第130話 勇者の定義
ビンセントは今にも深遠に落ちんとする意識を必死につなぎ留め、破壊された自動車まで這っていく。
「お姫様の……大事なペットだからな、お前ら……」
自動車の燃料は引火性の高いガソリンだ。
ちょっとしたはずみで爆発の危険があった。
ボコボコに凹んだ魔法瓶改造の容器を首に掛ける。
実家の薪屋の経営危機を打開しうる切り札だ。失うわけにはいかない。
「クソッ……だめだ、まだ……」
意識が途切れそうになる。
ムーサは目前だというのに、立ち上がることもできない。
家まで届けられる自信はなかった。
朦朧とした意識の中、勢い良く近付いてくる蹄の音が響く。
「アアアアアァァァ……」
奇怪な、それでいて悲しげな声だった。
「よう……エクスペンダブル……久しぶりだな……」
「ウアアアァァ……!」
エクスペンダブルは涙と鼻水を流しながら、ビンセントの頬を舐めた。
耳がピクピクとしきりに動いている。
やがて膝をつくと、背に乗るように促した。
「ブヒッ!」
「ハハハ……乗れるかな、今の俺に……」
鞍と手綱が取り付けられているが、とても乗馬はできそうにない。
「アアァァ……」
もう一つの足音が近付いてきた。人間のようだ。
汗まみれで息を切らし、顔に泥をつけたマーガレットが今にも転びそうに駆け寄ってきた。
全身で息をしているが、ものすごい剣幕でお怒りなのが伝わってくる。
「ハァ、ハァ、ハァ……な、何ですの!? 馬のくせにっ! このわたくしを振り落とすなんて!」
「フーン」
エクスペンダブルは首を突き出し、上唇を巻き上げて歯を見せた。
「おやめなさい、その顔! とんでもない駄馬ですわね! 覚えてらっしゃい!」
ビンセントはされるがままに、マーガレットの背中にロープで縛り付けられた。
エクスペンダブルは立ち上がると、早足で駆け出す。
馬としては振動が殆どない。気を遣ってくれているらしかった。
「……ねえ、ブルース。わたくし、そんなに汗臭いかしら?」
「…………」
「心配したけど、それだけちんこが元気なら、大丈夫ですわね」
「…………」
ビンセントの記憶は、そこで途切れた。
◆ ◆ ◆
「ワシは医者を呼んでくる。後は頼んだぞ、モニカ」
「急いでね、あなた」
店主であるトニー・ビンセントは自転車に跨り、店を出て行く。
「はいお母さん、添木」
在庫の薪の中から丁度良い形の添木を持ってきたのは、ビンセント家の娘、レベッカ。
やる気のない目はビンセント家の遺伝のようで、兄のブルースに瓜二つだ。
母のモニカだけはまともな目つきをしていて、ブルースとレベッカがトニーの子供であることは明らかである。
慣れた手つきでモニカはサラの額を消毒し、足首を添木と包帯で固定していく。
「たぶん折れてはいないと思うけど……私が看護師だったのはもう二十年も昔だし……」
「その割には見事な手つきですわ、お義母様。ありがとうございます」
「この子、イザベラさんの知り合いかしら?」
「この子は――」
答えかけたところで、サラが口を挟んだ。
「イザベラー。……お前なんでここにいるんだよー」
「ご自身で仰ったではありませんか。私は命に従ったのみです」
もっとも、大喜びでそれに乗っかったのはイザベラ自身だ。
お陰で毎日が楽しくて仕方がない。
モニカもトニーも優しいし、レベッカは可愛い。
イザベラは末っ子なので、妹が欲しかったのだ。
「しーっ!」
モニカは人差し指を立て、口元に当てる。
「お貴族様にそんな口きいちゃ、だめよ!」
とても心配そうな顔をしている。顔が青い。
「そ、そうだなー。わたしはサラ。……イザベラとは仲良しなんだー」
「あら、も、もしかしてサラちゃんもお貴族様なの?」
モニカが更に青くなるが、サラはかぶりを振る。
「わたしは違う……『貴族じゃない』よー……」
「サラ様は王族ですよ! 王女殿下です! お義母様!」
「…………っ!」
なぜかサラは目を見開いて、口を大きく開いた。
突き刺すような視線をイザベラに向けてくる。
「?」
モニカは顔面蒼白になってふらついた。
転びそうになったので肩を支える。
「だ、大丈夫ですか!?」
「な……何でもないわ、何でもないのよ……」
怪我などされてはかなわない。
イザベラはビンセントの帰りを今か、今かと待ちながら、モニカから家事を教わっていたのだ。
今では掃除も洗濯もお手の物。料理はまだまだ修業が必要だが、少しずつ上達している。
しかし、まだまだ教わることは山とあるのだ。
「すぐにお義父様がお医者さんを連れてきますからね」
「だ、大丈夫よ、私はほら、平気だから! ね?」
「そうですか? よかった!」
薪屋の仕事も面白い。
単純な配達だけでなく、帳簿の付け方も奥が深い。
