第85話 渇きの海 その一

 四人は連れ立って会場を出る。

 ビンセントはまだ仕事があるので、入口で話していては邪魔だからだ。

 風は僅かに湿気を帯びている。

 雨が降るかもしれない。


「カーターさぁん!」


「オウ! なんだあんたら!?」


 気が付けば女の子の群れがカーターを取り囲んでいた。


「ぜひご一緒に二次会を!」


「お願いしますっ! カーターさん!」


 マーガレットとイザベラは顔を見合わせた。

 そして、同時に溜息をつく。


「訳がわかりませんわ……」


「私も……」


 入口に立つビンセントを見ると、何やら言いたげだ。

 しかし、勤務中の彼は何も言うつもりは無いだろう。 

 すぐに視線を正面に移し、立哨を続ける。


「なんだかよくわからんが、とりあえず行ってくるぜ!」


 女の子たちはカーターを取り囲むように夜の街に消えていく。


「ま、あれでも主賓みたいなもんだからなー」


 セーラは腕組みしてうんうんと頷いているが、何に納得しているのかはよくわからない。


「たくましいっちゃ、たくましいだろー? だまっている限りはさー」


 しかしカーターが黙っているのは、トレーニング中だけだ。

 言葉を話さないだけで、妙な声を上げることは多々ある。

 ビンセントによれば、寝ているときも酷くうるさいらしい。


 三人は連れ立って夜の街を歩く。

 とはいえ会場となった講堂は保養所と隣接しており、道路を一本渡っただけで戻ることができるのだ。

 保養所の入口近くの広場。


「あっ、おねえちゃん!」


 振り向くと、そこにいたのはククピタで出会った兄妹であった。

 マーガレットは腰を落とし、子供たちと視線を合わせる。


「お久しぶりですわ。お元気かしら?」


「うん! おねえちゃんも! あのおにいちゃんは?」


「残念だけど、まだお仕事ですわ。あなたたち、なぜこんな時間にカスタネに?」


 子供たちは事情を訥々と説明し始めた。

 じゅうぶんな時間的な余裕をもってククピタを出たはずが、道に迷って深夜になってしまったのだという。

 カスタネで働く母親に会いに来たと言うのだが……


「えっ」


 マーガレットは溜息をつく。

 さすがに、こればかりは理解の範疇を外れている。


「やれやれね。訳がわかりませんわ」


「とりあえず今夜は無理よ。もう遅いし、忙しいはずだもの」


 イザベラも呆れ顔だ。


「とりあえず……そうですわね。お風呂に入れて、今夜はわたくしの部屋に泊めて、明日ですわね」


 セーラがイザベラの裾を引っ張っていた。


「わたしも遊びたいなー」


 こうして、第二次カスタネ海戦は開始された。

 マーガレットにとって幸運だったのは、浴場の入口で入浴を終えたローズ・クロイドンとすれ違ったことだ。

 濡れたプラチナブロンドの長髪は、女であっても思わず心臓が高鳴ってしまう色香が漂う。

 当然男子からの人気も高い。そのうえ胸も大きい。

 彼女と一緒であれば、お胸ぺったんこ同盟は窮地に陥ったことだろう。


「おほほほほ! あなたの力はそんなものかしら?」


「余裕見せただけよ、余裕!」


 結果は引き分けとなり、勝負はマーガレットの部屋に持ち越された。

 子供たちがスヤスヤと眠る横で、過酷な陸戦は夜明け近くまで続く事になる。



 ◆ ◆ ◆


 ようやっと片付けも終わり、ビンセントはベンチに腰掛けて牛乳を飲んでいた。

 売店で購入したものだ。


 ……少し、疲れた。


 ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを開ける。

 今回の警備任務で垣間見た世界は、華やかで、賑やかで、それでいて楽しそうだった。


「…………」


 王都の部隊に移動させられ、不可解な任務に投入されたあの日……サラとイザベラに出会ったのは、完全に偶然だ。

