第82話 よだかの星 その一
「君、もしかして……?」
「オレっすか?」
廊下でカーターを呼び止めたのは、いかにも教師然とした壮年の男性だ。
白髪を頭の両脇でカールさせ、眼鏡を掛けている。
その奥から光る視線は、確かな知識と経験を伺わせた。
「もしかして、ボールドウィン家の……」
「確かにオレはボールドウィンっすけど。カーター・ボールドウィン。チェンバレンのお嬢様の家来というか、まあ護衛の兵隊っす。従卒とか執事じゃない」
本来なら休暇が明け次第、即座に脱走兵扱いであった。
ウィンドミルがどの程度まで手を回してくれているかによるが、極めて不安定な立場である。
そのウィンドミルは、明日このカスタネに訪れる予定だ。
「やはり! その顔つき、体躯、お父上に瓜二つだ。懐かしいな……」
教師は眼鏡の隙間にハンカチを入れ、涙を拭いた。
「親父をご存知で?」
教師は深く頷く。
「大変お世話になった。ボールドウィン卿があんなことになって、私は酷く落ち込んだものだよ。卿がいなければ、私はどうなっていたことか……私はね、今でも卿の無実を信じている」
「そうなんすか。オレは生まれてなかったんで、あんまり実感湧かないんすけどね。でも、お家取り潰しでフルメントムに流されたからこそ、お袋と出会ってオレが生まれたんだから、何とも言えませんや。お貴族様に興味もないし」
そう言うと、教師はばつが悪そうに頭を掻いた。
「確かにそうだが……君の父上が私の恩人なのは間違いない。申し遅れたな。私はサザーランド。学院の教授だ」
「よろしくっす」
差し出された手をカーターは握り返す。
サザーランドは少し痛そうな顔をした。
「チェンバレン君に付いているということは、しばらく滞在するのだろう? 今夜の夜会は、君の歓迎会ということにしたい。来てくれるね?」
◆ ◆ ◆
「――だ、そうだ。ちょっくら行ってくらぁ」
「へぇ」
カーターが夜会に呼ばれたようで、ビンセントは久々にイビキに悩まされずにすむだろうと、楽観的に構えていた。
とにかくカーターはうるさい。とてもうるさい。
「わたしのこと忘れるなよー。わたしはイザベラのメイドでセーラ、っていう設定なんだからなー」
「わかってますって! ボロは出しませんよ、セーラちゃん!」
「はーい」
燕尾服に蝶ネクタイ等一式がハンガーに掛けられている。
特大サイズだが、学院にはこんな物まで備えてある事に驚いた。
「いや、普通は無ぇよ。オレはパンツ一枚に至るまで特注サイズだからな」
事実、カーターは既製品のブリーフパンツを無理に履いているので、極めて不快で見苦しい。
パンツのゴムが痒い、と完全に全裸で室内をうろつく事もあり、ビンセントはその度に頭を抱えていた。
これでも気を遣っているとのことだが、やはり配慮不足と言わざるを得ないだろう。
部屋に一人の時は常に全裸だという。
なお、大会に出る時は一張羅の『ブーメランパンツ』とやらを履くらしい。
どうでも良い。
「親父の、……らしい。親父も昔、王立学院に居たんだと」
そう言うと、複雑な表情でカーターは燕尾服の襟を撫でた。
ボールドウィン家がお家取り潰しになった際、何があったのかをカーターは語らない。
全ては、過去のこと。
生まれてすらいない時代の出来事だ。そこに感情の入り込む余地はない。
カーターはそう言う。
しかし、あえてそれを言う時点で、多少強がりが無いわけでもないだろう。
複雑な感情を抱えているはずだ。
「……どうよ!」
カーターが燕尾服に着替えると誂えたようにピッタリで、よく似合っていた。
筋肉を強調する無駄なポージングなどせず、落ち着いて立ってさえいれば、の話だが。
「早めに行くぜ。主賓が遅れちゃ、格好悪いからな」
カーターは部屋を出て行く。
まだ日は高い。
