第90話 クローバー

 リーチェの町は今も一本の草もなく、塹壕と有刺鉄線だけがどこまでも広がる泥の大地は以前と何ら変わりない。

 振り続ける雨が泥濘の大地を流れ、縦横に張り巡らされた塹壕の底を川のように流れていく。


 しかし、そこに知った顔は一つもない。

 ブルース・ビンセント一等兵がリーチェを離れてから、今までの時間はそう長くはない。

 なのにメンバーはまるで一新されてしまった。

 新しい上官のビクター・ヨーク少尉は男爵だが、以前上官だったトラバースとは対照的に物静かで、激昂する姿を想像できない。


 カーターは魔法が使えるので司令部近くに、一般兵であるビンセントは最前線近くに配置された。


 ここは第二十連隊、ヨーク分隊の陣地。

 無人地帯を挟んでエイプル軍とクレイシク軍が対峙する、最前線中の最前線だ。

 停戦交渉が継続中であり、今はまだ膠着状態が続いている。

 しかし、何があるかわからない。


「ヨーク少尉……以前、どこかでお会いしましたか?」


「さぁ……初対面じゃないか? 違ったらすまんな」


 今日から新しい部隊である。

 ヨーク少尉は男爵だそうだが、彼からはあまり貴族らしさを感じない。

 高圧的な雰囲気を感じないのだ。


 ふと足元に目をやると一本の雑草が芽を出していた。


「クローバー……」


 シロツメクサとも言われる雑草だ。

 珍しい四つ葉のクローバーは幸運の象徴とされ、大人気である。


「俺は、三つ葉でいいや。三つ葉がいい」 


 四つ葉のクローバーを探すために、見向きもされない三つ葉のクローバー。

 だが、三つ葉のクローバーこそが本来のクローバーなのだ。


 横を一匹のバッタが跳ねる。

 こんな所でも生命は逞しく生きているのだ。


 同じ景色がこうまで違って見える。

 なるほど、世界とは不思議なものだ。


「イザベラさん……サラさん……マーガレットさん……」


 悔やむのはお別れを言えなかったこと。それに尽きる。

 彼女たちは、四葉のクローバーだ。

 幸運の象徴である。


 サラたちは、中立国アリクアムへ向かうためにカスタネでウィンドミルと会っているはずだ。

 予定通りなら今日。

 おそらく、マーガレットもそのために呼ばれたのだろう。

 せめて、彼女たちが無事に亡命できるように。

 一日でも、一時間でも時間を稼ぐ。

 これが、この戦いにビンセントが自ら与えた意味だ。


 ◇ ◇ ◇



「よう、新入り。ビンセントって言ったか? ようこそ地獄へ!」


「よろしく」


 一緒の分隊の男が手を差し出す。

 顔つきも体格も普通なのだが、どうしても一本だけ飛び出た鼻毛に視線が行ってしまう。

 誰も指摘しないのだろうか。

 意識して鼻毛から目を逸らし、ビンセントはその手を握り返した。


「今日来るなんて運が悪いな。停戦交渉、上手く行ってないらしい。クレイシク側に動きがあるそうだ」


「すぐに天国行きかもね。……ええと」


「スコット・カークマン。お前さんと同じ一等兵だ」


 いつまた戦端が開かれるかわからない。

 周りの兵士たち同様、ビンセントもいつ吹き飛ぶか知れなかった。

 だから、人の名前を憶えても意味がない。

 そう思っていたことで、かつてビンセントは深く後悔した。


「ビンセント……お前さん、こんな地獄に来たってのに、さっぱり落ち込んでねぇな?」


「もっと酷い地獄もあるさ」


「想像もつかねぇな。だが、俺だってヨーク少尉が赴任してからは、かなり楽になったかな。ただでさえ地獄なのに、クソみたいな上官の下じゃやってらんねぇよ」


 同意ではあるが、やっぱりカークマンの鼻毛に視線が行ってしまう。

 何か喋るたびに、まるで生き物のように動くのだ。

 どうしても鼻毛に行ってしまう視線をどうにか降ろす。

 カークマンの腹には雑誌のようなものが挟まれているようだ。

 防弾効果を狙っているのだろうか。小銃弾ならあまり意味はないのだが。


「どっちにしろ俺は戦いしかできない。リーチェに戻れて、心の底から喜んでるよ」


「変にやる気出しても、ただでさえ短い寿命がもっと縮むだけだぜ。変わったやつだ」


「カークマン」


「ん……? うわあああぁああぁぁッ!!」


