第101話 黒革の手帳

 イザベラが司令部に戻ると、兄である司令官、スティーブ・チェンバレン中佐に呼び出された。

 テントの入口から覗くと、スティーブのあからさまに不機嫌な横顔が伺える。


「…………」


 スティーブは時おり腕時計に目をやると、舌打ちしていた。

 組んだ足の爪先が、小刻みに揺れている。

 相当にご機嫌斜めなようである。


 そもそも王都で事務仕事をやっているはずのスティーブが、ここリーチェにいる時点でおかしい。

 加えて指揮まで執っている。

 チェンバレン家は軍人の家系とはいえ、スティーブは事務方だ。

 本来であればそのまま出世を重ね、いずれは次官、大臣と進んでいくはずだった。

 スティーブは確かに王立学院を優秀な成績で卒業した。

 しかし軍の会計や人事にいくら強くても、前線指揮の適性は未知数だ。

 これが意味するものは何か。


 クーデターだ。

 王城を占拠したグループの意向に沿った人事の結果、事務官が危険な前線で指揮を執っている。


 前体制に協力した事による懲罰人事といって良い。


 貴族とはいえ、自分自身を消耗品と自嘲するビンセントと何ら変わることはない。

 お上の都合一つで、その身分はコロコロと変わっていく。


 変わらないのは現場の平民だ。

 彼らは今日も汗を流し、血を流す。

 果たして偉いのはどちらか。


「はぁ…………」


 何もかもが面倒だ。平民に生まれていたら、こんな苦労もしないだろう。

 平民になれたら……そう、例えば。

 

 地方都市で、家族で小さな商店を営むのも良いかもしれない。

 丁度良い宛がある。

 

 だが、もう少しだけ考えたい。

 これは大きな決断だ。

 なにか、きっかけがあれば。きっかけが欲しい。


 例えば、ビンセントが自分を攫ってくれたなら……

 イザベラはかぶりを振った。

 さっき酷い言われ方をして別れたばかりだ。あり得ない。


 ブルース・ビンセントという男は、略奪もしなければ女も買わない、酒や薬に溺れる事もない。

 ククピタで戦った連中とは違う。

 ある意味で非常に安心できる、分別を持った男だ。


 しかし、それゆえに。身分違いの恋に身を投じる訳がないのだ。

 仮に自分に好意を持ってくれていたとしても、最後まで想いを胸に秘めて戦い続け、最後には死ぬだろう。

 そういう男だ。


 だが、それだけは嫌だった。

 何が彼をそうさせるのか、まだわからない。答えてはくれない。


 何とかしたい。しかし、今この場で彼のために出来ることはない。もう無い。

 

 戦場は予想以上の地獄だった。

 もはや、個人の力でどうこうできるものではない。

 弾丸は身分を選ばない。ビンセントが言っていた事が、ようやくわかった。

 イザベラは自分の無力を呪った。


 とりあえず目の前のことに集中する事にする。

 意を決すると、イザベラは声を掛けた。


「あのう……」


 スティーブの冷たい視線が突き刺さる。


「座れ、イザベラ」


「はい……お兄様」

 

 イザベラは中佐の真ん前にある粗末な丸椅子に座らされる。

 座り心地は悪い。


「カスタネからの電話で、大体の事情は把握した。ボールドウィン侯爵の件についても聞いている。侯爵は士官教育を受けていないので、私と共同で指揮に当たる事になるだろう」


 スティーブは机の上の書類を手に取った。


「お前の任務は何だ?」


「……王女殿下の……護衛です」


 イザベラは膝の上の拳を握りしめる。


「王都奪還作戦も控えていることだし、あまり事を荒立てたくはない。しかしお前は持ち場を離れてこんな所にいる。何か言う事はあるか?」


「……ありません」


「先ほど早馬で届いた、我らが主君からの直筆の通達だ。確認しろ」


 スティーブはイザベラに書類を渡す。

 チラシの裏に子供の字でこう書かれていた。


『イザベラへ

 

