第86話 渇きの海 その二

 ロビーを抜けると食堂から賑やかな声がする。夜間は酒場として営業しているのだ。

 二人がドアをくぐると、見知った顔が目に入った。


 嫌な相手に会ってしまった。

 エリックとジェフリーだ。さらにもう一人、女が席に掛けている。


 赤毛で痩せ型だが、飲みっぷりは男顔負けである。

 夜会の会場で見た気もするが、入場者は累計で五百二十一人。

 もちろん重複している者もいるが、いちいち覚えてはいられない。

 彼らにはできれば関わりたくはないのだが……。


「よう、ローズ! なんだ、ビンセントの奴も一緒か! 座れよ!」


 エリックに早速見つかってしまった。

 やけに機嫌が良い。かなり酒が進んでいるのだろう。

 ここは断って離れた場所に座るべく、ビンセントは席を探す。しかし。


 ローズがグイと腕を引っ張り、無理矢理エリックたちのテーブルに座らせられてしまった。

 革張りの高級ソファは音もなく沈む。


「お待たせ、エリック。ブルースも居たから連れて来たわ」


 ローズは言った。『一緒に飲まない?』と。確かに言った。だが、『二人で』とは一言も言っていない。

 迂闊である。完全な敗北だ。


「あの……フィッツジェラルド様」


「おうよ! 俺のことはエリックと呼んで良いぜ! 堅苦しいやつだなっ!」


 エリックはビンセントの肩を掴んだ。アルコールの臭いがする。


「お前も大変だよなあ、リーチェ帰りだって?」


「はぁ……」


 同情的な視線。可哀相な人を見る目。


「戦いなんて、何が楽しいんだよ、お前もそう思っているんだろ?」


 その通りだった。

 楽しかった事など、まったく無い。

 あくまでも名目上は志願だった。

 しかし、同町圧力による無言の強制があったのも確かだ。

 同様に志願した多くの者がそうだったのだろう。

 それは貴族の士官とて例外ではないようで、毎日毎日怒鳴られ、怯え、悲しんだ。


「はぁ……」


 肯定すると、エリックはビンセントの髪を乱暴に撫でた。

 ぐしゃぐしゃと。


「だろお? 世界を救うのは愛だよ、愛!」


 そう言うと、エリックはテーブルの酒を煽った。


「んもう、ブルースばっかり構って、ズルいわ」


 と、ローズ。エリックは、隣りに座ったローズの肩を抱き寄せた。


「あん……乱暴ね、エリック……」


 ローズは抵抗する素振りを見せない。それどころか、自分からエリックにもつれかかる。

 ついには首に手を回し、人目も憚らずエリックの頬に口付けをした。


「!!」


 心臓に超強烈な一撃を食らった気分で、目の前が暗くなる。

 ローズは言った。

『あなたみたいな人、好み』と。

『みたいな人』と本人の間には、超えられない壁があったらしい。


「ちょっと! 何やってんのよ、ローズ! あなたばかりズルいわ!」


 赤毛の女が立ち上がる。

 ローズは勝ち誇ったような瞳を赤毛の女に向ける。


「あ、あたしだって!」


 赤毛の女もエリックの頬に口付けする。


「おいおい、レイラ。はしたないぜ?」


「だって……ローズばっかり」


 レイラは拗ねたようにエリックから視線を逸らす。


「バーカ。お前を忘れるものかよ」


 今度はエリックから口付けした。


「うふっ」


 レイラの頬が紅く染まった。その口端は心底嬉しそうに緩んでいた。


「やれやれ、見せつけてくれるね。ビンセント君、君もエールで良いかな?」


「はぁ……」


 ジェフリーの声など耳に入らない。

 心臓のあたりから、ゴキリ、と嫌な音がしたような気がする。もちろん錯覚だが、何かが折れた。


「カンパーイ!」


 運ばれてきたエールに口を付けるが、泥水のような味だ。

 いや、もちろん本来は貴族向けの店であり、味の保証された高級品ばかりが並んでいる筈である。

 同じ料金を払う限り、身分によって出て来る酒が変わることはない。

 貴族の同伴無しでは平民は店内に入れないからだ。

 店内の他の平民も、あくまで付き添いの使用人として同伴を許されているに過ぎない。


 それでも、あまりに不味い。不味すぎる。反吐が出そうだ。


「あなたのそういう所、……好きよ」


 ローズがエリックを潤んだ瞳で見つめる。


「ふふふ……ローズ。お前がビンセントを連れてきてくれて、今夜は楽しく飲めそうだ。こいつ平民にしてはなかなか見所あるからよ。スゲェんだ、コイツ」


「わたしもそう思ったの。立派よ、彼。さすがエリックね、人を見る目があるわ」


「だろう?」


 とっととこの場を離れたい気持ちで胸が一杯だ。

 マーガレットに貰った金貨を全部ばら撒いてでも、逃げ出したい気分だった。

 そして、やっと思い出す。


 ローズは、カスタネに来て最初に入った食堂に飾られていた絵画のモデルだ。

 エリックはローズの肖像画を見にあの店へ通っていたのだ。


「あらぁ。盛り上がっているじゃなぁい?」


 気だるそうな女の声に振り返ると、ゆるふわパーマで妙に露出の多い服を着た女が歩いてくる。


「ま・ぜ・て。エ・リッ・ク」


 女は後ろからエリックの首に手を回し、耳元で囁いた。


「ノーラ、少しは我慢しろ、な?」


「い・や・よ。……ちゅっ」


 胃に嫌な痛みが走る。

 ジェフリーはよく耐えられるものだ。正常とは思えない。

 ここはあらゆる戦場よりも、あらゆる拷問よりも強い苦痛の、地獄の中の地獄だ。

 仮に今すぐリーチェの塹壕に戻れと言われれば、喜んで戻るだろう。

 戦場で敵と撃ち合う方が、遥かに気分が楽だ。

 上官のストレス発散の怒鳴り声すら、今は懐かしい。


「久しぶりに、あなたの歌、……聴きたいわぁ。さっきはボーカルをイザベラに取られちゃったし……ねぇ?」


 ノーラと呼ばれた女がエリックにギターを差し出す。


「よし」


 エリックがギターを抱えると、周囲は静まり返った。


「大した腕じゃ無えけどよ……」


 エリックの指が弦を掻き鳴らす。

 ゆったりとしたバラードだ。


「…………」


 偏見を抜きにすれば、演奏も歌も、音楽家として食っていけるだけの腕前だ。

 普段であれば耳に心地よいだろう。遺憾ではあるが。

 女たちはうっとりとした視線を送り、周りのテーブルにかけていた客も、カウンターのバーテンすらも聴き惚れていた。

 今日この時でなければ、ビンセント自身そうであったかもしれない。


「…………」


 しかし。

 恋人を想う歌詞の内容に、全く感情移入ができないのだ。『愛してる』という言葉を何回使えば良いのだろうか?