ただ、過去の帳簿を参考にするに、売り上げは毎年下がっている。
その売り上げも、かつてのイザベラから見れば小学生の小遣い程度ではあったが、家計簿の支出を見るに、なんとか生活していけるようだ。
平民というのはこういうもの。
ただし、ビンセントの仕送りがなければ厳しい。
更に、前線へ送る軍需物資の納品が無くなれば、より苦しくなる。
多くの平民の生き血を吸い込む大陸戦争が、皮肉にもビンセント家の家計を支えている。終戦ともなればビンセント本人も復員するだろう。
そうなればどうなるか。
「…………」
全てが思惑通りに進めば、問題にはならないだろう。
◆ ◆ ◆
「捻挫ですな。しばらく安静にすれば、歩けるようになるでしょう。じゃあ、私はこれで」
「ありがとうございました」
帰り支度をする医者に、モニカは頭を下げる。
「しかし、何ですな。最近ずいぶんと賑やかじゃありませんか。先々週でしたかな? イザベラさんがフラリと現れたのは」
「はぁ」
モニカは周りを見渡し、イザベラが居ないのを確認すると、医者に耳打ちした。
「やっぱり変になってるみたいで……うちの息子の嫁だと言い張っているんです。お貴族様なのにおかしいでしょう? うちはただの薪屋ですよ?」
医者は腕組みすると溜息をついた。
「私は精神科は専門外でね……」
「悪い人ではない、というかむしろ優くて気が利く、とっても良い子ではありますが……息子の下着を漁ったり、息子のベッドで奇声を上げたり、変なポエムを書いていたり、とにかく変なんです!」
「確かな事は言えないが……それはおかしいね。変だよ」
医者は頭をポリポリとかいた。
「でもまあ、若い人にはよくあることかも。彼女は貴族だし、平民には遠慮がないとか?」
「それでも変です!」
「まあ、……変だよね」
「でしょう?」
妙な沈黙が流れた。
やがて気を取り直したのか、医者はハンカチで汗を拭きながら続ける。
「そうそう、最初に現れた時、軍服を来ていただろう? 特殊なやつだったな、たぶん近衛騎士団かな? もしかして、本当に戦地で何か関わりがあったのかもしれんね、命を救われたとか」
「まさか!」
モニカは思わず声が上ずってしまい、また周囲を見回した。
小声で話を続ける。
「私が言うのもなんですが、臆病なあの子が英雄的な行動を取るわけがありません!」
「そりゃちょっと可哀想じゃないかね? 彼も男だ。心配なのはわかるけどね」
「…………」
「まあ、そうだな……他の多くの兵士にも言えることだが……むしろブルース君を専門の医者に見せた方が良いかもしれん。私も短期間だが行ったことがある。リーチェ戦線は、確かに地獄だ。あんな所にいては、精神が持たない。それに、妙な噂も……」
医者は視線をそらした。
モニカの背に、とても、とても嫌な悪寒が走る。
最近町中で、まことしやかに囁かれる不穏な噂があった。
すなわち、リーチェの消滅だ。
地下トンネルからの大量の爆薬で吹き飛ばされたという。
先日の地震がそれだ、とも言われている。
「生きて帰ってさえくれれば、もう私はそれでじゅうぶんです。それでも……贅沢でしょうけど」
モニカの声は小さくなっていき、俯いてしまう。
黙って話を聞いていたサラが口を開いた。
「散々な言われようだなー」
「で、殿下!?」
「ブルースは強いんだぞー。カッコいいんだぞー。勇者ってのはなー、強いチカラも、特別な血筋も、才能もいらないんだー。恐怖のどんぞこで行動するのが勇気だろー。『ただの平民』がだなー、銃弾とびかう戦場だの、魔法使いの貴族だのを相手に戦うなんて、そうそうできないぞー」
サラはモニカをまっすぐに見つめる。
「そして……すぐにでも帰ってくるよー。お医者さんはまだ帰っちゃだめー」
「どういう事ですか? 殿下」
「それは一体どういう事ですか! サラ様!」
イザベラが勢い良く部屋の扉を開けた。立ち聞きしていたらしい。
「聞いていたのかー、今言った通りだよー。ブルースが帰ってくるんだよー。マーガレットが連れてくるよー」
「マーガレットが!? ……そんな美味しい役目を!?」
イザベラが勢い良く壁を叩く。
やる気満々のイザベラが掃除をしまくったので、埃が落ちてくることはなかった。
「まだ生きてるよー。お土産もって、このおうちに帰ってくるんだよー……」
玄関の扉が勢い良く開いた。
「先生! 次の患者ですわ!」
マーガレットの声が響く。
彼女が背負う、気絶した血まみれの男は、間違いなくビンセント薪店の跡取り。
モニカの息子、その名はブルース・ビンセント。
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