第123話 もう一人の召喚者 その一
朝。カーターの部屋。
扉を乱暴に叩く音でビンセントは目を覚ます。
「おはよ」
「お、おはようございます。これは一体?」
マーガレットは分厚い紙の束を突き出した。
目にはクマが浮き、顔色も少し悪い。
「徹夜で書きましたの。ムーサに着くまでに感想を聞かせてもらっても、よろしくて?」
「はぁ」
紙には文字がぎっしりと並び、枚数も百枚はあるだろう。
マーガレット・ウィンターソン先生の最新作、生原稿である。
タイトルは、『兄貴とオレの悩ましき日々』。
「あの、やっぱり男しか出てこないんですか?」
「何か問題でも?」
「いえ……後ほど拝見します」
読むぶんには構わないが、脳内補正を全開しなくてはならない。
時間がかかりそうだった。
加えて、青少年の健全な育成のため、サラの目に入る所で読むわけには行かない。
小声でその辺は話しておく。
「仕方ありませんわね」
サラは口の周りにミルクの白い髭を作りながら、コッペパンを齧っていた。
彼女から隠すように鞄に収める。
再びドアが叩かれた。
「出発だ。早くしろ」
エリックだった。
◇ ◇ ◇
「サラさんを頼むぜッ!! 後で会おうッ!!」
「おう」
何か根拠があるわけではないだろう。
しかし、言外に心配しないで自分の役目を果たせ、と言っているようだった。
カーターが、ヨーク少尉が、タリス軍曹が手を振りながら見送る。
ビンセントたちを乗せた自動車は、クラクションを鳴らして走り出した。
「みんなー、元気でなー」
サラは後ろを向いて元気よく手を振っている。
「……なにも、ハットンさんを治してやる必要はなかったのではありませんか?」
「う、うるさいなー! 目障りだっただけだよー」
なぜかサラは頬を染め、視線をそらす。
あの変態を放置するのは憚られるが、ビンセントがちょっと目を離した隙に治してしまったらしい。
やがて、町外れに問題のハットンが立っているのが見えてきた。
「エイプル王国に、栄光あれーっ!! 王女殿下、ばんざーいっ! ばんざーいっ! ばんざーいっ!!」
彼は、涙を流しながらハンカチを力いっぱい振っていた。
その二本の脚は、しっかりと大地を踏みしめている。
やがて、その姿も見えなくなった。
「まあ、…………いいか」
ビンセントは、ハットンは勇敢な愛国者である、と無理矢理自分自身を納得させる。
サラが大人になっても、その想いを忘れずにいてほしいものだった。
少なくとも、子供の間は彼を近づけるのは危険である。
◇ ◇ ◇
自動車は田園地帯を順調に進んでいく。
自動車が珍しいのか、作業中の農夫が目を丸くしていた。
「……ちょっと、寄り道してもよろしくて?」
「何だよ」
マーガレットが気恥ずかしそうにエリックに頼みごとをしていた。
「その、途中に先生のお宅がありますの。時間は取らせませんわ」
「……あいつか。別にお前の先生じゃないだろう」
「イザベラの恩師とあれば、わたくしの恩師と同じですわ」
「…………ちっ」
自動車は脇道に入る。
十五分ばかりあぜ道を進むと、ツタが絡まった小さなレンガ積みの家が見えてきた。
エリックは木陰に自動車を停めると、エンジンを切った。
「俺はここで待つ。お前ら勝手に行けよ」
「ありがと、エリック」
エリックは座席を倒すと、本を開いて読み始めた。
難しそうな魔法の研究書だ。
ビンセントには理解できなさそうだし、理解できたとしても役に立たない。
エリックと一緒だと気まずいので、ビンセントも付いていく事にする。サラも一緒だ。
マーガレットは木のドアをノックする。
「新聞なら間に合ってますよー」
女の声だ。
「先生、わたくしですわ。マーガレット・ウィンターソンですの」
ドアが開くと、眼鏡をかけた女が出てきた。
年の頃はビンセントたちより一周りほど年上だろうか。
小柄で、見事な黒髪と真っ黒な瞳。髪と瞳の色はサラと同じだが、暮らしぶりから平民のようだ。
今思い出したことだが、イザベラの恩師といえば、イザベラの兄と婚約しているという話を聞いたことがある。
「あら、マーガレットお嬢様に……あなたは、サラちゃんね? はじめまして」
女はサラに頭を下げるが、サラは小首をかしげていた。
「そちらの方は?」
先生はビンセントに目をやる。
マーガレットは先生に耳打ちした。先生の表情がパアッ、と明るくなる。
「あらまぁ! 入って! 入って!」
何と言ったか気になるが、とにかく三人は中に通される。
◇ ◇ ◇
「おー、すごいなー」
「すごいっすね……」
ビンセントどころか、サラも度肝を抜かれたらしい。
壁全部を埋めつくす、本、本、本。
机の上は様々な資料とメモの山、それに見たこともない画材で溢れている。
どうやら漫画を描いているらしい。
「…………」
書きかけの原稿には男同士のベッドシーンが描かれていた。
「いや、わかってましたけどね」
イザベラとマーガレットが師と仰ぐ相手だ。当然と言えば、当然だ。
「先生は凄いんですのよ。『漫画』という概念を、この世にもたらした偉人ですわ」
「へぇ……! そんな偉い人だったんですね」
素直に驚いた。今では週刊漫画雑誌も珍しくないが、かつては欠片も存在しなかった概念だったのだ。
「それは言い過ぎよ。以前からあったの。ただ、ジャンルが偏っていたのね」
あなたはもっと偏っています、という言葉をビンセントは飲み込む。
それでもマーガレットは飛び跳ねそうに興奮していた。
「先生の『マジカルちんこ、男の園で大暴れ』、最高ですわ!」
「…………」
前言を撤回したくなる。タイトルは重要だ。
先生は漫画の概念ではなく、ホモ漫画の概念をもたらした偉人だった、ということだ。
BL、すなわちボーイズラブというらしい。初めて知った。
そして、一生知りたくもなかった。
本棚の本の背表紙に、ふと違和感を感じる。
見たことのない象形文字が書かれた本が、いくつも並んでいたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます