第106話 遠い理想郷

「そんなのおかしいだろう?」


「…………」


 言われるまで気にしなかった。

 ビンセント自身、慣れてしまっていたのかもしれない。

 あるいは、目を逸らしていたのだ。自分自身を納得させるために。

 ジェフリーは続ける。


「マリア王女の魔法は不安定で、二度と召喚魔法は使えなかった。そこで僕の家……ロッドフォード家が肩代わりする事になったんだけど。新しい世界に来て、なぜか彼らはこの地に地球の文化文明を再現しはじめた」


「そこが疑問なんです。地球ではいけなかったんですか? 身分制度が無いんでしょう?」


 ジェフリーの言葉を信じるなら、地球は科学の発達した世界で、誰もが文明の利器に触れ、便利で豊かな生活を送っているはずだ。そこには貴族も平民も無いという。

 しかし、ジェフリーはかぶりを振る。


「地球は地球で貧富の差が激しいらしい。富裕層が豊かな暮らしをする一方、奴隷並の労働環境で人間の使い潰しが横行して、庶民は誰もが死んだような目をして俯いた日々を過ごしているそうだよ。貧困層は結婚もままならないんだって」


「どこも変わりませんか」


 せっかくの異世界なのに、夢も希望も無い話だ。

 いや、身分制度が無いからこそ、余計に格差を実感するのかもしれない。

 カスタネに来てからビンセントが感じたのと同じだ。

 結局、貴族も人間だった。それが現実だ。

 知らない方が幸せだった事だけは間違いない。


 おかげで、イザベラに酷いことを言ってしまった。

 嫌われただろうか。


「マリア王女が亡くなるまでの間に、おおよそ三百人。わかるかい? それだけ人が居れば、みんながみんな言うことを聞くわけがない。エイプルを出て、他の国に行く人も居たんだよ」


「地球が嫌でエイプルに来たのに、そのエイプルも出て行ったんですか」


 他国でも独自の科学技術が勃興し、人々の生活は変わりつつある。

 エイプルに先駆けて飛行機を開発したオルスやピネプルといった国々にも、地球人の入れ知恵があったのだろう。


「そゆこと。理想郷なんて、どこにもない。いや――」


 ジェフリーは目を閉じた。溜息をついたようにも見える。


「理想郷を求めだした時、人はそれを失ったのさ」


「…………」


 世界中のあらゆる神話に登場する理想郷。

 しかし、そこに辿り着いた者はいない、というのがお決まりのパターンだ。

 新しい世界に来ても、そこにはそこの現実がある、ということだろうか。


 魔石を握りしめて、ジェフリーは遠い目をした。


「だから僕は、これを破壊しなきゃいけない。エイプルはエイプル人のものだからね。たとえ失敗続きでも、自分自身の手で工夫することに意味があるんだ」


 ふと、彼の喉に視線が行く。あるべきものが、無い。


「話は変わりますがジェフリーさん、あなたは――」


 ビンセントの言葉を遮ったのは、不意にノック無しで開いたドアだ。

 カークマンが立っていた。やっぱり鼻毛が気になる。

 彼の鼻毛が出ていなければ、街ですれ違っても気付かない不安があった。


「おいビンセント、もうみんな上がってるぞ……って、お嬢様? なぜここに」


「お嬢様?」


 この部屋にいるのはビンセントとジェフリーだけだ。


「何を言ってるんだ、スコット。知っての通り僕は男だ。産まれた時からね」


 知り合いらしい。

 カークマンは小指で鼻をほじった。反対の手ではボリボリと股間を掻いている。


「またまたぁ。髪を短くしてジェフリー坊ちゃんの服着ても、俺が間違える訳ないじゃないですか、お嬢様」


「…………」


「そもそも、なんでビンセントがお嬢様と話してるんだ? 俺も混ぜろよ」


 カークマンは躊躇なくテーブルに掛け、ジェフリーのために出されていたコーヒーを断りなく飲んだ。

 ビンセントには何が何だかわからない。

 ちなみにジェフリーが口を付けた部分と寸分違わず同じ場所に口を付けていた。


「どういうことだ? カークマン」


「ああ、俺の親父ね、ロッドフォード様のお屋敷で釜焚き人夫やってたんだわ。で、そこのキャロラインお嬢様とは幼馴染、ってわけ」


「……僕はジェフリーだ」


 ジェフリーは目を伏せたが、カークマンはお構いなしだ。


「双子の弟さんがいて、それがジェフリー坊ちゃんさ。よく似てるよ。坊ちゃんは小柄で華奢だからな。一番の違いはな、キャロラインお嬢様にはちんこが無いんだ。よく風呂を覗いてたから知ってる」