 使えば使うほど陳腐になっていく気がする。

 演奏が終わると、店内は拍手に包まれた。涙を流している者もいる。


 アンコールの声が響く中、ビンセントはトイレに行く、と言って席を立った。


「…………」


 雨の音。

 店内の喧騒とは別世界のように、トイレの中は雨の音だけ。いつの間にか、降り出したようだ。


 別に本当に用を足したい訳ではない。

 手洗い場の鏡には、幽鬼のような姿が映っている。


 一人になりたかった。どうにかしてあの場から外れたかった。

 エリックたちのテーブルは出入り口に近く、彼らと顔を合わせずに外に出るのは不可能だ。

 幸いにして水洗式のトイレであり、まめな手入れと芳香剤によって長時間の滞在も苦にならない。

 とはいえ、あまり長時間占有するのも問題だ。個室は二つあるが、案外すぐに埋まるもの。

 適当な所で切り上げ、手洗い場から外に出ようとした時である。


「急にどうしたんだ? こんな所に連れてきて」


 エリックの声だ。ビンセントはドアノブからそっと手を放す。

 今出れば鉢合わせだ。話が終わった所で、少し間を置いて出ることにする。


「あのね……わたし、どうしてもあなたに謝らなきゃいけないの」


 相手は女の声だ。よりにもよって、ローズ。


「エミーの事はごめんなさい、エリック。わたし、彼女が羨ましくて……。でも、わたしだって本当にあなたを愛してるの!」


 また知らない名前が出てきた。

 エミーとは誰だろうか。


「それであんな事を……バカだな、俺は気にしちゃいない」


「……ごめんなさい、あなたに辛い思いをさせて……」


 あんな事とは、一体何だろうか。

 ローズはエリックの家に無理矢理転がり込んだ、という話を思い出した。


「ローズ……」


「エリック……んっ……あ……愛してる……あっ……だ、だめよ、こんな……ところで……」


 こんな所とは、どこの事だろうか。

 ……当然、このドアの向こうである。


 ビンセントはトイレ内に目をやる。

 視線の先には、天井付近に高さ二十センチ、幅五十センチほどの窓。

 足音を立てないようにそっと近づき、細心の注意を払って窓を開ける。

 雨粒が入り込んできた。


 慌てず。急いで。慎重に。

 窓枠に手をかけ、懸垂の要領で身体を持ち上げ、頭を窓に突っ込む。

 すべての動作を無音で行うのは、ずいぶんと神経が磨り減るものである。

 高さはギリギリ。胴体が引っかかりながらも窓枠を軸に、鉄棒運動のように身体を回転させ、草むらに着地する。

 ……手を擦りむいた。

 同時にドアが開く音がした。トイレ室内に入ったようだ。間一髪である。


「え……? こんなところで……? やだ、エリック、せめて部屋にんんっ……」


「……誰もいないぜ。雨音で声も聞こえねぇよ」


「はぁっ……エリック……愛してる……んんっ……ちゅっ……あ……愛してるわ!」


 足音を殺してその場を離れる。

 全身が震える。寒い。とても寒い。

 凍えて歯の根が合わない。

 胃のあたりにキリキリとした痛みが走る。

 吐き気もする。


 少し休みたい。今すぐ休みたい。

 おぼつかない足取りで歩を進める。


「きゃっ!」


 曲がり角でぶつかりそうになったのは、いつかの平民の少年少女。

 写真を撮った後、同じ場所で待ち合わせをしていた二人だ。

 彼らは一つの傘に身を寄せ合って歩いていたようだ。前方不注意である。

 その手は、しっかりと結ばれていた。


「いや……気にしないで」


 震える足で前へと進む。

 息が苦しい。

 胃の痛みがますます強くなっていく。


 ――もう、平民も貴族もない。


 これは単純に自分自身、ブルース・ビンセントの問題なのだ。


 全身が、震える。

 寒い。とても寒い。震えが収まらない。


 世界を救うのは、愛だ。

 だとしたら、自分自身は何なのだ。

 

 何なのだ。


 走る。走る。走る。


