどうにか動かし、ディスプレイを覗き込む。
見たこともないアカウントからのメッセージだった。
『異世界、行きませんか?』
続きを読むと、指定された場所はすぐ近くだ。
時間はもうすぐ。
イタズラか、変な業者の広告だと思った。
しかし、何かが引っかかる。根拠などわからない。
ただ、身体が、精神が、悲鳴を上げていた。
これ以上、こんな世界に居たくない。嘘でもいい。気休めでもいい。
藁をも掴む思いで、寝間着代わりのジャージ姿のままジャンパーを引っ掛け、足を引きずるように指定の場所へ向かう。
ひどく身体が重い。しかし、何かに導かれるように足は動いた。
何の変哲もない、普通の公園。
朝早くだからか、誰もいない。
ベンチに腰掛け、その時を待つ。しかし。
『そりゃあ……そうだよな』
何も起きなかった。
目の前にあるのは、いつもと同じ公園。
雀の声だけが聞こえる。
『…………』
今日も、これから出勤しなければならない。
殺人的な混雑の満員電車に乗って、嫌な上司にいびられ、先輩の自慢話に嫌々付き合い、過重なノルマをこなさなければならない。
上司の叱責も、理由など何でも良い。
怒鳴りたいから怒鳴る。そのために理由を探している。
おかげで常に緊張を強いられ、疲労は何倍にもなる。僅かなミスも許されない。
腹の底から突き上げる、不愉快な感覚と苦痛。
『ゲフッ! ゲフッ! ……?』
思わず口に当てた手は、血に濡れていた。
胃潰瘍だ。
病院に行きたいが、そんな気力もない。
病院に行くから遅れる、などと言えば、何を言われるかわからない。
『…………』
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
何もかも放り出して、消えてしまいたい。
―― 人生をやり直したい!!
ジャンパーのポケットの中には、睡眠薬。
もらったばかりで、薬袋一杯である。
『もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ…………』
プチプチと薬の包装を開く音だけが耳にこだまする。
『…………』
手持ちの全てを開け、コンビニで買った缶チューハイで無理矢理胃に流し込んだ。
『ううぅ…………』
強烈な吐き気が襲ってくる。
朦朧とした意識で膝を着こうとするが、そのまま倒れ込んでしまう。
遠ざかる意識の中、ぼやけた視界に青い光が浮かんできた。
縋るようにして、手を伸ばす。
しかし、その手が何かを掴むことはなかった。
『 』
気がついた時、視界はぼやけたままだった。
何やら声が聞こえる。しかし、意味はわからない。
『――――。――――?』
『――――! ――――!』
巨人が覗き込んでいた。
いや、巨人ではない。
自分自身が、赤ん坊になっていた。
『――――!』
どうやら生まれ変わったようだ。それに、ここは異世界らしい。
それも、かなり裕福な家だ。
フィッツジェラルドという貴族らしい。
エリックと名付けられた新たな人生が幕を開けたのだ。
新しい肉体は脳も出来が良いのか、知識をどんどん吸収できる。
この世界でも近年は科学文明が発達しており、社会の変化で更に勝ち馬に乗る事ができそうだった。
エリックは決心した。
今度こそ、望むように生きてやろう、と。
誰かの餌になって搾取されるのではなく、搾取する側にまわってやろう、と。
この世界には魔法がある。
地球では空想上の概念でしかない魔法は、貴族だけが使える。
ならば、誰よりも早く魔法を身につけ、更なる力を得てやろう。
前世では叶わなかった、恋人を作るという夢も、誰よりも早く叶えてやろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます