第109話 慟哭の夜

「そういや、ジェフリー坊ちゃんと随分会ってないなぁ。元気なんですか?」


「ジェフリーか……」


 随分と長い間、歩いている。

 黙っていては気が滅入ってしまうので、一行は雑談をしながら地下世界を進んでいた。

 カークマンの質問に、キャロラインは答えなかった。話題を変える。


「ジェフリーにはね、秘密の恋人が居たんだよ。もしかしたら片思いだったのかな。こっそり写真を眺めていたみたい」


「はぁ」


 カークマンは手を頭の後ろで組むと、口笛を吹く。


「お、それをビンセントに言いますかい」


「おっと、口が滑ったかな。内緒だよ? 誰にも言っちゃダメだよ?」


 じつにチャーミングな笑顔だった。結局キャロラインとて、恋愛話が好きな女の子らしい。

 普段はジェフリーとして振る舞っているので、こういった話題は出しにくいのかもしれない。

 ちなみにこういう話題の時、ビンセントはいつも困る。


「仲は悪くなかったみたいだけどね。でも、彼女は別の貴族と結婚する事になった」


「マジすか!? ショックだなぁ!」


 カークマンも知っている相手らしい。

 貴族、平民を問わず、よくある話だ。ビンセントも例外ではない。

 おそらく、お貴族様の世界でも珍しくない事なのだろう。

 平民の兵隊には、愛も恋もない。とはいえ、沈黙は耐え難かった。話を合わせる。


「お可哀そうに」


「とっとと忘れて新しい人を探せば良かったのにね」


 しかし、カークマンは大げさに溜息をつくと、頭を抱えた。


「そうホイホイ切り替えられないもんっすよ! ああ、お可哀そうな坊っちゃん……今度エロ本を献上します……!」


 キャロラインは見るからに狼狽していた。


「そ、そんなに?」


「まあ、平民はもっと可哀想なんすけどね! 俺、結婚とか絶対無理じゃん」


「何事にも絶対というものは無いと思うよ?」


 カークマンが鼻くそを岩盤にこすり付けた。

 平民の男は生涯未婚率が三割近い。

 多くの平民の女が、貴族や資産家の妾となって経済的に安定した生活を望んだからだ。

 その多くが夢破れたようだが、もっと根本的な理由がある。


「お嬢様ぁ、中途半端な励ましは無駄なんすよ。俺達は兵隊だ、使い捨ての消耗品っすよぉ」


 キャロラインは眉間に皺を寄せた。


「僕はそういうの、好きじゃないな。スコットはスコットだよ……」


 カークマンは少し嬉しそうな顔をした。彼もキャロラインに、少なからず好意的な感情を持っているらしい。


「彼女が婚約したのは、君が出征した後なんだ。それからかな……ジェフリーが荒れ始めたのは。娼館や賭場に入り浸って、酒浸りになって。ついには部屋から殆ど出てこなくなった。夜中に時々出歩いてるみたいだけど」