 息が上がるまで。いや、息が上がっても。

 通行人が怪訝な眼差しを向けるが、そんなものは目に入らない。

 町外れまで、走る。

 いつの間にか見渡せば、草原が広がっていた。

 夜の草原は、雨音が響くだけ。

 誰もいない。誰も聞いてはいない。

 ビンセントは水溜りに倒れ込んだ。あえぐように全身で呼吸する。


「俺は……ッ! 俺はいったい何をしていたんだッ……!」


 泥。泥。泥。


 雨。雨。雨。雨。


 毒ガス。照明弾。うめき声。血。死。炎。


 草一本生えない荒れ地。砲弾の落下音。爆ぜる大地。

 闇夜においても命を切り取る曳光弾の恐怖。


 泥の中を這いずり回り、穴を掘り、有刺鉄線を張り、怒鳴られ、殴られ、そして殺し合う。


 恐怖。怒り。憎しみ。悲しみ。絶望。


 街を染める夕日に照らされた、小高い丘。アナと、その恋人。

 軍に志願しない者への嫌がらせ。

 泣いて走り去る妹。変わらない笑顔の両親。


 思い出せるのは、そんな光景ばかり。


 何年も。何年も。何年も。


『世界を救うのは愛だ』、エリックは確かにそう言った。

 確かにそうだ、争いは何も産まない。

 まったくもって同意だ、彼は正しい。


 地面を殴りつける。


 何度も。何度も。何度も。


『お前、人生やり直したい、って思ってるだろ』


 猫カフェで話した時の、エリックの言葉がまたしても胸に突き刺さる。


「やり直したいさ、やり直したいよ!! 何言ってるんだよ、当たり前じゃないかッ!! もっと友達とバカやって遊んで、勉強もして学校にも行って、帰りにカフェとかでどうでもいい映画とかの話して、スポーツもして試合に出たり出られなくて悔しがったりして、バンド組んで練習したりライブやったり、スポットライト浴びてダンスパーティーで思い出を作って、火傷なんて気にしないで恋もして、仲良くなった女の子とイチャイチャして、人生やり直したいよ! やり直したいに決まってるじゃないかッ!! でも無理だ、できないんだ、積み重ねてきたものが無いんだ、やり方もわからないんだ、俺はあんたとは違うんだあああぁあぁぁあぁあああぁぁぁあッッッッ!!!!」


 応える者は居ない。誰も居ない。


「――――――――――ッ!!!!」


 泣いた。たった一人で、泣いた。

 周りには誰もいない。その慟哭を聞くものは、誰もいない。

 思い返せばいつも、ビンセントと一緒だった土砂降りの雨音だけが、ビンセントの叫びをかき消した。


 涙は雨に混ざり、泥の中へ染み込み、あるいは流れていく。


 ◇ ◇ ◇


 たっぷり一時間は泣き喚いた後、ビンセントは疲れ果てて眠っていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。


「こんな所で寝ていては、風邪を引きますよ。いくらまだ夏とはいえ、ね」


「…………」


 見知った男に起こされる。ウィンドミルだ。

 雨は上がっていた。

 ウィンドミルは首をかしげる。


「どうしたんですか? 幽霊みたいな顔をして」


 空は少しずつ青みを増している。夜明けだ。


「……幽霊? ……ハハハ、たしかに……そうだ。ここには、俺の居場所なんて……無い……」


 ビンセントは力なく嘲笑う。

 嘲笑うしかない。


「ビンセント君?」


「ここは地獄だ……。リーチェより酷い……。リーチェに帰りたい……あそこは、少なくとも……ここよりずっとマシだ。……友情があった。……笑顔も……たまにあった。誓いがあった。……ここには、何もない……ウィンドミルさん……お願いだ。俺を……俺をリーチェに帰してくれ」


 頬を、涙が伝った。

 もう嫌だ。一秒たりとも、こんな所に居たくない。


「そうですか。それなら話が早い。じつを言うと私もね、そのために来たんです」

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