 カークマンは絶叫した。ビンセントが鼻毛を引き抜いたのだ。

 涙を流しながらカークマンは鼻を押さえた。


「て、てめぇ! 何しやがる!」


「すまん、喋るたびにピョコピョコ動くから気になってな」


「乱暴なやつだな! 嫌なことでもあったのかよ!?」


 傍らのヨーク少尉は口を開いて何かを言いかけたが、なにやら思うところがあるらしく、そのまま黙る。


「来る時、カップルがイチャつく現場に出くわしたくらいだな」


「なるほど、お前も……だが、下の階級のヤツにやらないだけ褒めてやるぜ。見ろ」


 カークマンはビンセントに新聞を放り投げた。

 一面には大きく『エイプル王国と連合軍、停戦交渉決裂か?』の見出しが躍っている。


「この借りはいつか返すが、今はそれどころじゃなさそうだからな。……覚えておけよ」


 カークマンは痛そうに鼻をこすった。


 ◆ ◆ ◆



「お前が補充の従兵か」


「うっす。カーター・ボールドウィン一等兵っす。前は輜重兵でした」


 カーターは直立不動で敬礼する。

 さり気ない上腕二頭筋と大胸筋の強調も忘れない。

 ビンセントの予想通り、比較的安全な連隊司令部に配置されたのは僥倖であった。

 カーターは今後、司令官付きの従兵となる。

 やはり防御魔法が優遇された結果だろう。


 数日前に着任したばかりだという新しい司令官というのが……


「楽にしろ。私が司令官のスティーブ・チェンバレン中佐だ。よろしく頼むぞ」


 スラリとした長身、亜麻色の短髪に琥珀色の瞳。しかし、無駄のないしなやかな筋肉は、さすがにボディビルダーとしては痩せすぎだ。

 気になるのはチェンバレンという名前。それに、どこかで見たような顔つき。


「うっす。ところで司令官殿。妹さんとか、います?」


「ああ、これか」


 チェンバレン中佐は机の上の写真立てを手に取る。カーターはこの時写真に気付いた。

 屋敷の前で撮ったらしい家族の写真。

 中佐本人と、両親と思しき中年の男女。


 ……そして、ドラム缶のような女。

 輪郭はともかく、その目鼻には見覚えがあるような気がする。


「妹が一人いる。これは去年の写真だ」


 額に冷や汗が流れる。


「そ、そうっすか」


 中佐は溜息をついた。


「縁談の申し込みもないし、夜会に出ても誰も声を掛けてこない。王立学院に入っても結局恋人も作らなかった。挙句の果てにあのウィンターソン家の娘と結託して、いかがわしい趣味に走り……」


 またどこかで聞いた名前だ。


「そ、それは一体……」


「男同士の恋愛ものだそうだ」


「…………そうっすか、根性あるんすねぇ」


「ああ。根性はある」


「…………そうっすか、火属性魔法とか得意そうな顔っすねぇ」


「ああ。王立学院では首席だ。ただし、鉛筆を転がしてな」


「…………そうっすか、王女殿下と仲良さそうっすねぇ」


「ああ。時折手紙が来る。今は極秘任務に就いているが、詳細は言えん」


「…………そうっすか」


「ああ。父上も心配しておられる。最悪平民でもいいから、誰か貰ってくれないものだろうか……」


「…………そこっすか」


 中佐の声は途中から耳に入ってこない。


 理性では言うべきではないと思ってはいる。しかし。

 どうしても叫ばずにはいられない。


「なんなんだッ! このデブはッ!!」


「デブとはなんだデブとは! ぽっちゃりしているだけだ! それに今はダイエットに成功しておるわッ! この無礼者がッ!!」


「そのダイエットがデタラメ過ぎるんすよッ! オレの見立てじゃ、ゆうに百十六キロはありそうだッ!」


「いまはその四割だバカ者おおおッ!!」


 そんなことは些末なことだ。

 わかったのは、イザベラには婚約者も恋人も本当に居ないということ。

 そのうえ、チェンバレン家は身分に寛容な家柄らしい。

 ジョージを迎えた王家に長年仕える一族ならではだ。

 これが何を意味するか。


「相棒ッ! 覚悟決めて死地に赴いてる場合じゃねぇぞッ!! まずは生き残れやコンチクショーッ!!」

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