「何すかそりゃ! 俺も聞いてない!」


「関係者には固く口止めしたからね。僕は、ジェフリーの代わりとして王立学院に通い始めた。女の子の恋人まで作って、ジェフリー・ロッドフォードを演じていたんだ」


 またも衝撃の事実が発覚する。

 そして、固く口止めしたはずの話題をキャロライン自身が吹聴しているのに本人も気付いていないようだ。


「女の子の……恋人、ですか?」


「ドリスだよ。ドリス・ノーサム。カスタネの夜会にも出ていたけど、覚えてないかな? けっこう強気な性格なんだ」


 胸に何やら温かいものが蘇ってくる。

 これはまさしく百合だ。百合百合だ。

 眺めたい、会話を聞きたいと思っていたが、実際に関わることはなかった。

 むしろ、空想の世界にしか存在しない概念だとすら思っていた。


「あの、もう少し詳しく……」


 ビンセントの中で、キャロラインが超絶美女に見えてきた。直前まで男扱いしておいて、これだ。

 しかし、残念ながらそのドリスという人を覚えていない。

 思わず身を乗り出してしまったが、キャロラインはかぶりを振る。


「振られちゃったよ。他に好きな人ができたって。まぁ、騙していたようなものだし、悪いことしたな、とは思うけど」


「そ、そうですか……」


「彼女は最後まで僕をジェフリーだと思っていたみたいだね」


 ぜひともデートの場面を見たかったが、残念でならない。

 キャロラインは諦観のこもった笑みをカークマンに向けた。


「君には一発でバレちゃったけど。さすがスコットだよ」


「そりゃあ、伊達に毎日キャロラインお嬢様でヌイてないっすよ!」


「…………」


 アウト。完全にアウト。完全なセクハラ。訴訟になれば敗北不可避だ。

 カークマンはお構いなしに鼻くそをほじっている。

 自分が爆弾発言をしたのに気付いていない顔だ。


「スコット。それ、…………本当かい?」


「サーセン、俺おっぱいでかい子が好きなんで、本当はせいぜい週一くらいっす。いや五日? 三日だっけ」


「…………」


 キャロラインはあからさまに頬が引きつっていた。

 ビンセントの頬には冷たい汗が流れる。

 カークマンは絶対に発言を間違えている。おかずローテーションなど問題ではない。

 最悪の空気だ。どうにかして話題を逸らさなければならない。

 しかし、ビンセントが話題選びに難航している間に、カークマンはさらに話を広げてしまう。


「ジェフリー坊ちゃんが好きだったローズお嬢様、あの人は良かったなぁ。キャロラインお嬢様と違って、おっぱいも大きいし。別の貴族と婚約かあ」


「ローズ……?」


 またどこかで聞いたような名前だ。カスタネで過ごした最後の夜を思い出す。

 しかし関係はわからない。

 ローズという名前は珍しくないのだ。ビンセントの両親だって、妹が産まれた時に名前をレベッカにするかローズにするかで最後まで迷っていた。


「それなんだけど――」


 気を取り直したのか、キャロラインは続ける。大人だ。


「ローズの婚約は一年前に破棄されているね」


「マジすか、このうだつの上がらない平民にもワンチャン有りっすか!」


「無いよ」


 キャロラインは間髪入れずにカークマンに釘を刺す。

『無いよ』と言った時の表情は、どんな感情が込められているものか、見た目からはわからない。


「ローズの婚約者は、リーチェの戦いで顔に大火傷を負ってしまったんだ」


「…………」


 あまり他人事ではない。

 ビンセントだって身体の火傷がコンプレックスになっていた。

 

「面食いのローズに捨てられた彼は、仮面で顔を隠して……夜な夜なトマトス湖でカップルを襲っていたそうだよ。先日ついに捕まったけどね」


 ビンセントは思わず足を止めた。

 心当たりがある。イザベラとカーターの謎の連携プレイで倒されたトマトス湖の怪人だ。


「まさか……まさか、そのローズ様というのは……」


「君も知っているだろう? ローズ・クロイドンだよ」


 プラチナブロンドにアンニュイな瞳。

 屋台で落ちそうになったフランクフルトを助けたのが出会いだった。

 色々あって落ち込んでいたビンセントに、とどめを刺したのも彼女だった。


「望まない結婚を強制された彼女に、救いの手を差し伸べたのが…………エリックだよ」


 ◆ ◆ ◆


 ノックもなく飛び込んできた冒険者ギルドの受付嬢が、青い顔をしてケラー首相に耳打ちする。

 例によって最初は横乳を凝視していたケラー首相も、やがて目を見開いて立ち上がった。


「…………まじかよ! おい、リーチェが吹っ飛んだぞ! 敵が掘った地下トンネルからの爆薬で、何もかも吹っ飛んだらしい!」


「えっ…………?」


 マーガレットの手からティーカップが離れ、床で盛大な音を立てて砕け散った。


「万単位の死者が出て、司令部も壊滅状態だそうだ! 駐屯部隊は全員が絶望的だってよ!」


 目の前が真っ白になった。リーチェではビンセントが戦っている。

 イザベラもリーチェに向かった。クビになって追い返されたと聞くが、ビンセントは残っている。


「そ……そんな…………」


 何の根拠もないのに、リーチェでは膠着状態がいつまでも続くと錯覚していたのだ。


「――敵の――! ――爆撃機――? ――迎撃機が無――!! カスタネ――」


 ケラー首相が何かをまくし立てている。耳に届いてはいるが、意味がわからない。


「…………」


 万単位の死者。

 全員が絶望的。


 ケラーの言葉が脳裏に反響する。

 マーガレットはフラフラと立ち上がると、現実感のない視界で部屋を出た。


「…………」


 何も考えられない。

 ただ、胸を締め付けられる感覚だけが大きくなっていく。


 廊下の景色が流れているので、きっと歩いているのだろう。


 思い出すのは、ククピタでの冒険。

 我が物顔で暴れまわる山賊を、ビンセントは次々と屠っていった。

 彼は言った。


『たとえ、神様もカトー様も居なかったとしても、兵隊さんはいるんだ、って……言いたいじゃないですか』


 神は居なかった。カトー様も居なかった。そして……兵隊さんも居なくなった。

 彼はたったひとりの『兵隊さん』として、激戦地リーチェへと向かい、そして――


「何してるんだ、マーガレット」


 誰かに肩を掴まれる。


「しっかりしろ。ここは階段だぞ」


「エリック……?」


 理知的な瞳が二つ。

 マーガレットは階段を踏み外しそうになっていたらしい。


「ブルースが……」


「ビンセントがどうした」


 頬を大粒の涙が伝った。

 一度溢れると、堰を切ったように後から後から流れ出してくる。


「うああああああぁぁぁあああぁぁぁぁぁあああ!!」」


 マーガレットは泣いた。エリックの胸に顔を埋め、子供のように泣いた。

 エリックは何も言わず、ゆっくりと、優しくマーガレットの髪をなで続けた。

 やがてエリックは口を耳元に寄せ、囁くように言った。


「マーガレット。……今夜、俺の部屋に来な」


 

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