第125話 兄貴とオレの悩ましき日々 その一

 田園風景の中を、自動車は進む。

 エリックは殆ど無言だった。

 ヤスコといかなる関係にあるのか、彼は語る気配を見せない。

 愉快な間柄ではないだろう。それだけは間違いない。


「ねえ、ブルース」


「は、はい?」


 急にマーガレットが話を振ってきた。


「ムーサって、どんな町ですの? わたくし、通過するだけでほとんど見て回った事はありませんの」


 マーガレットは振り向きながら何気なく聞いてくるが、案外答えるのは難しい。


「普通の町ですよ。特に変わったものはありません」


「そうなんですの? 何かこう、名物とか」


「ムーサにあるものは王都にも大体あります。逆に王都にあるものでムーサに無いものは、せいぜい港くらいですか」


 そうとしか言いようがない。

 地元の事こそよくわからないものだ。生まれ育った町は、すべてそれが基準になってしまう。


「ふぅん……船で遊んだりとか、しなかったんですの?」


「船で、……遊ぶんですか?」


 船は人や物を運んだり、漁をしたりするためのものだ。

 あとは軍艦くらいしか思い浮かばない。

 サラが袖を引っ張る。


「ほら、あれだよー。トマトス湖で乗っただろー」


「ああ、手漕ぎボートですか。あんなのに乗ってたら、すぐぶつけられて海水浴です」


 マーガレットはなぜか苦笑いを浮かべると、巻き毛を指で弄んだ。

 会話が噛み合っていないらしい。


「ほら、コンサートとか、プールとか、カジノとかあるじゃありませんの」


「は?」


 ふと、気づいた。

 確かに、心当たりがある。


「……あ、もしかして、たまに来てたクルーズ船ですか?」


「ええ、そうですわ」


「乗れませんよ、あんなの……」


 ムーサは王都に近いので、外洋航行する豪華客船が時折寄港することがある。

 しかし、チケットは一番安いものでも兵士の年収に匹敵するという。

 スイートとなれば金貨数十枚にもなるだろう。

 とても乗れたものではない。


「今度、乗りましょ」


「ご冗談を」


 富くじに当選すれば、あるいは可能かもしれない。

 しかし、さすがに冗談だろう。

 連合国の潜水艦が闊歩する海を客船が航行する事はできず、運行は無期限で停止している。

 なお、現在では兵員輸送船として徴用され、将兵に大層好評らしい。

 戦争が終われば船会社に返却される予定だというが、保証はない。


「で、他には?」


「ムーサはですね――」


 ビンセントは静かに語る。


 住民は殆どが平民。

 ビリデという山を挟んで王都と隣接している。

 距離的には王都に近く、鉄道で通勤する労働者が多くいるのだ。

 これといった観光地も無く、住宅街と商店街、それに工場がいくつかあるのみ。


 町はずれにある小さな商店街。

 食料品店や雑貨屋、飲食店が立ち並ぶ端の方に、店舗を兼ねたビンセントの家がある。


「格好悪い話ですけど――」


 売り上げは右肩下がり。

 軍への納品で何とか持っているが、戦争が終わればそれも途絶える。

 斜陽産業であった。


「…………」


 そして、必ずしも良い思い出ばかりではない。

 王都に近いがゆえに王家の影響力が伝統的に強い。

 それは良いのだが、住民は保守的で安定志向が強かった。


 ジョージ王登場後、王家自身が科学文明を推進したが、住民はその恩恵を受け入れるのに時間がかかった。

 おかげで、プレ・ジョージ時代の遺物も多数残っている。


 そして、平民同士ですら一定の派閥があり、上意下達の傾向が強い縦社会である。

 二言目には歴史と伝統が云々、正直を言えば息苦しいと思っていた。


「ふん。そんなのはどこも変わらん。俺が知っていた所でもそうだ」


 エリックが珍しく口を挟む。

 意外であった。エリックはエイプルで最も先進的な王都の出身だと聞いている。

 平民だけでなく、貴族の世界にもやはり似たようなものがあるのだろう。

 いや、貴族だからこそ余計にしがらみが強いのかもしれない。


 しかし、マーガレットはあまり納得できていないようだ。


「もっとこう、あるんじゃありませんの? 会いたい方とか。家族以外にも」


「いません」


「なら、かつて会いたかった方は? 殿方とお子様以外でね」


「…………」


 僅かな間、会話が途絶えた。

 ビンセントとはいえ、さすがに気付く。

 要するに、マーガレットは恋人の有無を聞いているのだ。

 以前ならとぼけた事だろう。

 しかし――


「戦前のことです。俺、いつも嫌なことがあった時とかに行く、お気に入りの場所があって――」


 まだ、世の中が平和だった頃。夕焼けが照らす丘で。

 初恋の女性、アナと過ごした時間。

 噂の彼、アダムズ。

 寂しそうな顔をしたアナを一瞬で幸せいっぱいの笑顔に変えた男。

 ビンセントにできることは、祝福するだけだった。


 程なくして大陸戦争が始まり、嫌がらせからの軍への半強制志願。

 地獄のような戦場で知った、アナの結婚。


「……ま、よくある話ですよ」


 アナの事を話す気になったのは、きっと全員が前を向いて座る自動車だからだ。

 顔を合わせずに済む。

 なぜか、以前に比べて思い出すのが苦痛ではなくなっている。

 これは、自分でも驚く変化だった。


「忘れられないんですの?」


「過去は過去ですから」


 言ってから気付く。これは、カーターが言っていたことの受け売りだ。

 いつの日か……そう遠くないうちに、正面を向き合って話せる日も来るかもしれない。

 それも、そう遠くない時に。


「そう……ですの」


 マーガレットの表情は伺えない。ミラーの範囲から外れているのだ。

 普段ならサラが色々突っ込んでくるだろうが、今回は大人しい。


「……すー」


 どうやら寝ているようだ。


 マーガレットはこちらに向き直ると、ビンセントの鞄に視線を向けた。

 一瞬こちらの目を見ると、正面に向き直る。

 ついに、恐れていた時が来てしまったらしい。

 ビンセントは鞄を開く。取り出したのは、今朝受け取った紙の束だ。


「…………」


 とてもお子様に見せられる内容ではないはずだ。

 青少年の健全な育成のため、配慮が求められた。


 登場人物は男しかおらず、それでいて恋愛ものなので読むのは苦痛だ。

 脳内補正を全開し、主人公を女だと思い込む。でなければとても読めない。


 タイトルは、『兄貴とオレの悩ましき日々』。

 正直を言えば読みたくないが、読まなければ何を言われるかわからない。

 なにせ、相手はあのマーガレットだ。


「…………うわぁ」

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