 おまえはクビだ~ サラより』


 丁寧にアカンベーした自画像付きである。

 

「クビ……」


「そういう事だ。異存は?」


「ありません……」


 これだけの事をやらかしては、当然と言えた。

 任務放棄にあたり、平民ならば死刑もあり得る。


 しかし、イザベラには確認しておきたい事があった。


「……あ、あの、ブルース――」


「以上だ。下がれ」


 相当おかんむりだ。大人しく引き下げるしかない。


「はい……ご武運を。お兄様」


 スティーブは軽く溜息をつくと、イザベラの肩を叩いた。



 ◇ ◇ ◇


 イザベラはテントを後にする。

 自分の軽率な行動を悔やんだ。しかし、時は戻らない。


「まあまあ、生きてりゃ良い事ありますって。その髪型もお似合いですぜ。美容院でちょちょっと整えれば、それで良い」


 カーターである。

 侯爵位に復帰したというのに、相変わらずタンクトップ一枚であった。

 下は軍用ズボンとブーツ。

 普段と同じ服装なので当然だが、どこからどう見ても最高位の貴族には見えない。ただの平民の兵士だ。


 いや、今まで無かった赤い鉢巻をしている。手には黒革の指ぬきグローブ。

 格好良いと思っているのだろうが、正直ダサい。


「ボールドウィン侯爵……」


「カーターでいいっすよ、今まで通りね」


 カーターはウィンクしてみせる。

 さり気なく上腕二頭筋を強調しているが、それを指摘する元気はない。


「ダサいわ……」


「そんな! カスタネで銀貨三十枚だったのに!」


 イザベラは苦笑する。高すぎだ。

 もっとも、イザベラとてかつては金貨一枚分のシャンプーやそれ以上の化粧品を使っていたりしたので、あえて言う気はない。


「似合ってないとは、言ってないでしょ」


 エイプルには公爵位が存在しないため、侯爵が最高となる。

 歴史的にエイプル王国は、大国であるオルス帝国との関係が深い。

 そのため独立国ではあるものの、エイプル王家がオルス帝国における公爵という扱いである。

 エイプル独自に公爵位を設立することも法的には可能だが、それはオルス帝国との決別を意味する。


「女には良さがわからねぇんすよ。ま、おとなしく家に帰ってゆっくりすることっすね」


「家……」


 カーターはイザベラに背を向けるとゆっくり歩き出す。

 ズボンのポケットから手帳のようなものが落ちた。


「カーター、何か落ちたわ」


 カーターは背を向けたままで両手を広げると、芝居がかった大げさな仕草で言った。


「おおーっと。オレ様としたことが、大事な手帳を落としちまったぜぇ。誰か拾ってくれないかなァ?」


「え……」


 ちらりとこちらに視線を向ける。


「あ~あ、拾って届けてくれる前に、住所欄のページを見られても仕方がねぇなァ? ムーサで薪屋さんやってる知り合いの住所も書いてあるんだよなぁ」


 今度はこちらに向き直り、両手を腰に当てる。『フロント・ラットスプレット』だ。


「……なにせ、落としちまったんだからなぁ!」


 磨き上げられた白い歯が輝いた。

 はっきりとイザベラの目を見て、カーターは言う。


「おおっと、拾ってくれるかぁ? そこの通りすがりの親切な人!!」


 そのまま『アブドミナル・アンド・サイ』に移った。


「アヒヒィ……!」


 返事をするように、エクスペンダブル号が声を上げる。その目は血走っていた。

 ひどく興奮しているようで、呼吸が荒い。


「お前じゃねェ! 『人』っつったろ!」


「アッー!!」


 カーターは無視して続ける。


「……なぜか現場からブルース・ビンセント一等兵に休暇を出せ、との要請が司令部に来たんすよ。順番あるんですぐには無理っすけど、無事を祈ってりゃいいっす!」


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