夜会は日没からなので、さすがに早い気がする。気が急いているのだろう。
「ブルースー、喉かわいたー」
「はぁ。俺も少し」
ビンセントはコーヒーを淹れようと、掛けていたベッドから立ち上がる。
カーターの気持ちの問題であり、夜会そのものはビンセントに直接関係ない。
せいぜいゆっくり休ませてもらう事にする。
◇ ◇ ◇
コーヒーの芳醇な香りが漂う。
保養所のコーヒーは飲み放題で、本物の高級豆が使われている。
さも主人の言いつけです、といった顔で取りに行けば、誰にも咎められる事はない。
カップに少し口を付ける。
僅かな酸味と、まろやかな舌触り。それでいて後を引かず、すっと胃に落ちていく。
素晴らしい味だ。
普段飲んでいる、タンポポの根を炒った代用品とは格が違う。
かつては平民の家でも、コーヒーは日常的に飲まれていた。
しかし、大陸戦争が長引くに連れ市場への供給量は減っていき、今では戦前の何倍もの値が付いている。
とても日常的に飲めるものではない。
この位の役得は許されても良いだろう。
「ね、ねぇブルース!」
振り返ると、イザベラが立っていた。
両手を前で組み、落ち着かないように身体を揺すっている。
トイレを我慢しているらしい。
用があるならその後にすればよいと思うが、わざわざそれを指摘するのも野暮だ。
「明日、新しい制服が届くの。近衛騎士団の! ブルースが好きなハイテク満載の新型よ! 見てくれる?」
「ええ、もちろん。……ハイテクですか」
服にハイもテクノロジーも無いと思うが、今までの制服も拳銃弾を防いだ実績がある。
量産されれば兵士の生存率も上がるはずだが、マジックアイテムならば難しいだろう。
キヌクイムシの粘液に対策がなされていれば、少し残念だ。
「それから、これ! 受け取ってくれる?」
「……はぁ、ありがとうございます。頂きます」
イザベラが差し出したのはプロテインだ。
カーターとの付き合いで、イザベラも毒されているらしい。
マーガレットからももらったし、流行っているのだろうか。
品物自体は嬉しくもなんともないが、気持ちとして受け取っておく。
カーターからはよく「お前は筋肉が足りないんだッ!」と言われるが、イザベラもそう思っていたらしい。
なんにせよ、そうそう短期間で効果が現れる訳ではない。
目が合うと、イザベラは顔を赤らめて目を逸らした。
「あのね、今夜ね……その……」
「夜会ですね。イザベラさんも行くんですか?」
イザベラは頷く。
ビンセントはイザベラのドレス姿を想像した。
とても綺麗な事だろう。
とはいえ、さすがにこんな時間から着替えている誰かさんとは違い、今は普通の学院の制服姿だ。
「講堂で、待ってるから!」
それだけ言うと、イザベラは走り去った。
ものすごく速い。廊下を走って、咎められなければ良いが。
「平民が参加できるわけ、ないじゃないですか……」
答える者はいない。やむを得ず作業を続ける。
「よし」
ビンセントがカップにコーヒーを全て注ぎ終わった時、視界の隅からトレイに手が伸びて何かを置いた。
「?」
トレイにはタルトが一つ。
振り向くと、プラチナブロンドに碧眼の、少しアンニュイな表情をした女が立っている。
服装はイザベラと同じ学院の制服だ。
「これ、この間のお礼。落ちそうになったフランクフルトを助けてくれたでしょう?」
「ああ、あの時の……」
イザベラとマーガレットのケンカ騒ぎの時に、一緒に屋台に並んだ女だ。
アナ――ビンセントの初恋の女性と雰囲気が似ており、よく覚えている。
ぱっと見の外見だけならイザベラも近いものがあるが、もちろん目鼻立ちは異なるし、何よりも雰囲気がまるで異なる。
「引き分けに賭けた人、少なかったみたいね。けっこうお小遣い増えちゃった」
「ははは、それは良かった」