 子気味よい音が響く。

 カークマンは頬を叩かれた後もお構いなしに鼻をほじっていた。

 指をズボンに擦り付ける。あまり近付きたい相手ではない。

 ビンセントはさり気なくティッシュをテーブルに置く。


「……せっかくジェフリーで通っていたのに……スコット、君が居たのが誤算だったようだね」


 どうやら本当らしい。男であれば、風呂を覗かれたことで怒るのは考えにくい。


「ええと、つまり……」


「僕はキャロライン・ロッドフォード。スコットの言う通り、女だ。今までに僕を女だと見破ったのは、カーター君だけだよ」


 嫌な予感がした。


「筋肉で、ですか?」


「うん、筋肉で」


 何となくわかる。

 カーターは人間の骨格と筋肉を知り尽くしているボディビルダーだ。

 とても男性には見えなかった、という事だろう。



 ◆ ◆ ◆


「ウィックシ!!」


「風邪ですか?」


 チェンバレン中佐が心配そうな顔を向けるが、そんなことはあり得ない。


「オレは『無敵の』カーター・ボールドウィンっすよ! 風邪なんて、生まれてこの方ひいたことありませんや!」


 立ち上がって『サイド・チェスト』のポーズをとる。

 胸筋と肩を側面から強調するポーズだ。

 中佐は構わずに補充された従兵を呼ぶ。彼はカーターの後任である。


「マッキー、『大佐』に精神安定剤を出せ」


「はっ!」


 マッキー二等兵は部屋を出ていく。

 部屋と言ってもドアが付いただけの、ただの横穴だ。

 精神安定剤と聞こえたが、空耳だろう。カーターの精神はブレない。


「しかしなぁ……いきなり大佐って、なんなんすかねぇ?」


「このリーチェで、最も格の高い家柄の貴族はあなたですよ、ボールドウィン侯爵」


「そう言われてもなぁ……」


 カーターは兵士としての訓練しか受けていない。

 戦闘や築壕に駆り出される事があっても、それはあくまでも臨時の事であり、本業は輸送を任務とする輜重兵だ。

 いきなり士官になれと言われてもどうしようもないので、相変わらずこの二十連隊の司令官はチェンバレン中佐である。


 おかげで悠々自適、トレーニングに集中できるのだ。

 筋トレは全てを解決する。


 傍らには前線で発見された魔石の件で報告に来たヨーク少尉とタリス軍曹が控えていた。

 しかし、ヨーク少尉からは別の相談も受けている。

 カーターはタリス軍曹に手招きした。


「おっさん、なんでちんこ勃ってんだ?」


「は?」


 タリス軍曹がズボンの前ポケットに手を入れると、取り出したのはちんこほどの懐中電灯だ。


「ヨーク少尉、アンタの自意識過剰だ! もっと筋肉を付けた方がいいぜ!」


「…………」


 かくしてヨーク分隊のセクハラ事件は解決である。

 ヨーク少尉は他にも相談があると言っていたが、ノックの音が響き、マッキーが戻ってきた。


「大佐、これを」


「おう、気が利くな!」


 プロテインだ。この最新型は以前のような粉っぽさが押さえられ、ほとんどコーヒー牛乳のような味付けになっている。


「コツがあるんだ。オレのやり方をよく見ておけッ!」


 カーターはシェイカーを取り出すと、プロテインを――


「ぬおっ!?」


 何の前触れもなく、耳をつんざく衝撃波が全身に叩きつけられる。

 辺りは暗闇に包まれ、何も見えない。


「うう……」


 誰かのうめき声が聞こえる。

 声からしてチェンバレン中佐だろうか。


 暗闇に小さな魔方陣が浮かび上がり、やがて小さな火が灯った。

 チェンバレン中佐が魔法で火をつけたのだ。

 この部屋にいるのは他にヨーク少尉、タリス軍曹、マッキー二等兵。

 何が起こったかはわからないが、部屋にいた者は全員無事のようだ。


「なんか、やばそうだぜ……」


 カーターは立ち上がると、立ち上がろうとするヨーク少尉を踏まないように注意しながら、扉を開き外に出た。


「…………なんだよ……なんだよこれッ!?」


 塹壕陣地が構築されていたはずのリーチェの町があった所には、巨大なクレーターが顔を覗かせていた。

 無数の瓦礫と死体の山が混ざり合い、かつてない混沌の渦が巻き起こっている。


 遅れて出てきた面々も、同様に言葉を失っていた。

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