第三章 惑いのブケート
第116話 紙切れ一枚
最初はイザベラのせいで。次も元をたどればイザベラのせいで。その次は見知らぬ誰かのせいで。
しかし、今回は自分のせいだ。
天井近くに開けられた、鉄格子の付いた明り取りから見える空は、どんよりと鉛色だった。
カスタネは山間地であり、天候はあまり安定しない。
平地で晴れていても、雨が降ることが多いのだ。
晴れるなら晴れるべきだし、雨が降るならとっとと降ってほしい。
そんな中途半端な天候が、ここの所続いている。
「……………………」
ビンセントは牢屋に備え付けられた汚いベッドで天井を見つめていた。
なぜ、あんなにムキになったのか。
きっと、カークマンと自分が重なって見えたからだ。
今まで生き残ってきたのも運が良かったからだし、あの時だって立ち位置が違えばビンセントが蜂の巣になっていた。
ほんの、ほんの僅かな違いにすぎない。
改めて命の軽さを実感する。
そう、平民の命はまるで紙切れのように軽い。
紙切れ一枚で戦場に送られ、死ねば家に帰るのも紙切れ一枚だけ。
貴族には手厚い補償があるが、平民のそれは泣きたくなるほどお粗末だ。
命を懸けて戦った者に、何の報いも無い。それがこの国だ。
名誉も栄光も、あるいは愛も、全ては貴族が独占してしまう。
寝返りを打ち、目の前の壁を見つめる。
「…………」
それだけではない。
九割の富を一割の貴族や資産家が独占し、残り一割の富を大多数の平民が奪い合う。
富める者はますます富み、貧しい者はいつまで経っても豊かにならない。
たとえ戦争がなくても、平民は消耗品として使い捨てられ、ただの統計上の数字としてしか語られることは無い。
自己責任の名のもとに。
既得権を持つ貴族は、決してこの社会を改革する気はないだろう。
科学を応用した画期的な事業を思いついた平民が、袋叩きにあって国を出たという話を聞いた事がある。
科学文明発祥の地として、表面上は技術先進国を謳うこの国も、結局前時代の古い因習が全てを支配している。
それが、この国だ。
果たして、守るべき価値があるのだろうか。
今までの戦いは、何だったのだろうか。
カークマンは、何のために死んだのだろうか。
キャロラインが哀れでならない。彼女の嘆きの声が耳を離れない。
「…………」
カツカツと冷たい足音が近づいてくる。
毎度おなじみ、いつも不機嫌な顔をした見張りの衛兵だ。
鍵を差し込み格子戸を開く。
「出ろ」
「断る」
無意味で無駄な犬死をするくらいなら、このまま牢屋に居たほうがずっと良い。
しかし、衛兵は声を荒げて繰り返した。
「出ろッ!!」
「うるせぇな!」
衛兵が警棒でビンセントを殴りつけ、引きずるように詰め所へと引き摺っていく。
◇ ◇ ◇
詰め所で待っていたのは、サラだった。
不安げな瞳をしながら、手ぐしで髪を撫で付けている。
「ブルースー、おまえの言いたいことはわかるんだよー。わたしだって、このままで良いとは思ってないんだー」
「ここは王女殿下の来るところじゃありませんよ……」
サラは構わずに続ける。
「一緒に、王都に行ってくれないかー?」
「お子様に何ができるんです」
言ってから、自分でも棘のある言い方だと気づく。
サラは自分の爪先に視線を移す。相変わらずのゴム草履の足は、泥がついて汚れていた。
サラには何の過失も責任もない。何も悪くない。
なのに当たってしまった。
「すみません、俺、サラさんに酷いことを……」
サラは顔を上げると、ビンセントの目を穏やかに見つめた。
「いいんだよー。わたし、ちょっと安心したなー」
「安心?」
「ちょっと前だったらさー、おまえ人が死んだくらいでそんなに荒れなかったと思うんだよー」
「…………」
「それ、オカシイからなー? 友達が死んだら、悲しくて当たり前じゃんかー。いまのブルースのほうがさー、わたしは好きだなー」
サラは王女だ。だが、子供だ。
その表情は僅かに眉が下がり、心配そうな視線でこちらを見上げていた。
ビンセントは急に恥ずかしくなった。自分が情けなくなった。
こんな子供に、気を遣われている。慰められている。励まされている。
こちらの方が、ずっと年長者なのに、だ。
「国のために来い、とは言わないよー」
「…………」
「わたしのために、来てくれないかー?」
この言い方は、少しずるい。たとえそれが本心であったとしても。
お子様とはいえ、やはり女で王族だ。
人を動かすことに長けている。
あるいは、そのための教育をもっと幼い頃から受けていたのかもしれない。
いわゆる、帝王学だ。親代わりに育てたというケラー首相の手腕かもしれない。
キャロラインはケラー首相が変装してカスタネに来ていると言っていた。
王都に向かうのがサラ自身の意思か、ケラー首相の入れ知恵なのかはわからない。
しかし、サラは自分を頼ってくれるお子様であることも間違いない。
「……わかりました。ただ、勘違いしないでください。俺はサラさんのために行くのであって、国のために行くとは言っていません」
自分でも矛盾に気付く。
サラは王女である。
王都奪還作戦が成功すれば、いずれは女王としてエイプルに君臨する。
まだまだ先の話であるものの、今現在の体制を延命させる事に他ならない。
「いいんだよー。わたしがエイプル軍でいちばん信用してるのは、おまえだからなー」
「買いかぶり過ぎですよ」
サラは満面の笑みを返す。
「ただとは言わないよー。これあげるからさー」
サラが机に乗せた金属容器の蓋を開く。
直径十センチ、高さ二十センチほどの円柱形で、肩にかけるストラップが付いている。
魔法瓶を改造した物のようで、通気用だろうか、蓋部分に幾つも穴が開いていた。
「うわぁ……」
中を覗き込むと、思わず声が出た。
とても気持ち悪い、ネバネバの粘液を纏った触手モンスターが蠢いていた。
キヌクイムシだ。
「タマゴもあるよー」
なぜかサラは満面の笑みを浮かべていた。
「ペットを飼いたければ、犬でも猫でも鳥でも良いじゃないですか……」
その後、ビンセントはルシアとその家族の顛末を聞き、返す言葉を失った。
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