女はいたずらっぽく笑う。笑い方もどことなく、アナに似ていた。
「イザベラもバカね。でもわたし、あの子のこと嫌いじゃないの」
「俺もです」
女はビンセントに右手を差し出す。
「わたし、ローズ。ローズ・クロイドン。ローズって呼んでね。あなたは?」
「ブルース・ビンセントです」
ビンセントはローズの手をしっかりと握った。
細くしなやかな指が、優しく握り返してくる。
ビンセントは、自分が無意識のうちに階級を言わなかったことに気が付いた。
とはいえ、階級章を見れば一目瞭然ではある。
「よろしくね、ブルース。そうそう、そのタルト。プロテイン入りよ」
「………………はぁ、ありがとうございます」
去り際、ローズがひらひらと手を振った。ビンセントも振り返す。
「…………?」
プロテイン、大流行の兆しだろうか。
◇ ◇ ◇
コーヒーカップとタルトをトレイに載せ、歩く。
カップは二つ。
一つは自分で飲むためのブラック。
もう一つはサラのために砂糖とミルクをたっぷり入れてある。
ついでにコンデンス・ミルクなど投入してみた。
こういった調味料も下手な喫茶店よりも充実している。特に砂糖は不足がちで、街で買えばかなりの値段がする。
国有財産とはいえ、王女のために使うのだから文句を言われる筋合いはない。
ドアの前に立ち、ノブに手をかけようとしたその時だ。
「ちょっと、ブルース」
「はぁ」
振り返ると、マーガレットが立っている。
黒のイブニングドレス。
裾は踵近く、背中の大きく空いたホルターネックだ。
「どうかしら?」
マーガレットは羽の扇子を手に、気取ったポーズを取ってみせる。
深いスリットから覗く太腿に目が行く。
「高級な服は見慣れませんので、正直よくわかりません」
「あら、そう。つまらないわ」
マーガレットは口を尖らせる。
「でもまあ、単純に綺麗です。お似合いですよ」
マーガレットは一瞬仰け反ると、唇を歪ませた。
「おほ、おほほほほ、でしょうね、でしょうね! おほほほほ!」
マーガレットはビンセントのカップに手をのばすと、コーヒーを一気に飲み干した。
熱くないのだろうか。
「それじゃあ、後でね。おほほほほほほほほほほほほほほほ!!!!」
マーガレットは踵を返すと、足早に立ち去った。
カツカツとヒールの音が廊下に響く。
ドアが開き、サラが顔を覗かせる。
「あいつ、さっきから廊下でカツカツ、カツカツ、うるさかったんだよなー。やっと行ったかー」
サラはトレイからコーヒーとタルトを取ると、ベッドに掛ける。
そのままタルトにかじり付いた。
「あっ」
「モグモグ……どうしたんだー?」
「いえ、なんでも」
サラは甘いコーヒーをふー、ふー、と冷ますが、なかなか口をつけない。
かなりの猫舌である。
「…………」
さすがに子供相手に、今さら返せとは言えない。
一つしかないとなれば、サラは自分のために持ってきたと素直に思うだろう。
少し考えればこうなることは、事前にわかったはずだ。
その場で食べるか、あらかじめ切り分けるのが正解だった。
……判断力が落ちている。やはり疲れが溜まっているらしい。
「おまえは飲まないのかー? コーヒー」
空になったカップを見つめる。端には、わずかに口紅が付いていた。
マーガレットは一体何をしに来たのだろうか。
「淹れ直して来ます」
ビンセントは再び厨房へ向かう。
◇ ◇ ◇
コーヒーを淹れようと準備をしていると、後ろから声がかかった。
男は初対面だったが、その服装は馴染みのもの。
学院施設の警備に出向している軍人だ。
「お前、こんな所で何をしているんだ。とっとと来い!」
「はぁ」
「はぁじゃないだろ! 行くぞ!」
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