 クーデターによって王宮を追われることになった二人だが、彼女らは平民のビンセントに良くしてくれた。

 魔法使いのプライドをかなぐり捨ててでも、単純に銃使いの戦闘力が必要だった、というのもあるだろう。

 しかし、情報操作によりクーデターは隠蔽され、世の中は何も変わらなかった。

 結局、住む世界が違う。


 スポットライトを浴びて、音楽を奏で、ダンスを踊る。

 そこには、様々な思いが交錯し、笑顔があり、やっかみがあり、とても眩しく見えた。

 もし、もっとみんなと一緒に居られたなら。


 ビンセントはかぶりを振る。

 ……少し、お貴族様との付き合いが過ぎたかもしれない。


 明日にはウィンドミルが来る。

 正規の護衛に交代し、サラたちはアリクアムを目指すことになるだろう。

 唯一の王族の、中立国への亡命。

 それは、王政の終わりを意味する。


 しかし、それでもこの国は、いやこの国に生きる庶民の暮らしは変わらないだろう。


「いい夜ね、ブルース」


 振り向くと、そこにはローズが立っていた。

 ステージでのベースギターの演奏は見事だったし、その後のダンスで女子の人気ナンバーワンだった。

 確かに美人だ。スタイルも良い。

 何よりも、その顔となりはアナを思い起こさせる。

 ビンセントの初恋の相手は、今や幸せな専業主婦だ。


 風呂上がりらしく、やや湿ったプラチナブロンドの髪からは石鹸の香りが漂う。

 彼女も牛乳瓶を持っていた。


「ご一緒して良いかしら?」


「どうぞ」


 ビンセントが腰をずらして場所を空けると、ローズもベンチに掛けた。

 すぐ近くで鼻孔をくすぐる石鹸の香り。

 音もなくローズは牛乳をゆっくりと一口飲んだ。

 僅かな動きでも、その揺れる胸は確かな存在感を主張する。


「……おぃし」


 指で髪をかき上げ、耳にかける仕草が妖艶な色香を纏っていた。

 ビンセントの胸が高鳴った。


「警備任務ごくろうさま」


 ローズの青い瞳がビンセントを貫く。


「いえ……ご協力ありがとうございました」


「立派だったわよ。ちょっとだけ、胸にきゅん、ってきちゃった」


「そ、そうですか」


 しばらくの沈黙。

 何か話したかったが、言葉がうまく浮かんでこない。

 焦るばかりで、時間だけが過ぎていく。

 実際には大した時間ではないのだが、焦りは時間間隔をおかしくする。


 ローズは軽い溜息をついた。細い指で横髪をかき上げると、耳に掛ける。


「わたし、あなたみたいな人、タイプなの」


「えっ……」


 そんな事を言われたのは、人生を通して初である。


「本当よ。優しいし、誠実だし、顔だって好み」


 ローズは潤んだ瞳で真っ直ぐにビンセントを見つめた。


「えっ……?」


 ローズの指がビンセントの襟もとに伸びた。

 思わず焦る。

 そこには、とても見せられない醜い傷跡が顔を覗かせているのだ。

 ローズの顔にも、驚きの色が見えた。

 しかし、すぐに笑顔になる。


「…………平気よ、こんな傷くらい。何とも思わないわ」


「…………!!」


 胸に、言葉にできない温かいものがこみ上げてきた。

 やっと出会えたのだ。

 この傷を気にしない女性と。


「ねぇ」


 ローズがビンセントの腕を掴んだ。柔らかな胸が腕に当たる。


「……一緒に、……飲まない?」


 ビンセントに飲酒の習慣はない。

 しかし、この時は迷わず飲むことを決めた。

 ローズはビンセントの手を引いて歩きだす。


 柔らかく、滑らかで、暖かい手だ。

 試しに軽く力を入れてみると、ローズも握り返してくる。


「…………!!!!」


 いつか望んだ夢が、叶った瞬間であった。

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